教会が立ちもし、倒れもする義認の教理

*霊感の言葉*

トリエント会議は今もカトリック教会で保持されている:「信仰のみによる義認を教える者は有罪である」

Canon IX(教会法)
「宗教改革の教会にとって、義認は、『教会がたちもし、倒れもする条項』と呼ばれカトリック教会との教理的に重要な相違点であり、カトリックにとっては、『信仰のみによって罪から解放され、義とされる――義を成就する――と信じる者は、破門(アナテマ-呪われたものとなる)に付すべきである』であった(トリエント公会議)。それが、この度のドイツの共同宣言には、16世紀以二つの教会が行った 義認に関する双方への非難は、共同宣言に示されているように理解すれば、いずれも『妥当しない』と述べられている 。しかも、この声明はドイツの福音主義ルター派教会連盟とローマ教皇から委された審議委員会によるものであったのである。もっとも、今のところ教皇自身は、右のトリエント公会議を無効にするような条項を承認することは拒んでいる 」。ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku1962/1999/38/1999_38_1/_pdf

「バチカンの『義認教義共同宣言』に対する反応:トレント会議がルーテル教会に対する下した有罪宣告はなお有効である。ローマの立場は、救いは、恵みによってのみ、信仰にのみによるのではなく、恵みと人間の功績と善行とによる」。ttps://www.firstthings.com/blogs/firstthoughts/2010/03/a-betrayal-of-the-gospel-the-joint-declaration-on-the-doctrine-of-justification

 

大争闘下 330

「法王制はこれらすべての欲求によくかなっている。それはほとんど全世界を包含する二種類の人々―

  • 自分の功績によって救われようとする者と、
  • 罪の中にあって救われようとする者―のために用意されている」。

大争闘上321

「ルターがあれほどはっきりと教えた、信仰による義認(英文)という偉大な教理は、ほとんど姿を消してしまっていた。そして、善行によって救いを得るというローマ教の原則が、その代わりになっていた」。

 

大争闘下340

ローマは決して変わらないということがこの教会の自慢の種であることを忘れてはならない」信仰と行い19,20

 

■真のプロテスタントはどの立場か?

信仰と行い19,20

「すべての人の思いの中で、堕落した人間が自らの最善の良い業をもってしても功しには不可能であるということ――このこと以上に熱心に繰り返し瞑想し、かたく確信すべき事柄はない。救いはイエス・キリストにある信仰を通してのみである…….

我々はいかなることをもってしても、あるいは被造物に神が与えた賜物の功績によっても、神のみ前に立つ何の根拠とならないという点を明確にしなければならない。もしも信仰と行いで救いの賜物を買うのであれば、創造主は被造物に対して責任を負うことになり、真理として受け入れるにあやまった機会を与えることになる。もしも人が自らの行いによって救いの功しとすることができるのであれば、自分のために罪の償いをするカトリックと同じ立場であり、救いは労賃をもって負債の部分を買うことになるもしも人が自分の良い業によっても救いの功しとならないのであれば、イエスを信じ、受け入れたゆえに罪人を救いたもう全き恵みにほかならない。救いは完全に無償の賜物なのである。信仰による義認は議論の余地がない…。

神は、私の心にどんな質問以上にもまして、この重要な主題ついての光を与えられた。義認は全く恵みによるものであり、堕落した人間ができるいかなる行いによっても事によっても手に入れるものではない」。

RH, June 1, 1886 par. 11

「ローマ教会…..ざんげをすることはクリスチャンの悔い改めと困惑される。 キリストの功績に対する信仰によるゆるしのためにキリストのみ見るように教える代わりに、司祭はざんげの行為を通してゆるしを宣誓してそれを与える」。

  •  キリストのみによる義認
  •  恵みによってのみ
  •  信仰によってのみ