キリストの義 — 唯一の希望

*霊感の言葉*

【霊魂不滅―数々の誤った教義の基礎】

大争闘上321
ルターがあれほどはっきりと教えた、信仰による義認(英文)という偉大な教理は、ほとんど姿を消してしまっていた。そして、善行によって救いを得るというローマ教の原則が、その代わりになっていた。ホイットフィールドとウェスレー兄弟は、国教会の信者であった。彼らは、神の恵みを真剣に求め、そしてそれは、高潔な生活と宗教儀式の遵守とによって与えられると教えられていた。

ある時、チャールズ・ウェスレーが病気にかかり、死にそうになった。彼は、永遠の生命の希望を何においているかという質問を受けた。彼は答えた。『わたしは、神に仕えるために全力を尽くしてきた。』しかし、質問した友人は、この答えでは満足しないらしかった。ウェスレーは考えた。『なんだって?わたしの努力が、希望の十分な根拠でないというのか。彼は、わたしから、わたしの努力を奪おうとするのか。わたしは他に何も頼るものがない。』教会にはこうした深い暗黒がおおいかぶさり、贖罪(しょくざい)を隠し、キリストからその栄光を奪っていた。そして、人々の心を、救いの唯一の希望―十字架に架けられた贖い主の血から引き離していた。

ウェスレーと彼の仲間は、真の宗教は心に根ざすものであって、神の律法は、言葉や行為と同様に思想にまで及ぶものであることを悟った。外部の行状が正しいのと同様に、心の聖潔の必要を確信して新しい生活に入ろうと熱心に努めた。彼らは、非常な努力と祈りによって、生来の心の悪を抑制しようとした。彼らは、自己犠牲、愛、謙そんの生活を送り、彼らが何よりも望んだもの―すなわち、神の恵みを受けることができる聖潔―に到達するために役立つことはどんなことでも、非常な厳格さと正確さをもって実行した。しかし、彼らは、求めたものを得ることはできなかった。罪の宣告や罪の力から自由になろうとする彼らの努力はむなしかった。これは、ルターが、エルフルトの小部屋で経験したのと同じ悩みであった。「人はどうして神の前に正しくありえようか」という、彼の魂を悩ましたのと同じ問題であった(ヨブ9:2)」。

ルターの修道院における悩みについては、大争闘上143を見よ。

キリストへの道82
「キリストは、この地上で私どもが会わねばならない試練と誘惑のまっただ中で生活し、罪なき生涯をお送りになりました。そして、私どものために死に、今や私どもの罪を取り除いて、おのれの義を与えようとしておいでになります。もし自分をキリストにささげ、キリストを自分の救い主として受け入れるならば、その生涯はこれまでいかに罪深きものであっても、かれのゆえに義とみなされるのであります。キリストの品性があなたの品性の代りとなり、神の前に全然罪を犯したことのないものとして受け入れられるのであります」。

「こればかりでなく、キリストは私どもの心までも変えてくださいます。信仰によって、キリストは心のうちに住みたまいます」。

 

キリストへの道83
「ですから、私ども自身のうちには、なんら誇るところはなく、自己賞揚のなんの根拠もありません。私どもの唯一の希望は、キリストの義が私どもに被せられることと、私どものうちに働き、私どもを通して働いてくださる聖霊の働きによるほかはないのであります」。

 

大争闘下 330
「法王制はこれらすべての欲求によくかなっている。それはほとんど全世界を包含する二種類の人々―①自分の功績によって救われようとする者と、②罪の中にあって救われようとする者―のために用意されている」(強調点筆者)。