断じてあきらめるな

【礼拝説教内容】
題:「断じてあきらめるな」 話:当山悦子

神様は私たちに三つの教科書を与えておられるというのです。では、その三つの教科書とは何でしょうか。
まず、一つ目は 聖書です
二つ目は 自然界
三つ目は 人生の色々な体験・経験
これは教科書だというのです。
では、これら三つの教科書を通して私たちが何を学ぶことを、神様は計画しておられるのでしょうか。

「神は愛である」ということを学ぶことが神様のご計画なのです。
確かに聖書は「神は愛である」と私たちに告げています。どのように愛であるかより具体的にです。私たちは聖書のみ言葉を通して罪の赦しの確証を得、慰められ、励まされ、希望が与えられるのです。

また、聖書のみ言葉を通して、日々自分自身が神様の愛に取り囲まれて生かされていることを実感し、知ることができるのです。

自然界も、「神は愛である」と私たちに告げています。「キリストへの道」の1ページに「自然と啓示は神の愛を証ししている」とあります。啓示と言うのは聖書のことです。自然と聖書は神の愛を証している。
連なる山々、大小さまざまな樹木、流れる小川、せせらぎ、また四季折々に咲く美しい花々、つぼみ、また道端に咲いている小さな草花、そのどれもが「神は愛である」と私たちに告げているのです。

五月には百合の花が咲きそろいますね。百合の花びらに神様は貴方に対するメッセージをお書きになったとあるのです。その言葉をみてみましょう。

祝福の山」80ページです。
「『野の花を考えよ、』『鳥を見よ』と仰せになるのは、花を作り、すずめに歌をさずけられたお方である。自然の美しさの中から、学者の知っている以上の神の知恵を学ぶことができる。ゆりの花びらに、神はあなたにおくることばをお書きになった―そしてそれは不信と自我と思いわずらいを捨て去る時に、はじめてあなたの心が読むことのできる言葉である。」

 私は百合の花を見るとこのみ言葉が思い浮かび、同時に百合の花びらに神様が自分に対してどんなメッセージをお書き下さっているのか早くそれが読み取れるようになりたいと思うのです。

また、天体も神は愛であると私たちに告げています。詩篇記者はいいました。
「諸々の天は神の栄光を表わし、大空はみ手の業をしめす」と。

詩篇の何篇ですか?19編です。では、その1節から4節までご一緒にお読み致しましょう。

「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。」

この詩篇記者は実に如実に表わしていますよね。
「話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく。」
 まさにその通りです。

高校一年生の時、私はまだ神様を知りませんでした。ある日、学校から悩みながら帰って来て、その夜天を仰いだら、全天に星が輝いていたのですね。それを見た瞬間、「あー、神様がおられる」と思いました。同時に、神様がおられるなら、「私、悩むことなんかないよ」と、瞬時にその悩みから解放されたことを憶えています。実に話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは、私たちの魂に伝わって来るのです。

また、人生の色々な体験、経験、これも教科書だというのです。この教科書を通しても、「神は愛である」ということを学ぶことが、神さまの御計画なのです。

ところが人生というのは、嬉しい、楽しい、幸せということだけではありません。つらく、悲しく、苦しいこともあるのです。しかし、このつらい事が、悲しみが、苦しみが、その人にイエス様との出会いを与えたという、そのような経験をされた方がたくさんいらっしゃるのです。詩篇記者も言っています。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と。詩篇119の71篇です。

石川教会の一人の姉妹が突然夫を亡くされ、あまりの突然のことに彼女は悲しみのどん底に突き落とされたのです。その夜、彼女は泣きながら一人、神さまの御名を呼び求め祈っておられたのです。その時非常に大きな手が祈っている彼女の手の上に置かれたのです。一瞬彼女はその手を見たのです。これって目の錯覚ですか。

次のみ言葉をごらんください。

祝福の山12ページ
「神は、わたしたちが傷つき破れた心をもって、無言の悲しみに圧倒されるままに放置しておかれない。神はわたしたちに、目をあげて、愛のやさしいみ顔を見るように望まれる。聖なる救い主は、涙で目がくもって、主を見分けられない多くの者のそばに立たれる。主はわたしたちの手をにぎり、……」

