愛のみ

*霊感の言葉*

キリストへの道「弟子としての証拠」エレン・ホワイト

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」 (Ⅱコリント5:17)

人は、いつどこで悔い改めたか、あるいはどんな段階をふんで改心したかを、はっきりと言うことはできないかも知れませんが、それであるからと言ってその人が悔い改めていないと言うことはできません。キリストはニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」 (ヨハネ3:8)と仰せになりました。風は目には見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうどそのとおりです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神のみかたちに従って新しい人を造るのであります。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものであります。神のみたまによって心が新たにされるならば、生活がその事実を裏書きします。私どもはどんなにしても自分の心を変えたり、神と調和したりすることはできないのであります。また自己や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神の恵みを宿しているかどうかは私どもの生活に現れてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起りますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。人の性格はときどきの善行とか間違いとかでわかるのではなく、日常の言行動作の傾向によって知ることができるのであります。……

キリスト・イエスにあって新たに造られた者はみたまの実を結びます。つまり「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ 5:22、23 )を生じるのであります。もはや、彼らは以前の欲望に従って歩まず神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩みそのご品性を反映しながら清くくいましたもうごとくに、自らを清くするのであります。以前には嫌っていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものは嫌うようになります。高慢、不遜な人は、柔和、謙遜になります。軽佻浮薄な人は真面目に控え目になり、酒に酔う者はそれをやめ放蕩者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持は無くなり、クリスチャンは「外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない」(Ⅰペテロ3:3、4 )飾りを求めるようになります。

ですから、もし改革が起らなければ真に悔い改めたとは言えません。質物を戻し、奪ったものを返し、罪を告白し、神と人とを愛するようになったならば、その人は確かに死より生に移っているのであります。

あやまちあり、罪あるままの姿でキリストに行き、赦罪の恵みを受けるとき、心の中に愛がわき起ります。キリストの課したもうくびきはやさしいのですから全ての重荷は軽くなります。義務は喜びとなり、犠牲は楽しみになります。以前には暗黒に包まれていたように見えた道も、義の太陽に照されて明るくなります。

キリストのうるわしい人格は、かれに従う者のうちに見られるようになります。神のみ旨をなすことがキリストの喜びでありました。神への愛と栄えをあらわそうとする熱情は、救い主の生涯を動かしていた力であります。愛が救い主の行動をすべて美化し、高尚にしたのであります。愛は神から来るものであります。まだ清められていない心はその愛をつくり出すことも、生み出すこともできません。それはただ、イエスが支配したもう人の心にのみ見いだすことができます。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである」(Ⅰヨハネ4:19)。神の恵みによって新しくされた心のうちでは愛が行為の原則となります。愛は性格を改変し、衝動を支配し、欲情を制し、また敵意をおさえ、愛情を高尚にします。この愛が心のうちに秘められ、あたりに高貴な感化を及ぼすのであります。