補遺4 天の婚宴と神からの招待

はじめに

聖書教理を学ばれた方々へのキリストからの特別メッセージその2をお届けいたします。
聖書教理というのは、前にご説明しましたように、聖書の要点を組織化した理論的体系をいいます。聖書の教えを建物にたとえるなら、教理は鉄骨のようなものということができます。そのように、教理は聖書全体の骨格をなすものですので、これがわかれば、神の救いの計画の大要がつかめたことになるわけです。後はイエス・キリストとの個人的なつながりを、どのようにして深めて行くかが課題となります。
聖書の教えは、これが書かれた当時の人に関係するはなしというだけでなく、こんにちのわれわれ自身に深くかかわることがらでもあります。そして、聖書が記す神の救いが、われわれにとって現実のものとなるかどうかは、これまで学んだことにたいする、われわれ自身の対応、すなわち選択と決断にかかっているということになります。
だが、残念ながら日本においては、せっかく神の救いの計画がわかったというのに、そこからさらに、個人的にキリストとつながりを確かなものにしようとする態度が、一向に見られないという人がほとんどのようです。頭ではわかっても、心に受け留めようとはしない、ということなのでしょう。これでは、結果において何も知らなかった方がまだまし、ということになってしまいます。なぜなら、イエスがこうおっしゃっておられるからです。
「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。・・・多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多くを要求されるのである」(ルカによる福音書一二ノ四七、四八)。
すなわちこれは、われわれが知ったことに対して責任があるということです。だがそのかわりに、もしその責任をはたすなら、これに対する報いは、じつにはかりしれないものがあるにちがいないのです。ですから、ただ知るだけにとどまっているのは残念なことであり、それは大きな損失でもあるということを覚えてほしいものです。
大説教者イエス・キリストは、人々がこのことに気づいてくれることを願って、お語りになったのが次に記す譬え話です。

ユダヤ人の宴会とキリストの宴会

むかしユダヤ人の間では、国家的・宗教的祝祭日には、よく祝宴が大々的に催される慣習がありました。これは、われわれのような異教世界の宴会とは、かなり異なった意味を持つものであったようです。
というのは、異教世界のそれは、この地上における幸いを謳歌して、飲み食いし、それを楽しむだけのことにすぎませんが、ユダヤ人の念頭にあったものは、たんに地上だけにとどまらず、それは天上における神の大宴会を想わせるものであったからです。
すなわち、神の選びの民であるユダヤ人は、神が催してくださる大宴会に招待されて、彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと共に、かつてこの地上ではだれも味わったことのない、すばらしい振る舞いにあずかるときがくる。そのとき異邦人たちは外に立って、羨ましそうにただ指をくわえて眺めるだけ、と、そういったことを彼らは好んで話題にし、それを誇りにして悦に入っていたようです。
イエスも、このような宴会によく招かれ、それに出席されましたが、もちろんこれは、あらゆる機会を捉えて神の国の真理を伝えることが目的でした。
ところで、このような宴会の席上、列席者のひとりがイエスに向かって、「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言ったというのです。これは、当時宴会に招かれた者同士、おたがいの挨拶言葉になってもいたようです。こうしたしきたりや光景を目にして、イエスの心はいうにいわれぬ悲しみに満たされたのです。
じつをいえば、イエスご自身このときすでに、やがて天でおこなわれる大宴会のひな型ともいうべきものを、この地上に用意して、人々を招待しておられたのです。すなわち、神の福音という振る舞いです。それは、ユダヤ人異邦人の別なく、また富める者貧しい者の差別など一切ないばかりか、身寄りのない者や病める者をも排除しない、望む者を一人残らず迎え入れるという宴会です。
これにたいして、ユダヤ人はどういう態度をとっていたか。彼らは一様に、これを拒み退けようとしていたのでした。そこでイエスは、いまからでも遅くない。なんとか彼らにその不心得をさとらせ、正しい心構えと態度で神の宴会への招きに応じる者となってほしいとの願いから、つぎのような譬え話をされたのでした。

