ミカエルの謎

By Doug Batchelor ダグ・バチェラー AMAZING FACTミニストリーの主幹

キリスト教界でミカエルという謎的な人物は誰かということがしばしば質問されます。ミカエルは、「御使のかしら」、「大いなる君ミカエル」とも呼ばれています。ある人々は、ミカエルは天使の最高位につくもの、または、守護のケルブの一人である、あるいは、ガブリエルのような特別なメッセンジャーであると主張します。したがって、彼は被造物であることになります。また、他の人々は、聖書注解者マシュー・ヘンリー(Matthew Henry)のように、ミカエルとはイエス・キリストご自身の多くの名前のうちの一つであると主張します。我々は、このミカエルという謎の存在を明確に知ることができるでしょうか? 知ることができるとすれば聖書に謎を解く鍵があるに違いありません。「それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」(イザヤ書28:10)。

 

聖書の用語索引を引くと、ミカエルという名は聖書(新欽定訳)に15回出てきます。そのうち、10回は単にミカエルという名の人間です。ギリシャ語・ヘブル語辞書で「ミカエル」を調べると、「1人の天使のかしらと9人のイスラエル人の名」とあります。10回のうちの最後の5回に出てくるミカエルは天使のかしら、そして君であります。このお方についてここで研究します。

 

ミカエルに関するこれら最後の5つの聖句のうち、最初の3つは旧約聖書のダニエル書10:13, 21、12:1にあり、最後の2つは、新約聖書のユダ9黙示録12:7にあります。聖句と聖句を比較してよく調べると、ミカエルの正体は、イエス・キリスト以外の何ものでもないことが分かります。すなわち、ミカエルは、創造された天使あるいはケルビムではありません。ミカエルという名は、神のみ子の多くの崇高な肩書のうちの一つなのです。

 

一見すると、旧約聖書は、ミカエルを君として描いているようですが、新約聖書はミカエルを天使のかしらとして説明しています。しかし、似た言葉が用いられている、他の関連聖句を見てみると、興味深いパターンが浮かび上がってきます。

 

研究を進める前に次のことを考えてましょう。「天使」という言葉は、メッセンジャーという意味であり、聖書で非常に広く使われています。ある時には、聖書で、人間が天使と呼ばれています。1 サムエル 29:9(「神の使」は新欽定訳では“an angel of God”)、 ガラテヤ4:14(「神の使」は新欽定訳では“an angel of God”)。またある時には天使が人間と呼ばれています。創世記 32:24(「ひとりの人」は新欽定訳では“a Man”)。また他の聖句では、これから紹介しますが、神ご自身が天使と言われているところもあります。天使も、もちろん天使と呼ばれています。

 

普通、天使というとき、仕える霊であり、翼を持つセラピム、あるいはケルビムをイメージします。イエスと違って、これらの天の存在は被造物です。イエスは、地上に来て受肉する前は、言うことを聞かない仲間の天使ルシファーと争う、ただの力強い天使であったのだと、あるカルトの人たちは教えます。だから、イエスは父なる神によって創造された者であって、クリスチャンたちが信じているような永遠の神ではないとしています。この研究はその考えを拒否します。イエスは、今も、そして常に、神の永遠のみ子であり、実に神ご自身であります。この研究の中で、天使としてイエスを表現しているのは、単に伝統的に、最も偉大な救いのメッセンジャーであるという意味であって、彼の永遠の神格を低めようとする意図は全くありません。

 

