補遺3 神のみ言葉のたねと人の心の畑

教理を学ばれた方々へのキリストからの特別メッセージ

 

はじめに

聖書教理の学びはおわりました。神の使信を託されているわたしの役割は、一応これで終わりとなります。
キリスト教は、信仰と良心の自由をなによりも大切なものとして尊重します。したがって、おしえを無理強いすることはもちろん、しつこく勧誘するようなことはいたしません。あとはみなさまがたが、これまで学んだことについてどのように対処するか、ご自分で態度を決定しなければならないことになります。
しかし、「神の救いの計画」を学ばれたみなさんに対しては、キリストからの特別メッセージがあります。イエスはこれをたとえ話でお語りになりました。卑近な事象をたとえとして、こどもが聞いてもわかる非常に単純で平易なおはなしをしておられますが、内容は底知れない深い意味をもつものです。
これは教理研究の締めくくりとなるもので、これをどのように受け止め、これにどう応答するかによって各自の運命が決まることにもなるという、たいへん重要な意味を持つ説教です。そのことを念頭において、注意深くお読みになっていただきたいと思います。それを1と2の二回にわけてお伝えさせていただきます。

種まきの譬え

これは、マタイによる福音書とルカによる福音書、それにマルコによる福音書にも記されていますが、ここでは主として、マタイによる福音書に基づいて解説をいたします。たとえの記事は、新約聖書の最初の書マタイによる福音書一三章を開いて、そこをごらんになりながら、耳を傾けてくださるようお願いします。
このたとえ話は、福音のもつ意味と、これが伝えられるとき、どういう結果になるのかについて、前もってあきらかにする目的で語られています。すなわち、神の福音がいままさに全世界にのべ伝えられようとしている。いったいこの福音にはどういう目的があるのか。この福音にたいして、それを聞いた人々がどういう反応を示すようになるのか。その反応いかんが、その人にどういう結果をもたらすのか。そういったことについて、イエスはすべてを見通しておられ、それを告げることによって人々に警告を与え、これを正しく受け止めることができるように、この福音を聞く者の心を備えさせようとしておられるのです。

舞台設定

イエスはそのころ、ガリラヤ湖畔で福音をのべ伝えておられましたが、この日もイエスの噂を聞いた人々が大勢イエスのもとに集まってきました。そのため、イエスは群衆に押し迫られて、岸辺に立っていることができなくなり、小舟に乗り、でしたちに舟をすこし沖のほうに漕ぎ出させ、湖上の舟の中から、岸辺に群がる群衆にむかって話しかけられました。
群衆の背後は丘陵になっており、あちこちに畑を耕し、種をまく農夫の姿が見られました。イエスはそうした光景を目にしながら、それを即座にたとえとして用い、神の国の福音を説き示されたのでした。まさに当意即妙の説教をされたわけです。
まず種は、神のみことば、すなわち真理の教え、福音を意味します。
畑は、全世界であり、福音を伝えられる人々の心をたとえています。
種をまく者は、これは人の子と呼ばれるイエスを指してます。

《見よ、種まきが種をまきに出て行った。》(三)
むかし、東方アジアでは、農夫も街の城壁の内側に居を構えていました。夜があけ、日が出ると、農夫は鋤をかつぎ、ろばを曳いて城門の外に出て行き、それぞれの農地で耕作に従事したのでした。
そのように、福音の種まき人であるイエスは、彼の故郷である天上の宮廷を離れ、農地であるこの地上に降りてこられて、福音の種をまく働きを始められたのでした。それは、いまから二千年も前のことですが、イエスはこんにちもなお、教会を通して、世の人々に福音の種をまく働きを推し進めておいでになります。
ところで、種は神のみことばであり、種をまく人は神の子イエス・キリストです。それにもかかわらず、この福音を聞く人々には、幾種類かの異なった結果が見られることを、イエスは指摘しておられます。そして、それはなぜなのかが問題です。結果の違いは、畑いかんによるというのが、この譬えのポイントです。
イエスは、福音を聞く人の心の状態に、四種類あることを明らかにし、それぞれの畑の状態について、説明をしておられます。その畑とは、道ばた、石地、いばらの地、良い地です。
では、われわれはこの四種の畑のどれに当てはまるのか、各自謙虚に自己を吟味してみる必要があります。

