世の初めよりほふられた小羊

*霊感の言葉*

あけぼの上53-54
「天の栄光に 満ちた司令官であられる神のみ子は、堕落した人類をあわれまれた。彼の心は、失われた世界のわざわいをごらんになって、限りないあわれみの情を感じられた。しかし、神の愛は、すでに、人間を贖う計画をたてていた。破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。人間に代わって、その要求に応じられるのは、全宇宙にただひとりしかなかった。神の律法は、神ご自身と同様に神聖であるから、罪の贖いをすることができるのは、神と等しいかただけであった。罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができるものは、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥とをその身に負われるのであった。罪は天父とみ子とを離れさせるほど、清い神にとっていまわしいものであった。キリストは、堕落した人類を救うために悲惨のどん底におりてこられるのであった。

キリストは、罪人のために父の前に嘆願された。その間、天の万軍は、言葉で表現することのできない深い関心をもって、その結果を待ちうけた。神秘的な交わりは長く続いた。それは、堕落した人間の子らのための『平和の一致』であった(ゼカリヤ6:13)。救いの計画は、地球が創造される前にたてられていた。キリストは『のはじめからほふられた小羊』(黙示録13:8詳訳聖書)であった。しかし、宇宙の王であられる神にとっても、み子を、罪を犯した人類のために死にわたすことは苦闘であった。ところが『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ3:16)。ああ、贖罪はなんと神秘なものであろうか。神を愛さなかった世界を、神はどんなに愛されたことであろう。『人知をはるかに越えた』その愛の深さをだれが知ることができるだろうか。永遠の命を与えられた人々は、このはかり知れない愛の奥義を、永遠にわたってさぐり求めて、驚き賛美するのである」。

教育311-312
「福音宣伝の働きがはかどったり妨げられたりするときに、われわれはその結果を自分自身や世人とむすびつけて考えるが、これを神とむすびつけて考える人は非常に少ない。罪のために創造主が受けられた苦しみを思う人は非常に少ない。全天はキリストと苦しみを共にしたが、しかしその苦悩はキリストが人性をとって現われたときに始まったのでもなければ終わったのでもない十字架は、罪が初めてあらわれたときから神の心に生じた苦痛を、われわれの鈍い感覚に示すものである。人が正しいことから離れるたびに、残酷な行ないをするたびに、人性が神の理想に到達できないたびに、神は悲しまれるのである。イスラエルが、神から 離れた当然の結果として、敵に征服され、残虐と死という災難がふりかかったとき、『主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。』『彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、・・・・いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた』と言われている。

神のみたまは『みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる』とある。『被造物全体が、・・・・共にうめき共に産みの苦しみを続けている」とき、限りない天父のみ心は 同情に痛むのである。この世界は広いハンセン病病院(貧しい病人の収容所)のようなもので、われわれはその悲惨な光景を心に思うことすら苦痛である。その現実の姿をみつめるとき、重荷はあまりに大きいであろう。しかし神はそのすべてを感じておられるのである。神は、罪とその結果を滅ぼすために、最愛のひとり子をあたえ、み子との協力によってこの悲惨な光景を終わらせる能力をわれわれにお与えになっている。『この御国の福音は 、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。』」