鍵は名前にある

まず、いくつかの言葉や名前の意味について考えます。ギリシャ語の新約聖書では「angel」(発音:エンジェル)とは「メッセンジャー」という意味です。そして「arch」(発音:アーク)とは「かしら、長、最も偉大な、あるいは、最高の」という意味ですから、「archangel[御使のかしら]」(発音:アークエンジェル)とは単に「最高、あるいは、最も偉大なメッセンジャー」という意味です。旧約聖書にみられる「ミカエル」というヘブル語の名前は「神のような者」、ときには、質問の形で「神のような者は誰か?」という意味です。ですから天使のかしらミカエルという肩書は「神であられる最も偉大なメッセンジャー」とも訳され得るものです。この名前が質問であろうと、声明であろうと、挑戦であろうと、その意味は更に詳しい研究によって明確になることでしょう。ひとりの天使が神のようになろうと心のうちに言いました。天の宮廷から落ちた、その守護のケルブはルシファーでした。「いと高き者のようになろう」(イザヤ14:14)と言って悪魔あるいはサタンとなりました。黙示録12:7において、サタンは「ミカエルとその御使たち」と争って天から投げ落とされました。

 

主の御使

「主の御使」という言葉が聖書(新欽定訳)に68回出てきます。ある時には、ダニエル、ザカリヤ、そしてマリヤに現れたガブリエルに充てられています。しかし、ガブリエルは「an」angel of the Lord(ルカ1:11)と呼ばれていて、「the」angel of the Lordとは呼ばれていません。また御使のかしらとも呼ばれていません。(ついでですが、有名な天使ラファエルは聖書のどこにも登場しません。)ガブリエルは、おそらく神の御座のすぐ側のふたりの守護のケルブのうちのひとりでしょう。ガブリエルがゼカリヤに「わたしは神のみまえに立つガブリエルであ」ると言ったことを思い出してください。ルシファーはかつて堕落する前は、もう一方の位置にいました(エゼキエル28:14)。もし御使の最高の地位が神の御座の側にある守護のケルブの地位だとするならば、御使のかしらとは、誰であり、何なのでしょうか?人間の救いに関して顕著な役割を果たすこの力強い「主の御使(the angel of the Lord)」とは誰なのでしょうか?

 

父なる神は、すべてのものをイエスをとおして創造されました(へブル1:2エペソ3:9[欽定訳では「イエス・キリストによって万物を創造された神の中に」とある])。もし、キリストが人類を救うために、一人の人間となってサタンと戦うために地上に来られたなら、彼は、天においてもサタンの悪影響から民を守るために天使として自らを同一視されることは信じがたいことではありません。事実、キリストがこの地上で受肉する前に、神秘的なお方、すなわち「主の御使(the angel of the Lord)」として聖書に幾度か登場します。そのようなお方として言及されているときには、いつもその方がどなたであるかを知る手がかりがあります。では、それらの聖句を順序を追って見てみましょう。

 

ハガル

アブラハムのつかえめであったハガルがイシマエルを生んだ後、彼女と子のいないサラは、平和のうちに共に過ごすことができなくなりました。サラは高慢になった自分のつかえめハガルに対して厳しい態度に出たので、     ハガルは砂漠に逃げてしまいました。「主の使は荒野にある泉のほとり・・・で、彼女に会い」ました(創世記16:7)。御使は、ハガルにサラのもとに戻って従いなさい、そして彼女の息子イシマエルは大きな国民の父となるでしょうと言いました。「使」が姿を消した時、「ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル(意:神は)・ロイ(意:ご覧になる)です』」と言いました(創世記16:13)。ハガルは自分に語られた「主の使」を本当に神と認めていたようです。この聖句をご自分で読むと、はっきりしてくるでしょう。

 

アブラハム

神は、アブラハムにモリヤの山で息子イサクを犠牲としてささげるように告げました。アブラハムがちょうど約束の息子に短剣を突き刺そうとしたその時、主の使が彼を止めました。「主の使が天から彼を呼んで言った、『アブラハムよ、アブラハムよ』。彼は答えた、『はい、ここにおります』。み使が言った、『わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」(創世記22:11, 12)。

 

アブラハムは息子を神にささげていたのであって、ただの天使にささげていたのではないことは明瞭です。「主の使は再び天からアブラハムを呼んで、言った、『主は言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福…する。…あなたがわたしの言葉に従ったからである」』」(創世記22:15-18)。アブラハムのこの体験を使徒行伝3:25で再び語った時、ペテロは父祖と契約を結んだこの「主の使」を神と見なしています。

 

ヤコブ

兄エサウの怒りから逃れていたヤコブは、神がアブラハムの契約を彼と確認する夢を見ました。神が共におられること、そしてカナンの故郷に安全に連れ戻すとの確証を受けた後、ヤコブはすべての収入の十分の一を神にお返しすることを誓いました。ヤコブはまくらとしていた石を柱にして立てて、それに油を注ぎ、誓いを厳粛なものとしました。それからその所をベテル、あるいは神の家と名づけました。神がそこで彼に現れたからです。

 

20年後、ヤコブは逃亡者としてではなく、裕福な人として家路につきました。神はヤコブに誰が彼に成功をもたらしたかを彼に思い出させました。ヤコブは次のように語りました。「その時、神の使が夢の中でわたしに言った、『ヤコブよ』。わたしは答えた、『ここにおります』」(創世記31:11)。創世記31:13ではこの「神の使」は自分のことを次のように名乗った。「わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てました」。

 

その後、ヤコブが天の存在と組打ちした時(創世記32:22-32)、新しい名が与えられ、祝福を受けました。ヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言いました。「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」(創世記32:30)。新約聖書においてイエスは、ご自分の民を祝福(blessed=「さいわいである」)し、新しい名を与えられるお方です(マタイ5:3-12黙示録2:17)。主の御使はイエスご自身であることがだんだんと明瞭になってきましたね。

 

臨終の際、ヤコブはヨセフの二人の息子であるエフライムとマナセを祝福する時、「み使」と「神」という言葉を交互に用いています。「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください」(創世記48:15、16)。

 

神のほかに贖い主も、救い主もいないと聖書は明言しています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。…あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、主はこう言われる」(イザヤ43:11,14)。ヤコブを贖った天使は、私たちの贖い主イエスであったことが分かります。

モーセ

モーセは燃えているのになくならないしばを見ました。「ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた」(出エジプト記3:2)。4節でこの天使の正体が明らかになります。「神はしばの中から彼を呼」びました(出エジプト記3:4)。そして6節で再びご自分を明らかにします。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。再び、主の使は、神としてご自分の正体を明らかにしています。

 

石を投げつけられて殉教する前の最後の説教の中で、ステパノは出エジプトに言及して次のように言いました。「四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。 彼はこの光景を見て不思議に思い、それを見きわめるために近寄ったところ、主の声が聞えてきた、 『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』」(使徒行伝:30‐32)。

 

イスラエル

別の例の中で、イスラエルの子らが神によって荒野を導かれました。「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた」(出エジプト13:21)。「このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立った」(出エジプト14:19)。ここでも神は「主の使」と同一視されています。

 

バラム

主の使がバラムと話すろばの物語の中で再び現れます。この御使は、ろばをその無慈悲な主人から救い、神の民を呪いに行く途中だった強欲な預言者をもう少しで殺そうとしていました(民数記22:21-35)。バラムの死の瀬戸際の後、「主の使はバラムに言った、『この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない』」(民数記22:35)。次の章で、誰がバラムの口に言葉を授けたかが示されています。「神がバラムに会われたので、…主はバラムの口に言葉を授けて言われた、『バラクのもとに帰ってこう言いなさい』」(民数記23:4,5)。ここでも、「主の使」は神ご自身であることが分かります。

 

士師記

今度は士師記を見てみましょう。次のように記されています。「主の使がギルガルからボキムに上って言った、『わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、「わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない」』」(士師記2:1)。もうパターンはお分かりだと思います。イスラエルの民をエジプトから連れ出し、決して破ることのない契約をかわしたのはどなたでしょうか?主の使ですか?それとも受肉される前の神ご自身でしょうか?はい。答えは両方です。主の使も神も一つで、同じなのです。