一、道ばた
《まいているうちに道ばたに落ちた種があった。すると鳥がきて食べてしまった》(四節)。
まず、道ばたですが、これはもともと畑ともいえない場所です。ここは道路ですから、牛馬や人がたえず行き交い、地面が踏み固められて石のようになっています。農夫は道路に種をまくはずもありませんが、たまたまそこに種がこぼれ落ちたとします。するとどうなるでしょう。
そんなところでは、種は発芽できません。ですから、「鳥がきて食べてしまった」(四節)とあるように、たちまち鳥に食べられるか、行き交う人々や牛馬の車輪に踏みつぶされてしまいます。
これはどういう人のことをいうのでしょうか。イエスはつぎのように説明しておられます。
「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く」(一九節)。
聞いても悟らない人、すなわち、神に対して固く心を閉ざしている人がそれに当たります。
これについてまずいえるのは、無神論者です。このような人の人生観は、唯物論が基底となっており、目に見える物や、手で触れる物だけが実在するもので、それ以外は単なる人間の思い込みにすぎない。神など目に見えないものは、人が勝手に観念的に描きあげた架空のものにすぎない。そんなものは、人がそう思いこんでいるだけで偽装にすぎない、というのです。このような考え方の人は、はじめから福音を聞く気などさらさらない。神の言に対してなんの反応も示さず、まったく無関心な態度をとります。
さらに、罪や悪習慣の奴隷となっている人もそうです。使徒パウロは、このような人のことを「罪の惑わしに陥って、心をかたくなにしている者」(ヘブル人への手紙三ノ一三)といっていますが、罪のために良心が焼け焦げ、麻痺してしまっていて、神とか、真理とか、精神的、道徳的なことにほとんど無感覚の人です。
あるいはまた、学問や地位や名誉などを鼻にかけ、おごり高ぶって、他人に対して傲慢不遜な態度の人も、それにあたるといえましょう。こういう人は、他人の言うことにはいっさい耳を貸そうとしない。まして、神とか、真理とか、救い、などといったことには、理解も関心もなく、そんなものは、この俺には必要がないとばかりに、はじめから聞く耳を持たないのです。
また世には、道徳的に非の打ちどころがなく、社会的にもさまざまな貢献をなし、世の中のために尽くしている。当然、まわりからも模範的な人として尊敬され、賞賛されてもいる。そういう人もいるにはいます。が、じつはそういう人にかぎって、とかく、自分が人間的にりっぱであることに自己満足と誇りを持っていて、人間を超えた偉大な権威というものをいっさい無視し、畏れを知らない、という傾向が見られがちです。
そればかりか、「信仰などというものは、それは刑務所の人間か、世のならず者、あるいは自分一人では生きてゆけないような弱い人間が対象であって、このわしには関係のないものであり、その必要はさらさらない」、そう言って憚らない人もいます。これもまた、道ばたのような人ということになりましょう。
ここで、もう一つ声をひそめて言い添えておかねばならない部類のひとがあります。それは、宗教家です。宗教家という以上、牧師もそのなかにはいるわけで、その反省の上に立って申し上げることなのですが、ここでは一例として、あえて仏教についてとりあげてみることにいたします。
仏教は、仏道という言い方もあるように、これは人の歩むべき道を指し示すおしえにほかなりません。仏教の開祖はいうまでもなくお釈迦さまですが、そのお釈迦さまが亡くなられて、七、八世紀後に現れ、中興八宗の祖といわれたひとに、龍樹(ナーガールジュナ)という導師がいます。このひとは、第二の釈迦といわれる人物で、中国と日本の仏教は、お釈迦さまよりこのひとの影響を多くうけています。彼の主著は、「 十住毘婆沙論」という本です。この書はつぎのような歌ではじめられています。
「敬礼一切仏無上之大道」(私はみ仏の前に恭敬し礼拝いたします。まことにみ仏は無上の大道におわします)。
すなわち、仏は「無上の大道」である、というのです。そして龍樹は「仏道とは、現実人生に菩薩道を展開する求道者を誕生させるものである」と説明しています。道・道・道です。これを如来の道とも呼び、妙道とも称しています。十住は十地ともいい、無上の境地に到達する過程の十段階を指します。その過程が道であり、仏とはそこに向かって踏み行くべき道にほかならないというのです。すなわち仏教は、人がその上を歩くための道であって、それは無上道ではあっても、いのちを生み育てるための畑ではありえないのです。
それかあらぬか、仏教は自らを「神を立てない宗教」と規定し、無神論を標榜しています。その結果、神のことばである種は、たといそこにまかれたとしても発芽する余地はほとんどありません。
かつてエジプトの王パロが、神の使者モーセに対して「わたしは神など知らない」と言い放ったように、世には、神に対して無関心であり、神の存在を無視し、さらには頭からこれを否定する人がいます。このような人々は、善人悪人を問わず、神に対して傍若無人というか、わたしは別に神を必要としないといって、扉を固く閉ざしていっかな心を開こうとしないのです。このたぐいの人は、やはり神に対し、福音に対しては、道ばたにたとえられるべき人ということになりましょう。
ところで、このような人に、神の言葉が伝えられたとしたらどうなるでしょうか。その種は、地面が道路として踏み固められているために、たまたまこぼれた種は根をおろすことができず、芽をだすこともなく、地面に転がったままになります。そうすると、たちまち鳥(サタン)が飛んできて、その種を啄み去ってしまいます。実を結ぶ可能性など金輪際ありません。
イエスも「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚になげてやるな。恐らく彼らはそれを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみつくであろう」(マタイによる福音書七ノ六)。といわれましたが、それはこのような人のことをいわれたのかもしれません。仏教的にいえば、縁無き衆生ということになりましょうか。
ではどうでしょう。せっかく福音に接したわたしたちのなかに、このたとえに当てはまるような人はいないでしょうか。わたしたちはいま、このイエスから、それぞれ自己検証を求められているのです。