この経験なのです。悲しみのふちに陥っている彼女のかたわらに、イエス様がお立ちになって、「わたし、あなたのそばにいるよ」とご自分のご臨在を一瞬彼女にお示し下さったのです。そして、彼女の心に上を見上げるようにと告げておられるのです。

今朝はこの三つ目の教科書、人生の色々な体験・経験を通して、神さまの愛、主のみ名は堅固なやぐらであるということ、また信仰を働かせることの大切さ、最後まであきらめない事などについて学んでみたいと思います。神様は、「これらの事を心に留めよ」とおっしゃっています。

沖縄で一番最初の女医さん―女のお医者さんになった方は千原シゲ子さんとおっしゃる方だそうです。後で分かったことですが、その方はクリスチャンであったのです。その方が90才の時に、長年の医者としてのお働き、功績が認められて国から表彰されることになったのです。その時記者がインタビューを行っていました。

「千原先生、長年医療に従事して来られて一番印象に残っていることはなんですか」と。記者のこの質問にその先生がどんなことをお話になるのか、私は非常に興味をもって、テレビの画面に見入っていたのです。その時その先生は、おもむろに話しはじめられました。

「あれは終戦直後、私がある村の診療所に努めている時だった。ひとりの若い嫁が姑や隣近所のおばさん達に背中を押されるようにして、私の診療所に連れて来られた。姑が言った。『先生、くろんぼうに乱暴されたかもわかりませんので診て下さい』と。若い嫁は下をうつむいて、『やられてない、やられてない』と首を横に振っていた。その時私は、この嫁以外の人は皆診療所から出てもらい、庭の木の下に待たせておいた。そしてその嫁だけを診療所、そして診察室に入れた。診察してみると、紛れもなく乱暴されたあとだった。私は手当てをした後、その嫁と一緒に診察室を出て、診療所を出て、待たせておいた人々の前に立ってニコニコしながら言った。『なんにも心配いりませんよ。乱暴はされていませんでした』と。人々は『あー、良かった』と一応に胸をなでおろして帰って行った。」

「あれは嘘だったが、神様は私のあの嘘を赦して下さったと思う」と言われたのです。

長年の医者としてのお働きの中には色んなことがお有りだったでしょうが、一番印象に残っていることとして、その先生はそのことをお挙げになったのです。私はその先生のそのお話に非常に感動し、胸がジーンとなりながら、見入っていたのです。その先生は医者としての立場を生かして、その女性を全的に守って下さったのです。心ない人々の白い眼、ひそひそと囁かれる噂話、悪いレッテルを貼られることから、生涯全的に守って下さったのです。

次のみ言葉をごらん下さい。

ミニストリー・オブ・ヒーリング103ページ
「人と交際する時、その人の経験の中に、人間の目には封ぜられた部分があることを知らなければならない。その記憶の中には、好奇心にもえた目から厳重に守られている悲しい歴史があるものである。」

私がその先生のお話に非常に感動したのは、このみ言葉が頭の片隅にあったという事もさることながら、私はそれとは全く逆の事例も知っていたからなのです。

終戦直後沖縄では、あのような事件が多々あったのです。今なら即警察沙汰、新聞沙汰になるところですが、当時は「恥をかきたくない」という思いもあって、泣き寝入りをした時代なのです。何十年も経って一人の女性がイエス様と出会って、クリスチャンになったのです。その方は、ティーンエイジャーの時に受けた傷が時々心でうずくのでした。そこでその方は、クリスチャンになったので、そのことを教会の先生に話したのです。ところが話したということは決してその方の心に平安を与えることはせず、かえってその方の心を苦しめる結果になったのです。

次のみ言葉をごらん下さい。

教会への勧告190ページ
「われわれは、イエス以外のだれをも腹心の友とすべきではない。」

私はこのみ言葉を皆さまにご紹介するために、あえてこの逆の事例をも話させていただいたのです。「腹心の友」というのは心をさいて話す友のことです。これは決してお互いの交わりを、神様は否定しておられるのではないのです。お互いに交わり、祈り合って、励まし合ってみ国を待ち望むことは神さまのご計画なのです。しかし、そういう中にあって「腹心の友はイエス様ですよ」ということなのです。