 

ギデオン

ギデオンは士師記の中で主の使と出会いました。御使はギデオンに主が彼と共におられることを告げました(士師記6:12)。ギデオンは、事態はそれとは反対で、イスラエルはミデアンびとによってしえたげられていることを指摘しました。「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」(士師記6:14)。この物語の残りの部分にわたってギデオンと語っていた者は、交互に、主(6:16)、主の使(6:21,22)、神の使(6:20)と同一視されています。

 

マノア

サムソンの母、すなわち、マノアの妻には子がいませんでした。「主の使がその女に現れて言った」(士師記13:3)。この御使は、イスラエルびとをしえたげる異教徒から背教したイスラエルびとを救い出す子を彼女が生むでしょうと告げました。彼女は急いでマノアを呼び、そして彼は「神の人」が再び来てくださるように祈り求めました。御使が再び来られた時、マノアはこの御使の名を尋ねました。欽定訳はこの御使が自分の名は「秘密[secret]」であると答えたと記されていますが、この言葉は「不思議な/すばらしい[wonderful]」とも訳され得る原語となっています。これはイエスの名についてのイザヤ書の聞き覚えのある次の預言を私たちに連想させます。「霊妙なる議士(Wonderful Counselor[不思議な/素晴らしい助言者])、大能の神、とこしえの父、平和の君」(イザヤ9:6)。マノアに現れた主の使の「wonderful」という名前は、この御使と「Wonderful」と呼ばれると預言されていた、来るべきメシヤとを結びつけます。

 

この「不思議な/すばらしいメッセンジャー」に会った後、マノアは彼らが神を見たと宣言します。そしてマノアは妻に次のように言いました。「わたしたちは神を見たから、きっと死ぬであろう」(士師記13:22)。

 

[参考]
士師記13:18のsecret/wonderfulヘブル語「ペルイー」(ストロング#:H6381)
イザヤ9:6のwonderful ヘブル語「ペレ」(ストロング#:H6382)

父を見た者はひとりもいない

これまで私たちがついていけないほど十分な証拠を見てきました。「主の御使」はしばしば神ご自身と同一視されていることがはっきりと分かってきました。しかし聖書には次のような言葉もあります。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)。ヨハネ6:46もまた次のように述べています。「神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである」。明らかに誰も父なる神を見た者はいないのでしたら、旧約聖書にある「主の使」という神に関する言葉が見られるところはすべて、神の御子イエスであったにちがいありません。こうして神の栄光を覆うことによって人々は、神の御臨在の前に燃え尽きることなく耐えることができたのでした。

 

契約の御使 

最も有名なメシヤの預言はマラキ3:1に見られます。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる」。

 

ここマラキで述べられている契約の使者とは、明らかにイエス・キリストの来臨を預言したものです。この使者(mal’ak[マラカ])と訳された言葉は、旧約聖書で前述の「主の使」と言われている言葉と全く同じ言葉です。ですから次のように適切に訳することができます。「見よ、わたしはわが御使をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の御使が来ると、万軍の主が言われる」。この方が分かりやすくなります。

訴える者を責める

旧約聖書に出てくる主の御使に関する重要な聖句がもう一つあります。預言者ゼカリヤは、主の御使の前に立っている大祭司ヨシュアの幻を与えられました。サタンはヨシュアの右に立って、彼を訴えています。ここで、ひとりの罪深い人間をめぐって、ふたりの者が争っているのが分かります。ヨシュアの汚れた衣は彼の罪を象徴しています(ゼカリヤ3:3)。

 

この物語の中で、名前が「主の使」(1節)から「主」(2節)へと突然変わります。ここでもこれらの二つのものが同じものであることが示されています。そして主は興味深い声明を出します。「主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ』(The Lord rebuke thee.)」(ゼカリヤ3:2)。聖書の中に、この文はもう一か所にしかありません。ユダ9です。「主がおまえを戒めて下さるように[The Lord rebuke thee.]」。そしてこの言葉を述べているのはミカエルです!

