金持とラザロ

ルカ16:22,23
「この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」

金持ちとラザロについてのこの話は、字義通りに本当であるか、たとえ話であるかです。それが、おそらく字義通りではあり得ないという4つの理由があります:

  1. 貧乏人は死に、アブラハムのふところへ、天使たちによって連れて行かれました。アブラハムの字義通りのふところが、死んだ義人の住まいであるとは、だれも信じていません。それは、比喩的か、たとえ話の表現です。ところで、天使たちは、聖徒たちを集めますが、マタイ24章31節によれば、それは、死ぬ時ではなく、イエスの再臨で起きます。

  2. 天国と地獄は、淵で隔てられていて、お互いに談話することができました。この話が、救われた人と失われた人の字義通りの本当のことであると信じる人は、おそらく、この世界に誰もいないでしょう。

  3. お金持ちは、肉体をもって地獄にいました。彼は、目・舌などを持っていました。彼の肉体は、墓でなく、どのようにして地獄の火の中へ入ったのでしょうか?悪人の肉体が、死ぬとすぐに地獄へ行くとは、誰も教えていません。この話は、字義通りであるはずがありません。

  4. ラザロの指先を水でぬらし、金持ちの舌を冷やすために、火炎で苦しんでいる自分のところにつかわして下さいというアブラハムへの願いは、明らかに字義通りではありません。どれだけの水分が残っていて、それがどれだけの慰めを与えるのでしょうか?この全体の話は、非現実的で、比喩的です。

金持ちは、疑いなく、たとえ話の中で、ユダヤ人を表わしています。

なぜなら、ユダヤ人だけが、「父、アブラハム」に祈るからです。貧乏人は、真理を受け入れる価値がないとみなされた異邦人を象徴していました。マタイ15章27節において、カナンの女たちは、自分たちがユダヤ人の食卓の貧乏人であることを知っていました。

キリストは、おそらく、たとえ話の中で使うために、ラザロの名前を選ばれました。なぜなら、あとでキリストは、実際に、死人の中からラザロをよみがえらせたからです。そして、このたとえ話全体の最高潮の要点は、31節の中に見られます。「アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえって来る者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。そしてユダヤ人は、ラザロと名づけられた人が、彼らの前でよみがえらされた時でさえ、信じませんでした。