では、このみ言葉の全体分を見てみたいと思います。

教会への勧告190ページ
「小さい事柄に神は関心を持たれる。祈りの尊い特権を、正しく評価し活用する者は少ない。われわれは、イエスの所に行って、すべての必要を告げるべきである。大きい悩みと同様、小さい心配事や困ったことを彼に訴えることができる。何が起こってわれわれの平安を乱し、われわれを苦しめても、それを祈りによって主の所に持って行くべきである。われわれがたえずキリストのご臨在の必要を感じる時、サタンは誘惑する機会をなくしてしまう。われわれの親友であり、最も同情に満ちたお方、イエスから、われわれを離しておこうと、サタンは絶えず働いている。われわれは、イエス以外のだれをも腹心の友とすべきではない。イエスには自分の心にある事を全部打ち明けても大丈夫なのである。」

これらのみ言葉は、私たちを守るための神様の愛のご配慮によるものなのです。先ほどのみ言葉もそうです。
「人と交際する時、その人の経験の中に、人間の目には封ぜられた部分があることを知らなければならない。その記憶の中には、好奇心にもえた目から厳重に守られている悲しい歴史があるものである。」

「傷ついた人をそれ以上傷付けてはなりませんよ」と、その人を守るための神様の愛のご配慮によるお言葉なのです。私たちはクリスチャン生活の中でこれらのみ言葉を、しっかりと心に留めておかなければならないでしょう。

次に「主のみ名は堅固なやぐらである」ということについてです。
箴言18:10に「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る」とあります。

今から30数年前、八重岳に山城シズさんという70代の方がいらっしゃいました。戦前のお生まれの方で、決して高い教育を受けられた方ではありませんでしたが、しかしその方のイエス様に対する信仰心、信頼心は非常に強いものがおありでした。ある時我が家の家庭礼拝でその方がご自分の体験を証しされたのです。彼女が60代の時、荷物を持って頭に乗せ、那覇の国際通りをバス停留所に向かって歩いておられたのです。その時一台の乗用車が脇に止まって、「どこまでですか」と声をかけられました。「コザまでです」と答えると「僕もコザに行くのでついでですから、どうぞ」と言われたのです。彼女は「バスで行きます」と断り、バス停留所に向かって歩き続けました。車はまたついて来て、「ついでですから、どうぞ」と言われたのです。彼女は「直行のバスがあるから」と断りました。するとその車は少し前に行って止まり、運転手は降りて後ろのドアを開けて待っておられたのです。そしてシズさんが近づくと「荷物重たいでしょう」と頭から降ろし車に乗せたのです。そしてシズさんもその車に乗ったのです。

車は国際通りを進んで行きました。シズさんは、後ろの座席でゆっくりしておられたのです。しばらく言ったところでシズさんは、「あれ?この車はコザには向かってないんじゃないか」と思ったのです。なぜなら車もあまり通っていない山道を進んでいたからです。その時になって初めてシズさんは自分が騙されていることに気が付いたのです。

ここで女性の皆さんにお尋ね致します。もし、あなたならこういう場合、どうなさるでしょうかということです。私なら「大変なことになってしまった。どうやって逃げようか。いつドアを開けて飛び降りて逃げようか」と逃げることだけを考えていたと思います。では、シズさんはどうなさったでしょうか。シズさんは信仰で対応されたのです。シズさんはまず歌を歌いました。

「気をつけましょう お手々、あなた何をするの、主は天にいて見ておられます、気をつけましょう お手々」

「気をつけましょう 足を、あなたどこへいくの、主は天にいて見ておられます、気をつけましょう 足を」と。

一番から三番、四番まで声に出して、その男の良心に訴えるために歌ったのです。

しかし、男はまだ車を走らせています。次に、シズさんは神のみ前に主の祈りを祈ったのです。その時も大きな声で祈りました。男はまだ車を走らせています。次にシズさんは自分の信仰をふるいたたせる意味においても、「♪主われを愛す、主は強ければ我弱くとも恐れはあらじ、わが主イエスわが主イエス♪」と歌ったのです。

