再臨運動と大失望の意味とはⅡ

ダニエル8:14
「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。」

ダニエル9:24
「あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。」

大争闘下47

「…その使命を誤って解釈して、失望を味わった。しかし、神は、審判の警告をそのまま伝えることをお許しになって、ご自分の恵み深い御目的を果たされた。大いなる日が近づいていた。そして神は摂理のうちに、人々に彼らの心の状態を示すために、特定の時に関する試験をお与えになった。使命は、教会を試し清めるためのものであった。彼らは、彼らの愛着がこの世にあるのか、それともキリストと天にあるのかを、悟らせられるのであった。彼らは救い主を愛すると言っていた。その愛を 、今、証明しなければならなかった。彼らは、快く世俗の希望と野心を捨てて、主の再臨を歓迎したであろうか。この使命は、彼らの真の霊的状態を彼らに認めさせるためであった。それは、彼らが悔い改めて謙そんに主を求めるようになるために、恵みのうちに与えられたのであった。」

大争闘下114-115
「たしかに、期待したできごとについてまちがいはあったが、それでさえ、神の言葉に対する彼らの信仰をゆるがすことはできなかった。ヨナが、ニネベの町で、四十日のうちに町が滅ぼされると宣言したとき、主はニネベの住民の悔い改めを受け入れて、彼らの恩恵期間を延長された。しかし、ヨナのメッセージは、神から送られたものであった。そして、ニネベは、神のみこころに従って、試みられたのである。同様に神は、再臨信徒を導いて、審判の警告を宣布させられたのであると、彼らは信じた。彼らはこう言った。「それは、それを聞いたすべての者の心を試し、主の出現を愛する心を起こさせるか、それとも再臨に対する嫌悪…を起こさせるかした。それは、一線を画した。・・・・自分の心を吟味する者は、主がその時来られたならば、自分たちはどちらの側にいたか―『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる』と叫んだか、それとも山と岩とに向かって、われわれを覆って、み座にいますかたのみ顔と小羊の怒りとからかくまってくれと叫んだか―を知ることができる。こうして、神は、ご自分の民を試み、彼らの信仰をためして、彼らが試練の時に、神が彼らを置こうとされたその場所からしりごみするかどうか、そして彼らがこの世を捨てて、神の言葉を絶対的確信をもって信じるかどうかを、見られのであるとわれわれは信じる。」

へブル10:35-39
 「 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない』。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」