聖徒の忍耐

*霊感の言葉*

スタディバイブル注解新185-187
ルカ18 : 1-8.「同情に満ちた友―『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』というやもめの祈りは、神の子らの祈りを代表している。…

彼らは、罪を犯しはしたが、キリストが彼らの罪の重荷をご自分の魂の上に背負ってくださった。そしてイエスは人類を、火の中から燃えさしのように取り出された。イエスは、ご自分の人性によって人と結合され、また、ご自分の神性によって、無限の神と一つに結ばれておられる。助けが、滅びようとする魂にさしのべられた。敵は責められたのである。…もし、わたしたちが、神のご用のために自分をささげているならば、神は、なんの備えもなさらないようなところへ、わたしたちをおかれることはない。わたしたちがどのような境遇にあっても、導き手であられる主がわたしたちをお導きくださる。どんな問題であっても主は確実な相談相手である。また、どんな悲しみ、死別のなげき寂しさの中にあっても、同情にあふれた友なるイエスがわたしたちとともにおられる(キ実 147, 150, 154)。

18 : 1-8.「真実な祈りは退けられない―悩み苦しみに会うものはすべて神を呼び求めるとよい。冷酷な人びとにたよることをしないで、創造主に、あなたの求めを申し上げなさい。砕けた心をもって、神に来るものは、だれ一人しりぞけられることはない。心からの祈りは、決して消えてしまうものではない。天の聖歌隊の賛美を受けておられる神は、弱々しい人間の叫びをも聞かれる。わたしたちが、へやの中で心の願いを申し上げたり、あるいは、道を歩きながら祈ったりすると、そのことばは宇宙の王のみ座にまで達する。それはだれの耳にも聞こえないであろうが、消え去ってしまったり、忙しい仕事に取りまぎれて、なくなったりしない。何も、人の心の願いを消し去ることはできない。祈りは街頭の騒音や群衆の混雑をこえて、天の宮廷へと上っていく。わたしたちが語りかけているのは、神である。そして、神は、わたしたちの祈りを聞かれるのである。…

神の民のささげる祈りを、神がお聞きにならないという恐れは全くない。わたしたちは、誘惑や試練に会ったときに、失望落胆におちいり、熱心に祈りつづけなくなってはいけない。…この母親に、これほどの求めてやまぬ心を起こさせたのは、キリストご自身であった。裁判官の前で訴えるやもめに、勇気と決意を与えたのもキリストであった。又、幾世紀もの昔、ヤボクの渡し場で、不思議な格闘の際に、ヤコブに同じ不屈の信仰を与えたのもキリストであった。こうして、ご自身が人の心にお植えになった確信に対して、主は、必ず報いをお与えになったのである。…これらの天の使いたちによって、人の子らのことばと行ないがもれなく記録されている。神の民に対する残酷と不正行為、悪人の権力によって、神の民に加えられた苦痛もみな天に記録されるのである(キ実155-158)」。

大争闘下390
「しかしヤコブは、彼にすがって、祝福を求める。天使は、『夜が明けるからわたしを去らせてください』と言うが、ヤコブは、『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』と叫ぶのである。なんという確信、なんという堅忍不抜の精神が、ここにあらわされていることであろう。もしもこれが、高慢で僣越(せんえつ)な要求であったならば、ヤコブは直ちに滅ぼされたことであろう。しかし彼の要求は、自分の弱さと無価値なことを告白しながらも、契約を果たされる神の憐れみに信頼する者の確信であった。『彼(ヤコブ)は天の使と争って勝』った(ホセア12:4)。この罪深く、誤りを犯した人間は、へりくだりと悔い改めと自己放棄とによって、天の君と闘って勝ったのである。彼はそのふるえる手で、神の約束をしっかりとつかんだ。その時、無限の愛のお方は、罪人の願いを退けることがおできにならなかった。彼の勝利の証拠、そして彼の模範にならう他の人々への励ましの証拠として、彼の名が、彼の罪を思い起こさせるものから、彼の勝利を記念するものへと変えられた。そして、ヤコブが神と争って勝ったということは、彼が人にも勝つという保証であった。彼はもはや兄の怒りに直面することを恐れなかった。なぜなら、主が彼の防御だからであった」。