あわれみ深い神

ミニストリーオブヒーリング202,203
「聖書は「失望せずに、つねに祈るべきこと」を教えている(ルカ18:1)。人がほんとうに祈る必要を感ずるときというのは力が尽き、自分の手から生命がすべり落ちていくように感ずるときである。健康な者は年々歳々絶えることなく与えられている神の驚くべき恵みをよく忘れてその恵みに対し、神を賛美することをしない。しかし一度病気になると神を思いだす。すなわち、人力が尽きると人間は神の助けの必要を感ずるものである。またあわれみ深い神は、真心から神に助けを求める者に顔をそむけたまわない。神は健康のときも病気のときも等しく避けどころである。)

詩篇130:13,14
「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの作られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。」

詩篇107:19,20
「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助けだされた。」

 

あけぼの下207,208
「神が悪人を長く忍ばれるために、人々は大胆に罪を犯す。しかし、長く延期されても、刑罰の確実なことと恐ろしさにはなんの変わりもない。「主はペラジム山で立たれたように立ちあがり、ギベオンの谷で憤られたように憤られて、その行いをなされる。その行いは類のないものである。またそのわざをなされる。そのわざは異なったものである」(イザヤ書28:21)。あわれみ深い神にとって、刑罰のわざは不思議な行為である。「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ」(エゼキエル書33:11)。主は、「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、・・・・悪と、とがと、罪とをゆるす者」であるが、「罰すべき者をば決してゆるさ」ない(出エジプト34:6,7)。神は刑罰を喜ばれないが、神の律法を犯す者には刑罰を与えられる。地の住民が全く腐敗して滅亡することを防ぐために、神はやむをえずこれをなさらなければならない。神は、いくらかの人々を救うために、罪にかたくなになった人々を滅ぼさなければならない。「主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者」である(ナホム書1:3)。主は、義をもって恐ろしいことを行ない、彼のふみにじられた律法の権威を擁護される。主が刑罰の執行を延ばしておられること自体が、神の刑罰を招いた罪の恐ろしさと、罪人に臨もうとする報復のきびしさを証明している。」

 

大争闘下170,171
「…日曜日は神が定められた安息日であると心から信じている真のキリスト者たちが、今も各教会におり、ローマ・カトリック教会も例外ではない。神は彼らの真剣な心と神の前での誠実さを受け入れられる。しかし、日曜日遵守が法律によって強いられ、真の安息日を守るべきことが世界に明らかにされるその時に、神の戒めを破って、単にローマの権威によるものにすぎないところの戒めに従う者は、それによって、神よりも法王教をあがめるのである。…こうして、神がご自分の権威のしるしであると宣言された制度を拒んで、その代わりに、ローマがその至上権のしるしとして選んだものを尊重するときに、人々は、それによって、ローマに対する忠誠のしるし、すなわち「獣の刻印」を受けるのである。こうして、この問題が人々の前に明らかに示されて、神の戒めと人間の戒めのどちらかを選ばねばならなくなったとき、それでも神の戒めを犯し続ける人々が、「獣の刻印」を受けるのである。」

 

大争闘下374,375
「しかし、真理が人の心と良心に明らかに示され、そしてそれが拒否された上でなければ、だれひとりとして神の怒りを 受けることはない。現代に対する特別の真理を聞く機会がこれまでになかった者が、大ぜいいる。第四条の戒めに従うべきことの真の意味が、まだ彼らに示されていない。すべての人の心を見ぬき、あらゆる動機を探られるおかたは、真理を知りたいと願っている者をだれ一人として、争闘の論点について欺かれるままにしてはお かれない。法令は、盲目的に人々に強制されることはない。すべての者は、賢明な決断を下すに十分なだけの光が与えられるのである。」