「ある人が盛大な晩餐会を催して、大勢の人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは、土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞおゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』と言った。もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。僕は帰って来て、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人は僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言っておくが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」(ルカによる福音書一四ノ一六〜二四)。

イエスは、この譬えによって何を言おうとしておられたのでしょうか。この場合、対象はあきらかにユダヤ人であり、ことにパリサイ人など、ユダヤ教の指導者方のことを語っておられたのです。
神は、いままさに大いなる宴会を催して彼らを招いておられる。その振る舞いは、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書一ノ二九)。を犠牲として備えられたもてなしです。
すなわち、まもなく十字架にかかって死なれるキリストこそ、天から下ってきた真の生けるパンであり、霊の飲み物であって、これを食する者に永遠の命をえさせるという、この福音こそが彼らが招かれている宴会にほかならなかったのです。
それだというのに、彼らはこのキリストを救い主として受け入れようとはせず、むしろ拒み退けようとしている。彼らのイエスに対するこのような仕打ちこそが、神の宴会に対して、彼らがとっている態度にほかならない。
そのことを、イエスはこの譬えによって鋭く指摘しておられるわけです。にもかかわらず、彼らはまったく理由にならないことを口実にして、神の招きを拒んでいたのです。
このイエスの譬え話を聞いたバリサイ人らは、これが何を意味するかをうすうすは感じ取ったはずです。ですから、ほんとうなら、自分たちには重大な誤りがあることに気づき、みずからを深く反省して、イエスにたいする態度を改め、イエスの教えにもっと謙虚に耳を傾けるべきであったと思いますが、残念ながら彼らはそうしませんでした。それどころか、逆にイエスに対して反感をいだくようになり、憎しみを募らせて行ったようです。
とすると、問題なのはユダヤ人であって、われわれ異邦人には、なんの関わりもないことなのでしょうか。たしかに、イエスがこの譬えによって指摘し、譴責しておられるのは、どこまでも、キリストを拒んだかつてのユダヤ人であって、異邦人がここで問題にされているわけではない、と、われわれは思ってしまいがちです。
しかし、どうでしょう。たとえば、こんにちわが日本において、宣教の歴史が旧教四六○年、新教一五○年を数えるというのに、クリスチャンの数は人口の一パーセントにすぎない状態です。それはなぜなのか。イエスのお語りになった譬えが示していますように、これは福音を聞いた多くの人が、神の招きを拒んで受け入れないためではないでしょうか。
このようにみてきますと、このイエスの譬え話は、直接には当時のユダヤ人が対象であったとはいえ、われわれに無関係であるとはいえないわけです。それどころか、彼らを例としてそれから教訓を学ぶよう、こんにちのわれらに対して与えられている、神よりの大切な警告のメッセージとして、これを受けとめる必要があるのではないでしょうか。

この譬え話がわれらに意味するもの

では、イエスのお語りになったこの譬えは、こんにちのわれわれにたいしてどんな意味を持ち、そして何を語りかけているのでしょうか。話の要点は、宴会に招待された人が、みなこれを断ったということにあります。
まず、譬えによると、この宴会の招待は前もって人々に伝えられており、恐らく出席の承諾を得た上で準備がすすめられていたものと思われます。迎えにきた僕たちが、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と告げていることによって、それがわかります。はっきりいえば、初めは「行く」と約束していたのに、宴会が始まるときになって、これを断っているということなのです。これはたいへん礼を失する行為であり、招いた人にとっては、ひどい屈辱的な仕打ちとなったはずです。
宴会の招待を断った人に三種類の人があったことが、ここに述べられています。

1、土地を買った人
「最初の人は、わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしくださいと言った」。
土地、これはわれわれの所有財産の中で、主たるものと言えましょう。家を建ててそこに住むにしても、土を耕して食物を収穫するにしても、あるいは工場を設置して製品を作るにしても、地所がなければ何も始まりません。まずもって土地さえあればということで、土地はわれわれの所有財産の基本であり、その代表的なものということができましょう。
ところで、譬えの中の最初の人は、この土地を買ったというのです。これは、このひとにとって人生最大のできごとといってよいかもしれません。
しかし、その土地は、これから買いに行くというのではありません。もしそうなら、他の人に先に買われると手に入らなくなるという心配もあるわけですから、これを後回しにするわけにはいかないという事情も、理解できないことではありません。だが、この譬えによれば、この土地はもう買ってしまっているのです。
「行って見なければなりません」というのは、宴会の招待を断る口実としては何ら意味をなしません。この言いわけにならないことを口実にして、招待を断っているのは、彼の心は、もっぱら自分の土地に向けられていて、宴会にはなんの興味も関心もないことを示しています。
こんにち福音に接し、神の招きの声を聞く人の中に、この世の生活の基盤や安定を第一にして、それが少しでも脅かされることを恐れて、神の招きを拒んでいる人がなんと多いことでしょう。
たとえば、きわめて象徴的な例として、家督権や祭祀権などをあげることができようと思います。
「わたしは長男であって、先祖代々の家を継がなければならない。また位牌やお墓を継承する責任がある。私は、長男としての立場上、これを守って行く責任からのがれることはできない。それは絶対不可能である」。
このような理由でもって、クリスチャンになることをためらい、断念した人を、わたしは何人も知っています。これは、この世的に考えるなら、たしかに正当な理由となるものなのでしょう。したがって、このような人の心情をまったく理解できないわけではありません。
しかし、神の宴会というのは、罪の結果、永遠の滅びの運命にあるわれわれ罪人のために、神が大変な犠牲を払って、救いの道を構じてくださったものなのです。すなわち、神はキリストの十字架という犠牲の上に、その救いといのちを備え、これを提供し振る舞ってくださるための宴会なのです。そのような宴会への招きにたいして、これに応じることを断るどんな理由があるというのでしょうか。これを断ることは、自分の命よりも先祖代々の家業や位牌が大事であると言っているようなものです。これでは「いのちより健康が大事」といっているのと同じことになってしまいます。本末転倒とは、このようなことをいうのではないでしょうか。
しかも、宴会の招待に応じるのに、かならずしも、せっかく手に入れた土地を手放さなければならないというわけではないのです。要は、心の持ち方、すなわち執着心の問題です。その人の関心や目的また価値観のおきどころが問題なのです。すなわち、神よりも人に、人よりも物に、命よりも持ち物に、その人の心がそそがれ、それにとらわれていることに問題があるのです。

2、五対の牛を買った人
「ほかの人は、わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべにゆくところです。どうぞ、おゆるしください」。
五対の牛、これは乳牛というよりは、運搬か耕作に使用する牛と思われます。すなわち、事業を代表するものといえましょう。しかも、五対とあるところをみれば、相当の大規模な事業をうかがわせます。これだけの事業を営むというのであれば、きっと毎日が忙しさに追いまくられる生活、ということが想像されます。
とはいえ、このひとの場合、もうその牛を買ったというのですから、仕事はこれからというのであって、いまどうしても手を放せないという状態ではなさそうです。しかも、この人は買った牛を「しらべにゆくところです」といっていますが、その牛が運搬や耕作に適するかどうかは、買う前にしらべるはずではないでしょうか。ですから、すでに買った牛をしらべに行くというのは、正当な口実とはいえません。
この人は「それをしらべに行くところです」といっているところをみますと、これは、宴会の用意ができたことを知らせる僕が来る前に、家を出るつもりだったような気もします。彼は自分自身の目的のために、すでに動き出している姿がここにみられます。彼にとっては、なによりもまず牛、ということであったわけです。
では、われわれはどうでしょう。われわれは生活のためとはいえ、毎日忙しく働いています。なかには生活に追われて、仕事を休みたくても休むわけにいかない、というひとがいるのも事実でしょう。
仕事や生活ということで、頭に浮かぶのはつぎのうたです。

