天の大法廷

*霊感の言葉*

大下211
「象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出て、その罪が罪祭の血によって聖所に移された者だけが、贖罪の日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と調査審判の大いなる日に、審査されるのは、神の民と称する人々だけである」。

黙示録20:12
「そのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」。

ダニエル 7:9、10
「審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた」。

伝道の書 12:14
「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」。

マタイ 12:36、37
「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

Ⅰコリント4:5
「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」。

レビ5:17
「また人がもし罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをしたときは、たといそれを知らなくても、彼は罪を得そのとがを負わなければならない」。

キ実294
サタンは、人間が神の戒めに従うことは不可能であると主張した事実、自分の力ではわたしたちは戒めに従うことは不可能である。しかし、キリストは人間の形をとってこられて、人性に神性が結合するとき人は神の戒めのあらゆる点に従いうることを、その完全な従順によって立証なさった。

『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである』(ヨハネ1:12)。この力は人間には備わっていないそれは神の力である。魂はキリストを受け入れるとき、キリストのような生活を送る力を受ける

神は、神の子らに完全を求められる。神の律法はご自身の品性の写しであり、またすべて品性の標準である」。

キ道78
「服従ということは、単なる外面だけの服従ではなく、むしろ愛の奉仕を指すのであります。神のおきては神の品性そのものを表現したものであり、愛の原則を具体化したものでありますから、天にあっても地にあっても神の政府の基礎であります。私どもの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるならば、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか」。

大下215「もしだれかが、罪を悔い改めず、許されないまま、記録の書に残しておくならば、彼らの名は、いのちの書から消されて、彼らの善行の記録も神の覚えの書から消される」。

ヘブル9:7
「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまち(agnoēma[アグナエマ]:知らずに犯した罪)のためにささげる血をたずさえないで行くことはない」。

大下215
「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じたものは、

①みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる

②彼らは、キリストの義にあずかる者となり

③彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、

④彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである。

1ヨハネ1:9
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」。

1SM220
「神の律法は、ただ我々の行うことだけでなく、我々の行わないことにも及ぶ」。

1SM217
「神の律法は、外面の行動に表わされていなくても魂に押し寄せる、しっと、ねたみ、憎しみ、悪意、復讐心、欲望、野心を慎重に観測する」。

大下221「人々の隠れた利己心が、天の書の中であらわにされている。同胞に対して義務を怠ったことが記録され、救い主の要求を忘れたことが記録されている」。

ST 1901年 7月31日
「天の書は、機会があれば犯したであろう罪までも記録する」。