二、石地
《ほかの種は土のうすい石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった》(五、六節)。
次は石地です。ここは道ばたと異なり、表面はやわらかい土でおおわれています。ですから、そこに種がまかれますと、すぐ芽を出し、成長をはじめます。しかし、まもなくしなびて枯れてしまうのです。それは、水分が不足し、養分が足りないためです。なぜなら、やわらかい土は表面だけで、そのすぐ下が岩盤になっているからです。
では、この石地にたとえられているのは、どういうひとのことでしょうか。
「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐ喜んで受ける人のことである。その中に根がないのでしばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまう」(二○、二一節)。
このひとは、信仰心はあります。感受性が豊かで、求める気持ちはありますので、御言を聞くと喜んでうけいれます。しかし、残念ながらその場かぎりで終わってしまうひとが多いようです。長続きしないのです。なぜでしょう。土が深くないためです。表面は柔らかい土壌なのですが、すぐ下に岩盤が横たわっています。この岩というのは、自我また生来の利己心をたとえています。自己愛に基づく自己防御的な姿勢態度などがそれでしょう。他に対して心を開いたり、屈服したりなど死んでも出来ないという頑迷さをもっています。こういうひとは、良いことはよいと認めて、おしえにもすぐ賛同しますが、肝心の所で自己防御的になり、キリストに心の王座を明け渡そうとはしません。それが実は信仰の妨げになっていると知りつつ、容易に神の前に砕かれようとはしないのです。
このようなひとの信仰は、この世の苦しみや困難の解決が目的で、無事平穏のあいだは、信仰をよろこびとし熱心のようにもみえますが、何か困難にぶつかると、とかく信仰を後まわしにしがちです。ことに、迫害にでも遭おうものなら、たちまち背教してしまいます。
植物は太陽が強く照りつけると、ますます勢いよく成長しますが、石地の作物は水分が少ないために、逆にしなびて枯れてしまいます。そのように、自我の砕かれていない人というのは、迫害に遭うとすぐに信仰が萎えて、世俗に戻ってしまいがちです。
神の使命者E・G・ホワイトはつぎのようにいっています 。
「自己とキリストの両方に仕えようとすることが、人を石地の聴衆にしてしまい、一度試練が襲ってくると、くずれ去ってしまうのである」。
このように、石地にたとえられているひとというのは、福音を聞くと、すぐに信じても長つづきせず、中途半端に終わってしまう人のことです。
これまで、神のおしえを聞いた人の中に、すでに途中でやめてしまったひとがいます。なