祝福された教会となるために

*霊感の言葉*

祝福の山153~157
自分本位の狭い批判の空気は、けだかく寛大な感情を押えつけ、人々を自己中心的な裁判官や心の小さなスパイにしてしまう。パリサイ人は、こういう種類の人々であった。……「なぜ、兄弟の目にあるちりを見(るのか)。」(マタイ 7:3)

「さばくあなたも、同じことを行っている」という宣告も、差し出がましくその兄弟を批判し非難する者の、罪の大きさを言い表すには十分ではない。イエスは、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」と言われた(マタイ 7:3)。

この言葉は、他人の欠点をすばやく認める人を描写している。彼は、品性や生活の中に欠点を見つけたと思う時、非常に熱心にそれを指摘したがる。しかし、イエスは、このクリスチャンらしくない行為をすることによって形成される品性の特徴は、批判された欠点と比べる時、ちりに対する梁(はり)のようなものであると言明なさる。ごくささいなものを世界大の大きさにしてしまうのは、寛容と愛の欠如である。キリストヘの全き降伏という悔い改めを経験していない者は、その生活に、救い主の愛の、心を和らげる力をあらわさない。彼らは、福音の穏やかな礼儀正しい精神を誤表し、キリストが代わって死なれた尊い魂を傷つけるのである。救い主がお用いになっている例によれば、批判的精神をほしいままにする者は、彼が非難している相手よりも、もっと大きな罪を犯しているのである。なぜなら、彼は同じ罪を犯すばかりでなく、さらに高慢とあらさがしの罪を犯しているからである。……

最も不幸な結果に導く罪は、パリサイ主義を特徴づけていた、冷たい、批判的な、許すことをしない精神である。宗教的経験に愛が欠ける時、そこに、イエスはおられない。イエスのご臨在の輝かしい日の光は、そこには見られない。活発な活動も、キリスト抜きの熱心さも、その欠乏を補うことはできない。他人の欠点を見出すのに驚くほど鋭い識別力はあるかも知れない。しかし、この精神をいだくすべての者に、イエスは、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」と言われる(マタイ7:5)。悪事を行った者が、まっ先に人の悪を思うのである。

 

  • 祝福98 「パリサイ人の抱いていた原則は、どの時代の人間も持っている特質であるパリサイ的精神は人間の性質であるだから救い主がご自分の精神や方法とラビのそれとの対照を示されたとき、その教えはどの時代の国民にも同じくあてはまるものであった」。
  • ミニストリー・オブ・ヒーリング465 「同情や助けを要する男女を見るとき、「あの人たちは価値があるだろうか」と問わず、「どうしたらあの人を助けることができるだろうか」と尋ねるだろう。富める者、貧しい者、高い者、低い者、自由のある人もない人も共に神の財産である。人を救うために自分の生命をお与えになったキリストは人間のひとりびりに測り知れぬ価値を認めておられる。十字架の奥義と栄光から人間の魂の価値に対するキリストの評価を認識しなければならない。そうするとき、どんなに堕落した人でも、冷淡にしたり軽蔑したりするにはあまりに高い価が払われていることを感じ、わたしたちと同じ人間を高く神のみ座にまで導く働きの重要性がわかるであろう」。
  • ミニストリー・オブ・ヒーリング478-480

「…….人間同志がよくやるような相手の取り扱い方を、キリストがわたしたちになさったのであれば、わたしたちのうちの、いったい何人が救われたであろう。