車はある地点まで来て止まりました。外を見ると車一台通らない、人一人通らない、雑木林の中です。男はエンジンを切って車を降り、シズさんが座っているところのドアを開け、シズさんを車から引きずり降ろそうとしました。その時シズさんは座っているシートを(このように)つかんで、「イエス様―、イエス様―、イエス様~」と叫んだのです。相手は30代から40代のがっちりとした男性です。しかも立っています。こちらは60代の女性、しかも座っています。どちらが力を入れやすいかと言うと当然立っている側です。

男は腰をかがめ、シズさんを引きずり降ろそうと必死です。その時、男の顔がそこらへんに来たので見たら、その顔は前身の力の故に真っ赤にしていました。それでもシズさんはシートをつかんで「イエス様―、イエス様~」と叫び続けたのです。男はどんなに引きずり降ろそうとしても、シズさんを引きずり下ろすことが出来ず、力負け、根負けしてドアをしめました。そして運転台の方にまわってエンジンをかけ、「コザまで送るよ」と言いました。シズさんが言いました。「コザまで送らんでいい。バス停留所で降ろしてちょうだい。わたしバスで帰るから」と。

シズさんはその男性に話して聞かせました。「あんたが人に悪さしたなら、その悪は必ずあんたにかえって来るんだよ。イエス様はわたしだけの救い主じゃない、あんたの救い主でもあるんだよ。イエス様はあんたのためにも十字架に架かって死なれたんだよ。このイエス様を信じ受け入れたならば、罪が赦され救われるんだよ」と。

男性はシズさんにすっかり心を開いて、自分の身の上話をされたというのです。自分は兄家族と住んでいるが、兄嫁が自分に良くしてくれないんだということ、だから自分は毎日が面白くないんだという事など。

車はコザの諸見バス停留所の近くまで来たので、シズさんは車を止めてくれるようにお願いし、止めてもらいました。その時シズさんが言いました。「安ゲ田のバス停留所から右に登って行くと、そこにセブンスデー・アドベンチスト教会があるので、毎週土曜日の朝9時半になると私そこにいるから、あんたもおいでねー」と言って車を降りたのです。

自分に危害を加えようとしたその男性にシズさんはキリストのしもべとして伝えるべきことをしっかりと伝え、降りたのです。その後、その男性は教会に来ることはありませんでしたが、しかし、シズさんの信仰、シズさんの語った言葉は何なりとその男性にインパクトを与えただろうと、私は思っております。

シズさんのこのようなお話に私は驚いて、シズさんに聞きました。「シズさん、騙されたと分かった時怖くなかったですか」と。シズさんがおっしゃいました。「怖くなかったよ。あー、この男わたしを捕えようとしているんだな。よし、じゃ、わたしが捕らえてやろうと思った」と言うのです。だからシズさんは初めから車を降りるまで信仰で対応されたのです。私が感心してシズさんのお顔をみつめていたら、シズさんがおっしゃいました。「世界を創られたイエス様がわたし一人守るなんて、なんでもないことさー」と。文字の上では信仰のかくれ星がいるということを読んで知ってはいたのですが、「まさかこんな身近にそのような方がおられたとは…」と私は驚いたのでした。

そこで、「シズさん、このお話を全体の前で話してもいいですか」と聞いたら「話してもいい」と言われたので、八重岳の安息日学校のお勧めの時間に話しました。そしたら、そこに感動派の津嘉山澄子先生(金城めぐみ姉のお母さん)がいらして、先生はさっそく休み時間にシズさんのところに行かれて、「シズさん、大変だったねー。でもあんた、よく頑張ったねー」とねぎらっておられました。

さて、シズさんはなぜあの状況下で勝利することができたのでしょうか。シズさんは堅固なやぐらである主のみ名にすがりついたということと、決してあきらめなかったということです。もしシズさんが途中であきらめ、心が折れたならば手に力は入らなくなるのです。その時まさに、サタンの僕とキリストの僕の大争闘であったのです。シズさんはキリストの恵みと彼女自身の熱心な努力とによって、悪との戦いに勝利したのです。そして神様はご自分の御名を呼び求める弱い魂の叫びを決してお聞き逃しにならないという実証なのです。シズさんはもう亡くなりましたが、信仰の僕であったシズさんを終わりの日に神様がよみがえらせてくださることを感謝いたします。