 

短いユダの手紙の中に、ゼカリヤ書のヨシュアと御使の短い場面と似た場面を見ます。「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、『主がおまえを戒めて下さるように』と言っただけであった。」この二つの場面は驚くほど似ています。すなわち、キリストとサタンが、人間の偉大なふたりの指導者の運命をめぐって争っているのです。(ヨシュアの場合は生きている者で、モーセの場合は死んだ者です)。イエスが「主はあなたを責めるのだ」と仰せになる時に、その論争はスパッと終わります。

 

この聖句はもう一つのもっともな疑問を浮上させます。ある人々は、ミカエルが悪魔を責めるこのユダ9の一部で混乱しています。彼らは次のような疑問を持ちます。「もしミカエルが本当にイエスの別の名であれば、なぜ彼はサタンを責めるときに主の名に訴えるのか?なぜ荒野で誘惑されたときに自分自身でやったようにやらないのか?」「するとイエスは彼に言われた、『サタンよ、退け』」マタイ4:10)。

 

聖書とイエスの言葉を学ぶと、イエスご自身がそのようなことを言われたことがよくあったことが分かります。たとえば、ルカ18:8を見ると、イエスは第二人称としてご自身のことを言っておられます。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。そしてもし、なおも疑問が残るのでしたらゼカリヤ3:2に明瞭な聖句があります。この聖句で主はミカエルがユダの手紙でやった同じことをなさいます。彼は、悪魔を責める時に、ご自身の名に訴えています。「主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ』」。これらの聖句は、神の子イエスが天父の名においてサタンを責めている例である。

 

君ミカエル

聖書の他のどの書よりもダニエル書に最も多くミカエルが言及されている。(ダニエル10:13、10:21、12:1)。この三か所で、君、あなたがたの君、大いなる君と呼ばれている。メシアに関するイザヤの預言(イザヤ9:6)は「平和の君」という極めて重要な名前の一つを明らかに示している。

 

「君の君たる者」が言及されているダニエル8:25も別の聖句です。宇宙の争闘はキリストとサタンの間で闘われています。そして人間は戦場としてその役を務めています。「君の君たる者」は「衆群の主[君]」(ダニエル8:11)と訳された言葉と同じ言葉です。これは、「主の主」(詩編136:3)、「神々の神」(申命記10:17)、「諸王の王」(黙示録19:16)と似ています。これらの名はすべて、神の肩書です。神は「メシヤなるひとりの君」(ダニエル9:25)とも呼ばれています。

 

この天使たちが大いなる君と呼んでいるお方はだれか? 聖書に語らせてみましょう。

 

イザヤ書9:6に「その名は、…『平和の君』ととなえられる」。
使徒行伝3:14,15 「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで….いのちの君を殺してしまった」。

 

使徒行伝 5:30, 31  「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、…このイエスを導き手( Prince[欽定訳])とし救主として、ご自身の右に上げられたのである」。

 

黙示録1:5「また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者(prince[欽定訳])であるイエス・キリスト」。

 

これらの聖句は、ミカエルが「君」と呼ばれているダニエル書の三つの聖句に同調しています

ミカエルは多くの君のひとりに過ぎないのか?

ダニエル書10:13 はミカエルについて考えるときに最も困難な聖句です。「ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長「君たちの長[欽定訳]」のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けた」。一見してミカエルは、君たちの長の「ひとり」と思える。これは、残念なことに欽定訳でも誤訳のようである。「ひとり」という言葉は、”echad”、しばしば「最初」と訳されている。大統領の妻が「ファースト・レディー」と呼ばれるように。(創世記1:5、8:13参照)。この誤訳は、聖句の第一の、最高の、最高位の、君たちの長―イエスに言及していることの意味を全く変えてしまう。(翻訳者追加:ちなみに弥永邦昭牧師は「君たちの長であるミカエル」と訳している)。御使の前に立ちふさがっていたペルシャの国の君は、疑いなく、バビロンの王、ツロの王、ローマ権力のような地上の支配者の陰でしばしば働いている悪魔です(イザヤ14:4エゼキエル28:2黙示録12:4)。イエスはサタンを「この世の君」と呼んでいることを覚えましょう(ヨハネ12:31)。

