主の赦しと除去の確信

*霊感の言葉*

高き召し203「信仰による義」に引用53
「今日のおおくの人たちのように、まことに神の息子、娘であるとの確証もなしに心静かに安らいでいられることは愚かなことである」。

「信仰による義」に53
「自分の罪が深く、無価値のために神は自分を受け入れたまわないのではないかと恐れておそれて神に頼らず、心を悩ますのは神のみ旨ではない」

同上41
「キリストを個人的な救い主と信じ、価高き贖いの犠牲の功しについての信仰を抱くその瞬間に罪人の罪は赦されて、彼は神のみ前に義認される」

同上41
「キリストの恵みは功しもなく、自分から要求しなくても、罪人を自由に義とする。義認は完全で十分な罪の赦しである。信仰によってキリストを受け入れる瞬間に罪人の罪は赦される。キリストの義が罪人に転嫁されるので、彼は神の赦しの恵みをもはや疑うことはない」

同上41
「罪人が信じる瞬間に、彼は無罪として神の目前に立つ。キリストの義が彼のものとなるからである。キリストの完全な服従が罪人に転嫁される」

同上53
「キリストへの全き信頼とゆるぎない依存は、魂に平和と確信をもたらすであろう」。

同上54
「あなたは彼が私の救い主であると知ることさえできたら、と言うかもしれない。あなたはいかなる証拠を求めたいのか。キリストがあなたのものであると証明するような特別な感情は感動がほしいのか。そうしたものが神の約束への純粋な信仰よりも頼れるものだろうか。…われわれの天の父が約束のうちにあなたに与えたもう保証の半分さえも満たしてくれる友は世界に一人としていない」。

 同上55
「ほろぶべき罪人はこのように言うことができる。『わたしは失われた罪人である。しかしキリストは失われた者を尋ねて救うために来られた。彼は‟私は義人を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるために来た”と仰せになる。わたしは罪人であり、キリストはわたしを義とするために死に、ふたたびよみがえられた。そして主は今、わたしを救いたもう。私は彼が約束したもうた赦しを受け入れる』」。

ローマ1:17
信仰による義人は生きる」。