ではここで皆さんに一枚の絵を見ていただきたいと思います。皆さんよくご存知の絵だと思いますが、どうぞもう一度ごらんになって下さい。

蛙が今にもペリカンに飲み込まれようとしています。蛙にとって絶体絶命の危機です。しかしこの蛙、あきらめていないのです。両手でペリカンの首をしめているのです。蛙が飲み込まれる前にペリカンが気絶する可能性だってあるのです。だから、この絵の題は「断じてあきらめるななのです。「詮方つくれども望みを失わず」。やるべきこと、つくすべき手段を全て尽しても、まだ光がみえない、それでもあきらめないでということなのです。

これから先私たちは終りの時代の終りの時を迎えます。内からも外からも戦いがあるでしょう。病気と戦わなければならない方もいらっしゃるでしょう。また経済の問題、そのほかの問題もあるでしょう。また現代の真理を信じ受け入れるが故に、誤解され誹謗中傷される、それとの戦いもあるでしょう。しかしどういう状況下でも決してあきらめないという事なのです。

私たちの信仰は今は分からないのです。試練の時に、危機の時に分かると言われています。次のみ言葉をごらん下さい。

大争闘下369、370ページ
「試練の時が来るとき、神のみ言葉をその人生の基準としてきた人たちが、はっきりわかるであろう。夏には常緑樹と他の木々との間に著しい違いがないが、冬のこがらしが吹く時になると、常緑樹は変わらないが、ほかの木々は葉が落ちて裸になる。そのように、現在は心に偽りのある信者と真のキリスト者との見分けがつかないが、しかしその違いが明らかになる日が、今まさにわれわれに臨もうとしている。反対が起こり、頑迷(がんめい)と偏狭が再び吹きまくり、迫害の火が燃やされる時に、二心の偽善者たちは動揺して信仰を放棄するであろう。しかし真のキリスト者は岩のように堅く立ち、繁栄の日よりも信仰が強くなり、望みはいっそう明るくなるであろう。」

沖縄では年中樹々は緑々していますね。ところが寒い地方に行くと、冬になると常緑樹と他の木々の違いが非常にはっきりするのです。常緑樹は変わらないが他の木々はすべて葉っぱを落とし、まるで枯れ木のような状態になるのです。私たちの信仰も同じだというのです。試練の時に、危機の時に分かるというのです。それであるなら比較的平和な今の時に備えをしていかなければならないのです。次のみ言葉をごらんください。

SDA聖書注解書7巻907ページ(英文)(スタディーバイブル新445[コロサイ2:8 EGW注解])

「わたしたちが時の終わりに近づくとき、虚偽が真理と非常によく交じり合うので、聖霊の導きを受けている者だけが真理と誤りを見分けることができる。私たちは、主の道を守るために、あらゆる努力をする必要がある。わたしたちは決して人を信頼して主の導きからはずれてはならない。主の天使たちは主を信じる者たちを厳重に見守り続けるようにと命じられているので、この天使たちは必要な時はいつでも私たちの特別な助けとなるのである。私たちは毎日信仰の確信をもって主のところに来て主に知恵を求めるべきである……主の御言に導かれている者は、偽りと真理、罪と義とを関心をもってみわける。」

私たちの信仰は、決して組織でもなく、牧師、指導者でもなく、神のみ言葉に基づいていなければならないのです。「聖書を熱心に研究し、真理の愛を受けた者だけが、世界をとりこにする強力なまどわしから守られる」(大争闘下400)とあるのです。イエス様はおっしゃいました。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたのみ言は真理であります」(ヨハネ17:17)と。そして「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と。神のみ言葉だけが私たちを守る唯一安全な信仰の錨なのです。

最後にヘブル人への手紙10章の35節から39節までお読みしたいと思います。
「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」

どんな時でも、どんな状況下でもみ言葉に立てるように祈っていきたいと思います。
皆さんの上に主の祝福を、心よりお祈りいたします。