 

ダニエル書10:21 はこう述べています。「しかしわたしは、まず真理の書にしるされている事を、あなたに告げよう。わたしを助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはありません」。ここにあなた方の君ミカエルと言われていることに注目してください。このダニエルの君とは誰でしょうか? 前章に答えがあります。ダニエル9:25、ダニエルのメシアは「きみ」と呼ばれています。ミカエルと同じ方であることは明瞭でしょう。したがって、天使のかしらミカエルは聖書の真理をすべてしっておられるイエスのことであると、ガブリエルは述べているのです。

 

ミカエルが立ち上がる

ミカエルについて言及されている最後の言葉は12章に見られます。「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります」(ダニエル書12:1)。ここでミカエルは「a great prince」でなく、「the great prince」と呼ばれています。イエスより偉大な君が存在するでしょうか?「あなたの民(あなたの民の子らのために[欽定訳])を守っている(立っている[欽定訳])。大いなる君」のために立ち上がるお方と言われています。この意味は、このお方は、仲保者であり、擁護者であり、身代わりとして立つお方という意味です。イエス以外に誰がいるでしょうか?

この聖句を注解してマシュー・ヘンリーは次のように言っています。「ミカエルは『神のような者』を意味し、その名前は『大いなる君』という肩書と共に、神であられる救い主を指しています。キリストはご自分の子ら、民のために犠牲として、彼らの代わりに呪いを負われる。彼は恵みの座に彼らのために立ち、懇願しておられる」。イエスは私たちのために立ってくださり、私たちを守ってくださるお方です。

ミカエルが立ちあがるということは、主が来られるために用意することも意味しています。ミカエルは大いなる悩みのときに立ち上がり、民を守る力ある方として民を守る偉大な方であることをも意味するのです。大いなる悩みの時に続いてイエス・キリストの再臨と復活が続いて起こります(ダニエル12:2)。

ミカエルの声

私たちがユダ9の「天使のかしら[archangel]」という言葉を分析して調べるときにまた、興味深いことを見ることができる。ユダ9以外に「天使のかしら」という言葉はテサロニケ 4:16 のみで使われています。文脈に注目してください。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」。キリストにあって死んだ人々をよみがえらせるのは天使のかしらの声で、主ご自身が叫ばれます。これは天使のかしらと主は一つで同じであることをしめしています。イエスが、天使のかしらの声で叫ばれるお方です。死人を起こされる「最も偉大なメッセンジャー」なのです。

御使は死者を読みがえさせることはできないことは明らかです。命を与える神だけが命を回復することがおできになるのです。「それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。…このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:26、28、29)。

 

ユダの手紙には、天使の長がモーセの死体のことで悪魔と争っているのを見ます。結局は、モーセは死後復活して、キリストを励ますために、変貌の山で現れました。(マルコ9章)。1テサロニケに、使徒パウロは、天使のかしらの声で復活があると説明しています。ここでも、また、二つの聖句に類似点を見ます。両方とも復活における天使のかしらについて説明しています。

司令官を礼拝する

黙示録において、ミカエルが天の衆群、あるいは軍隊を指揮してルシファーの反逆に戦いを挑むのを見ます。「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦した」(ヨハネの黙示録12:7)。ここにおいて龍は悪の指導者(9節)であるサタンの象徴として使われています。従って、ミカエルも善の指導者であるイエスの象徴的な別名であると考える方が安全だと言えます。まだ証拠はあります。