はたらけどはたらけどなおわがくらし
らくにならざりじっと手を見る

この啄木のうたのように、むかしはたしかに、一日働かなければ一日食べられない、というひとがいたのは事実でしょう。しかし、こんにちたいていの人は、かならずしも飢えを凌ぐための忙しさということではないような気もします。過労死ということもないではありませんが、それよりも、忙しくしていることが人生の生き甲斐であり、価値であるかのように思っているひとがあるのも、否定できない事実のように思われます。
理由はともあれ、事業や仕事の忙しさが、果たして神の救いへの招きを断らなければならない正当な理由になりうるものかどうかです。忙の字は、心が亡びるの意とよくいわれます。こうなると、ほんらいは人間が主であって、仕事は手段であるべきなのに、仕事が主人であって、人間はその僕また単なる道具にすぎない、ということになってしまってはいないでしょうか。これでは、人が忙しくしている意味がなくなってしまいます。
こうしたまちがった生き方から、人間を守るために神が定めてくださったのが、安息日の戒めなのです。にもかかわらず、こんにち福音に接する人の多くが、忙しさのゆえに神の招きを拒んでいるというのが実情なのです。
ではあなたはどうでしょうか。あなたも、忙しいということが、神の招きを退ける当然の、そして正当な理由のように思っていはしませんか。

3、妻を娶った人
「もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。」
この妻を娶るということは、家庭または生活を代表しているといえましょう。それと同時に、この家庭というものは、人間の楽しみや喜びや慰めなど、それに社交の楽しみや快楽等をも含めて、人間的幸いを代表する象徴的存在ともいえます。
この結婚は、われわれの人生において、たしかにおろそかにできない、大事なことにはちがいありません。じじつ、妻を娶る結果として、夫婦の間から子供が生まれ、兄弟姉妹の家族関係が生じ、こうして家庭が形成されます。これが社会を構成する基礎的単位ともなるわけで、これが尊重されなければならないのは当然です。
ところで、この妻を娶った人は、宴会に参ることができないといっていますが、結婚したばかりで二人が離れがたいというのであれば、妻を同伴することもできたはずです。
しかし、前の人たちは「おゆるしください」といっていますが、この人は「ゆくことができない」と、にべもなく断っています。これは、「自分には行く気などないのだ」といっているのと同然です。
ところで、これはこんにちも普通に見られる光景かもしれません。多くの人は、神の招きにたいして、親は子供に気兼ねし、子供は親の怒りを恐れる。夫は妻が反対するからといい、妻は夫が許してくれないからという。家族の一員として、家庭に波風を立てたくないからということで躊躇する。そうした気持ちや理由は、よく理解もでき、同情もできます。しかし、こうした事情にさまたげられて神に従うことができないというのは、とても残念なことです。
中には、酒タバコがやめられないために、神に背を向ける人さえもあるというありさま。しかし、これらのことが果たして、神に従うことを断念しなければならない、もっともな理由といえるものなのでしょうか。
じつは、結婚は神が人間のためにお定めになった神聖な制度です。人間の幸いの基礎として、家庭をお与えくださった神が、さらに大いなる幸い(神を父とする天の家庭)を提供するために催してくださる宴会を、家庭の事情を理由に断るというのは、どう考えても筋の通る話とはいえないのではないでしょうか。

宴会を断った口実は何を意味するか

この譬えによると、宴会に招かれた者はみな一様に断ったとあります。もちろん、それぞれに理由を告げています。その理由の多くは、すくなくとも世間的には、また人間的立場からは、たしかに正当な理由と見なされることなのかもしれません。しかしそれは、神に対しても通用するものなのかどうかです。
これについて、神の使命者E・G・ホワイトの説明に、ぜひ耳を傾けてみたいと思います。
「言いわけをした者のうちだれ一人として実際にその必要があってそういったのではなかった」。
「口実は、みな心が他のことに奪われていたことを示す。招かれた客は、他の興味に心が奪われて夢中であった。彼らは、行きますと約束した招待を破棄して、彼らの無関心によって、気高い主人を侮辱した」。
「彼らは永遠の事物より現世の利益のほうを重視する」
「宴会の主であるお方は彼らの見えすいた口実を、ご自身の招待に対する侮辱であるとみなされるのである」。
さらにホワイトは、譬えの中の三番目の人の口実について、次のように指摘しています。
「この人々は皆、家庭内に分裂がおこるのを恐れて救い主の招待を断わるのである。彼らは神に従うことを拒むことによって、家庭の平和と幸福を確保したと考えている。しかしこれは思い違いである」。
これはどういうことかといいますと、イエスはかつてつぎのように仰せになっていました。
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和でなくつるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして、家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父また母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書一○ノ三四〜三七)。
これは、こんにちイスラム教の過激派にみられるように、キリスト教も武力やテロなどで家庭を破壊することを目論んでいるという、そんなことを意味しているのではありません。イエスがこの世にこられたのは、人々を救いに招くためですが、その結果どうなるかというと、ある人がこの招きにこたえてキリストに従おうとすると、かならず反対が起こり、場合によって家族から妨害や迫害を受けることにもなろう、ということを意味しているのです。なぜなら、この世は挙げて神に背きサタンの支配に服しているからです。
その中にあって、われわれが神に従おうとすれば、サタンは黙って見ていることはしない。彼はかならず、われらの周囲の者、ことに家族をそそのかして、信仰に反対させ、場合によっては迫害という手段に訴えてでも信仰をやめさせようとする。サタンは肉身の絆を鎖として、われらを罪のこの世につなぎとめようとするのです。その結果、これまで平和に見えていた家庭に争いがおこり、対立や分裂が生じることにもなるのです。
その際、多くの人は、これに抗しきれず、なかには神の救いよりも、家庭の平和を大事に考えて、神の招きを拒むようになる。これは世渡りのためには、一見無難で賢明な選択のようにも思われがちですが、じつはその結果についてホワイトはつぎのように警告しています。
「彼らはキリストの愛を拒むことによって、人間の愛に純潔と堅固さを与えることができる唯一のものを拒んでいるのである。彼らは天国を失うのみならず、天国を犠牲にしてまで得ようとしたものを、真に楽しむことすらできなくなるのである」。
この神の使命者の言っていることがおわかりでしょうか。これにわたしなりの説明を加えさせていただくなら、こういうことなのです。この世界は神に背き、サタンの支配下におかれている。したがって、世界も、社会も、家庭も、個人の思想や道徳観念までも、すべてサタンの影響により汚染されてしまっている。家庭の絆でさえも、純粋な愛によって結ばれているとは言えない。それぞれが利己的打算によって、かろうじてつながっているにすぎない。
その証拠に、いったん利害が衝突することにでもなれば、たちまち愛も憎しみに変わり、むつまじさが敵対関係に変貌し、親が子を、子が親を、夫が妻を、妻が夫を殺すことさえもする。多くの家庭の平和は薄氷の上に築かれた、きわめて脆弱で不安定なものにすぎない。これが、この世の家庭の実態なのです。
では、真のあるべき家庭はどうしたら築けるのか。それは唯一つ、神を信じ、家庭を神によって支配していただくことです。神を信じる信仰によって結ばれる家庭は、天国の模型のような存在となるのです。
それにもかかわらず、この地上の偽装的家庭に満足し、これに固執して、神の宴会からの招待を断る者は、天国という真の家庭を失うことになるばかりか、この地上における家庭までも、いつかはその偽装がばれて、もはや住み続けることができなくなるときがくることになろう。
結果として、その人は天国の家庭を失うばかりか、この地上の家庭をも失うことにもなり、永遠に二重の損失を招くことになるであろう、ということなのです。
ここでいわれていることは、もちろん土地を買った人、五対の牛を買った人についてもいえることです。
「今日も同じである。人びとは、いろいろの言いわけをして宴会の招待を断ったのであるが、それは福音の招待を拒む言いわけを網羅している」(E・G・ホワイト)。

