閉ざされた門、開かれた門

*霊感の言葉*

黙 3:7-8
聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた

 初代文集105
この門は、1844
年に、イエスの聖所における奉仕が終わったときに開かれた。そのときイエスは立ち上がって、聖所の門を閉じ、至聖所の門を開き、第二の幕の中に入られた。今彼 は箱のそばに立っておられる。そして、今、イスラエルの人々の信仰はここに向けられている

 初代文集107
現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844
年に開かれた至聖所の門を閉じようとしてきた。そこには箱があって、その中には主の指で書かれた十誡の石の板が納められている。

 初代文集151
真の信仰は、約束された祝福が、実現しそれを感じることができる前に、それをつかんで自分のものとする。われわれは信仰をもって、第二の幕の中に、われわれの願いをささげ、信仰によって、約束された祝福をつかみ、それを自分たちのものとして主張しなければならない。それから、われわれは、祝福を受けることを信じなければならない。なぜならば、信仰が祝福をつかんでいるのであって、み言葉にあるとおりに、それはわれわれのものだからである。

 大争闘下147
しかし、
聖所の問題を研究するにつれて、より明白な光が与えられた。今や彼らは、二千三百日が終わる一八四四年は、 重大な危機を画するものであると信じたことが正しかったことを知った。しかし、人々が千八百年にわたって神に近づく道を見いだしてきたところの、望みとあわれみの扉が閉じられたことは事実であったが、もう一つの扉が開かれ て、至聖所におけるキリストの仲保によって、人々に罪のゆるしが与えられるのであった。

彼の務めの一部は終わったが、それは、それに代わってもう一つの働きが行なわれるためにほかならなかった。

依然として天の聖所には「開いた門」があり、そこでキリストは、罪人のために奉仕しておられるのであった。

大争闘下147
イエスの仲保による祝福にあずかる者は、贖罪の大事業をなさるイエスに、信仰によって従っていく人々である。一方、この働きに関する光を拒む者は、その祝福にあずかることができない。

大争闘下219
審判が指定されていた時、すなわち、二千三百日の終わる1844年に、調査と罪の除去の働きが始まった

 大争闘下216-218
完全で十分な義認(ゆるし)と罪の除去、新しい契約の完全な成就。