イスラエルが約束の地に入って後、最初の戦いに備えるために、ヨシュアは、通常でない大将に出会いました。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、『あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか』。彼は言った、『いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ』。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、『何をしもべに告げようとされるのですか』。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である』。ヨシュアはそのようにした」(ヨシュア5:13-15)。ヨシュアがこの方を拝んだだけでなく、主の軍勢の将はヨシュアが拝むのを受け入れたのでした。ただの天使であるなら、そんなことはしていけないと天使がヨハネを戒めたように、そんなことはしてはいけないとヨシュアも戒められたに違いありません(黙示録19:10、22:8、9)。

 

どの場合でも、「主の御使」を拝むことを許しているということは、神の子であることを明らかに証しています。普通の天使を拝もうとすると、天使は断じてその行為を拒んでいます! 荒野におけるイエスでさえ、サタンに言われました。「イエスは答えて言われた、『「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と書いてある』」(ルカ4:8)。

 

事実、イエスが初臨なされた時、すべての天使はイエスを拝するよう命じられました。 「さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、『神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである』と言われた」(ヘブル1:6)。サタンは、いつか彼もイエスを王として認め、礼拝するよう強いられる時の来る時を知って激怒した。「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:10-11)。

 

パウロでさえも神の使とイエスの著しい関係を示しました。「かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた」(ガラテヤ4:14)。「衆軍の主」という使い方が聖書に245回出てきます。それは、「神の天使軍の司令官」という意味です。だから、ヨシュアが見た「主の衆軍の長」は、合天使でなく、イエスご自身です。だから、ヨシュアに現れた方は靴を脱ぎなさいと命令なさったのです。イエスがおられたので、そこは聖なる所となったのでした。それは、モーセの燃える柴もそうでした。したがって、ミカエルは、主の軍勢の長であり、イエスのもう一つの肩書であることが分かるでしょう。

 

神であられるお方

ピリポがイエスに父を示してくださいと言った時、キリストは答えて:「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」と言われた(ヨハネ14:9)。ある人は、神の御子は、4千年間は人類の問題に介入されなかったと思っている。そうではありません!確かにイエスが受肉されたのは人類が堕落して4千年後ではありましたが、ご自分の民の歴史に個人的に関与なさっていたのです。ですからイエスは、「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」と言われたのでした(ヨハネ8:56)。アブラハムがロトのためにとりなした時、イエスはアブラハムに個人的に現れたのでした(創世記18:26)。

 

永遠の神の御子イエスが、ご自分の子らを活発に見守り、与え、守っておられたという事実は、何とすばらしい真理でしょうか。イエスは、アブラハム、モーセ、顔と顔を合わせて語り合い、ヤコブと組打ちしました。彼は荒野でイスラエルを導き、食べ物や水を提供し、敵に対して勝利を与えられました。

 

「天使のかしらミカエル」の意味は、「神であられた偉大なメッセンジャー」であったことを覚えていましょう。「見えない神のかたち」であられた(コロサイ1:15)イエス・キリストこそ、希望と福音とをこの滅び行く世界にもたらしたお方なのです!!

 

結論
結論として、この威厳のある神秘的なお方は、ある時にはミカエルと呼ばれ、ある時には主の御使、ある時には、主の軍勢の長と呼ばれています。そしてご自分の神性を覆われ、僕天使のかたちで現れなさいました。それでいて、この同じお方は、神にのみ属する力と権位と属性を持っておられます。彼は悪魔を天から追放なさいました。彼は死人をよみがえらされました。彼は聖徒のために仲保をなさる唯一のお方、彼はさばき、そして立ち上がられます。大いなる悩みの時も聖徒をあがない、彼らの礼拝をお受けになるお方、贖われた者に新しい名を与えられるお方です。

 

今、あなたはミカエルとはどなたであるかを知っています。悪魔もそれを知っていますが、それは彼を救いません。問題はあなたがイエスを主として救い主として個人的に知っているかということです。