「第三天使の使命」は、 何を意味しているのか

「イエスがわれわれとともに住むためにおいでになったので、われわれは、神がわれわれの試練をよく知り、われわれの悲しみに同情してくださるということがわかる。アダムのむすこ娘はみな創造主が罪人の友であることをさとることができる。なぜなら、救い主の地上生活にあらわされた恵みの教理の1つ1つに、喜びの約束の1つ1つに、愛の行為の1つ1つに、きよい美しさの1つ1つに、われわれは神がわれらとともにいますことをみとめるからである」。(各時代の希望上「神われらと共にいます」7ページ)

「カペナウムで役人を祝福されたお方は同じようにわれわれを祝福しようと望んでおられる。だがこの苦悩していた父親のように、われわれはしばしば何かこの世の利益を望んでイエスを求める。そして自分の願いがかなえられたら、イエスの愛に信頼しようとする。救い主はわれわれが求めるよりももっと大きな祝福を与えようと望んでおられる。イエスは、われわれ自身の心の悪と、イエスの恵みの深い必要とを示すために、われわれの願いに対する答えを遅らせられる。イエスはわれわれが、利己的な動機からイエスを求めることをやめるように望んでおられる。自分の無力と大きな必要を告白して、われわれはイエスの愛に自分自身をまったく委ねるのである。

この役人は、信じる前に自分の祈りの成就を目に、見たいと望んだ。しかし彼は、彼のたのみがきかれて祝福が与えられたというイエスのみことばを信じなければならなかった。この教訓をわれわれもまた学ばねばならない。われわれは、神がわれわれの願いをきかれるのを見たり感じたりするから、信じるのではない。われわれは、神の約束に信頼するのである。信仰をもって神のみもとに行く時、願いごとはすべて神のみ心にとめられる。神の祝福を求めたら、それを受けることを信じ、そしてそれを受けたことを感謝すべきである。それからわれわれは、最も必要な時にその祝福が実現されることを確信して、自分の義務をつくすのである。こうすることをわれわれが学んだ時、われわれは祈りが答えられることを知る。神はわれわれのために、『その栄光の富にしたがい』『神の力強い活動によって』『はるかに越えて』なしてくださるのである(エペソ 3:16、1:19、3:20 )」。(各時代の希望上「あなたがたはしるしと奇跡を見ないかぎり」240-241ページ)