宴会の招待に応じるためには

では、宴会の招待に応じるためにはどうすべきなのでしょう。所有する財産や事業経営、また家庭生活や家族たち、これらをすべて棄てよということなのであろうか。もしそうであるなら、現実問題としてだれも神に従う事などできるわけがないではないか。もしかしたら、イエスの語られた譬えをそのように読み、また受け取られた方がなかったとはいえません。
しかし、イエスが荒れ野でサタンの試みに遭われたさい、いわれた言葉に注意したいと思います。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書四ノ四)。
これによると、イエスは、人が生きて行くためにパンが必要であることを、はっきり認めておられます。しかし同時に、人は「パンだけ」で生きることはできないとも言っておられるのです。
イエスは、人間がこの世に生きて行くのに必要な、所有物、事業、家庭を否定しておられるわけでは決してありません。イエスのおっしゃりたいことは、次の点にあるのです。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書六ノ三三)。
すなわち、人間が人間らしく生きて行くためには、第一のものを第一にしなければならない。いいかえれば、人間は命の与え主である創造主を神として崇め、これに仕えることを本分とすべきである。この神に仕えまた従うことを、何者また何事によっても妨げられてはならない、ということなのです。
この神との関係を確立することによって、はじめて所有物も事業も家庭も意味を持つようになり、祝福ともなるのであって、この神を無視したり、神の事を後回しにしたりするならば、結果として、神や天国を失うばかりか、この世のすべてをも失うことになってしまう、というのです。
これをわかりやすい例で説明させていただきますと、いまここに、やがて命取りとなる病に冒されている人があるとします。さっそく入院して、処置するように勧められているのに、仕事が忙しいからという理由で入院をためらったり拒否したりしているとしたら、みなさんはどう思われるでしょうか。仕事が大事だからといって入院治療を断わるならば、単に健康的な生活ができなくなるばかりか、そのうち命を失うことによって、けっきょくは仕事もできなくなって、事業そのものが操業不能になり、破産し倒壊してしまうことになるでありましょう。
神の救いの招きを拒むということは、これとまったく同じことをしていることになるわけです。ですから、これは決して、やむを得ないこととして済ませられる問題ではないはずです。
このように考えてきますと、これまで聖書の教理を学んでこられたみなさんがたにとって、この譬え話は、イエスから直接みなさんがたに与えられたメッセージといってよいのではないかと思います。どなたもきっと、そのように感じ取っておられるにちがいないと信じます。
この譬え話によって、イエスが語りかけようとする対象は、前にも触れましたように、直接にはユダヤ人でした。そして、イエスは、彼らが神の招きを受けるかどうかを、すべてご存知であり、なにもかも見通しておられたようです。ですから、イエスは、この譬えのむすびとしてつぎのようにおっしゃっているのです。
「あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」。
このお言葉のとおり、彼らはイエスを十字架にかけることによって、神の招きを拒み、退けたのでした。それにもかかわらず、イエスがこの譬えを語られたのは、ユダヤ人の背後に、人類歴史の未来が眺望され、それに目を注ぎながら、イエスは全世界のすべてのひとを対象に、これを語っておられたというのもまたあきらかなことです。

