義を掲げる危険性

*霊感の言葉*

不信仰の形はいろいろある。なぜなら、サタンがあらゆる機会をねらって自分の何らかの性質を押し込もうとしているからである。生まれつきの心の中には、一生懸命に努力して成功すると、称揚されたり威張ったりする傾向がある。しかし自己称揚が神の働きに入る余地は全くない。あなたがどれほど知性があろうと、どれほど熱意をもって熱心に働こうと、誇ろうとする自分の傾向を追い払って神のみ霊に導かれるために自己を明け渡さない限り、敗北の地にいるのである。魂における霊的な死は、霊的な誇りとゆがんだ経験によって証明される。そのような経験を持つ人々は、自分の歩む道をまっすぐにすることがない。誇りが育てられると、もし受け入れられれば祝福と恵みとなる頭脳そのものが、汚染されてしまう。また、もし栄光が神に帰されるなら、命から命に至る香りとなる勝利そのものが、自己称揚によって濁ってしまう。これらのことは小さな事、気をつけるほどのこともないように見えるかもしれないが、このようにしてまき散らされた種は確実に刈り入れられる。サタンが彼の仕事に使うのは、あまりにもありふれているので、ほとんど気に留められることがないような小さな罪に見えるのである(MS 47, 1896年)

信仰は、神が罪人にゆるしを与えられる約束の条件である。信仰の中に救いの功績となるような何らかの徳があるのではない。しかし、信仰はキリストの功績をとらえるから、罪に対する救済策が与えられるのである。信仰は、罪人の不義や不足の代わりに、キリストの完全な従順を提示することができる。罪人が、キリストは自分の個人的な救い主であると信じると、必ず果たされるキリストの約束に従って、神はその罪をゆるし、無償で彼を義とされる。悔い改めた魂は、自分の義認が、自分の身代わりまた保証人としてのキリストが自分のために死なれ、自分の義と贖いとになられたが故になされたことを認める。

・・・義は律法に対する服従である。律法は義を要求し、罪人はこれを負債として律法に負っている。しかし彼はこれを支払うことができない。彼が義を得ることのできるただ一つの方法は、信仰によることである。信仰によって彼は、神の所にキリストの功績を持っていく。すると主は、み子の従順を罪人の勘定書に入れられる。キリストの義が人間の過ちの代わりに受け入れられ、神は、悔い改めて信じている魂をゆるし、義とし、彼が義であったかのように扱い、み子を愛するように愛される。このようにして信仰は、義とみなされるのである(RH 1890年 11月4日)