神の招きは強制か

イエスの譬えによると「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」とあります。なかには、これを「強制的に」という意にとってしまう人もいるかと思いますが、これはけっしてそういう意味ではありません。神の使命者ホワイトは、この点に触れてつぎのように説明しています。「福音は人々をキリストに連れてくるのに強制力を決して用いない」と。
ではこの譬えは、どういう意味でいわれているのでしょう。ホワイトはつづいて、このように説明しています。
「わたしたちは単に『来なさい』と言うのではない。招きを聞いても、その意味を聞きとることができない鈍い耳の人々がいる。彼らの目はそなえられたものになんのよきものも見いだせないほど盲目になっている」。
これがじつは、われわれ異邦人の現実のすがたなのです。ことにわが日本は、諸外国から「無宗教の国」と評されています。ユダヤ人や西洋の人なら、サッとわかることも、日本人のほとんどは、キリスト教に関してはチンプンカンプンで容易に理解できないのが実態です。
譬えの中に、「無理やりにひっぱってくるように」とあるのは、こうした人々を、かんたんに見切りをつけて放置することなく、この福音を理解させるために、できるだけの説明努力を払うべきことを意味するものと解されます。
じつは、わたしがみなさんにお送りしている印刷物も、信仰強制の意図はまったくなく、ただ神の招きがどういう意味内容のものかを、できるだけ知っていただくことが目的なのです。そのうえで、この神の招きを受け入れるかどうかは、みなさんがご自分でお決めいただくほかはないわけです。その意味で、布告伝達がわたしの役割であって、勧誘とか強制が私どもの意図するところでもなければ責任でもないのです。

 

神の招きを拒む者の運命

とはいえ、この神の招きを断るならどうなるかということです。譬えの中でイエスは、「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう」といっておられる。これがユダヤ人において事実となってしまったわけです。しかし、同じことがわれわれ異邦人のうえに再現されることのないように、というのがわたしの切なる願いです。
この譬えに示されているように、ユダヤ人がせっかくの神の招きを受け入れず、これを拒み退けるであろうことを、イエスは見通しておられました。にもかかわらず、神はなんとかして彼らの翻意を促そうとしておられたのです。
この後、イエスはガリラヤを去ってエルサレムに向かわれたのですが、一行がオリブ山の上にさしかかったとき、イエスは立ち止まって、眼下に開けるエルサレムの都を見下ろしながら、涙を流し、肩をふるわせて激しくお泣きになりました。
「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾度集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言うときまでは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイによる福音書二四ノ三七ノ四九)。
ユダヤ人は、神の招きを拒んだ結果として、やがて滅びることになると、イエスは預言されたのでした。しかも、じじつエルサレムは、紀元七○年にローマ軍の包囲攻撃を受けて、町は焼かれ、民は国を失い、この民族は散らされて世界をさすろう身となったのでした。
しかもこれは、たんに予型的な意味をもつものにすぎなかったのです。というのは、これを前触れ的な警告として、やがての日に、全世界が同じ運命をたどるようになることを預言されたのでした。
神の使命者ホワイトは、つぎのように説明しています。
「わたしたちの時代はあわれみの最後の使命の招待が、人の子らにむかって発せられているときである。」
「今日も同じである。もし人が神の愛を喜んで受けることをせず、その愛が心のなかで魂を和らげ、屈服させる永続的な力とならないならば、わたしたちは全く失われた状態にあるのである」。
ここで、かつてイエスが任命した一二弟子に、彼がお与えになった訓戒に注目したいと思います。
「だから人の前でわたしを受け入れる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受け入れるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」(マタイによる福音書一○ノ三二、三三)。
これは、こんにち神の招きを拒む者にも、そのまま当てはまる警告ではないかと思います。
「地上においてのわたしの招きを受け入れる者を、わたしも天における父なる神の大宴会に迎え入れるであろう。しかし、いまわたしの招きを拒むならば、天の父なる神の宴会から、わたしもそのひとを拒むであろう」、と。
「あなたがたは、語っておられるかたをこばむことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか」」(ヘブル人への手紙一二ノ二五)。

この晩餐の意味するもの

この譬えのなかで注意すべきは「わたしの晩餐」という言葉です。神が催される宴会はかつてのユダヤ人にとっては午餐であったかもしれませんが、こんにちのわれわれにとつては、時代的に見てまさに晩餐に当たります。ですからこれは「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(コリント人への第一の手紙六ノ二)。といわれているように、神の救いの計画はすでになし遂げられ、いまや全世界に向かって招待が発せられているのです。
ある人はこういいます。「キリストの十字架から、もう二千年も経っている。この世はこれからも、これまでと同じように続いて行くだけのことにすぎない」と。これらの人々には、神の救いへの招きなど、馬耳東風に聞き流されています。しかし、イエスの弟子ペテロはつぎのように警告しています。
「愛する者たちよ。この一時を忘れてはならない。・・・ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(ペテロの第二の手紙三ノ八、九)。
このことがわかれば、パウロがいう「今は、恵みの時、今は、救いの日」という言葉が、実感として心に迫ってくるのを覚えずにはいられないはずです。今、今が、今こそが、恵みの時、救いの日なのです。われわれは、このような切迫感を持って、このイエスの譬えに耳を傾ける必要がありましょう。なぜなら、「そして戸はしめられた」(マタイによる福音書二五ノ一○)。といわれている時が、もうすぐくるからです。

むすび

しかし、われわれがもし、かつてのユダヤ人から教訓を学び、神のこの招きに応じるならばどうでしょうか。
「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』」(マタイによる福音書二五ノ三四)。
この永遠の御国こそ、われらが招かれている神の宴会にほかならないのです。この宴会に迎え入れられた者のさいわいは、どんなでありましょうか。
これについて神の使命者ホワイトは、神からの異象によって見せられた光景を、次のように述べています。
「贖われた群衆の前には、聖都がある。イエスは、真珠の門を広くあけられる。そして、真理を守ってきた諸国の民がその中に入る。そこに彼らは、神のパラダイス、すなわちアダムが罪を犯す前のふるさとを見る。その時、人間の耳が今まで聞いたどんな音楽よりも豊かな美しいあの声が、『あなたがたのたたかいは終わった。』『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されているみ国を受けつぎなさい』と言われる」(「各時代の大争闘下巻」四二六頁)。
「ああ、なんという驚嘆すべき贖いの愛であろう。無限なるおかたであられる天父が、贖われた者たちをごらんになって、罪による不調和が消え、罪ののろいが除かれ、人性が再び神性と調和して、そこに神のみかたちをごらんになる時の、その喜びはどんなであろう。ことばに言い表すことのできない愛をもって、イエスは忠実な者たちを主の喜びに迎え入れてくださる。救い主の喜びは、ご自身の苦悩と屈辱とによって救われた魂を、栄光のみ国において見ることである。・・・すべての者が休息の港に入れられたことを見るとき、彼らは言うに言われぬ歓喜に心が満たされ、自分たちの冠をイエスの足もとに投げ出して、永遠に尽きることのない年月にわたってイエスを讃美するのである」(「各時代の大争闘下巻」四二七)。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい](ヨハネの黙示録三ノ二○〜二二)。

「それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。またわたしに言った、『これらは、神の真実の言葉である』。」(ヨハネの黙示録一九ノ九)。

 

神の招き(賛美歌二四○番)

一、とざせる門を主はたたきて、
  こたえいかにとたたずみたもう。
  ながく外部(そとも)に立たせまつる
  われら御民のこころなさよ。

二、みいつくしみのなみだをもて
  いまなおやまず、おとないたもう。
  主イエスの愛のそのひろさよ、
  われらが罪のそのふかさよ。

三、汝らがために死にしわれを
  などか拒むとおおせきこゆ。
  今やいかでかためらいおらん。
  主よ、戸を開く、入らせたまえ。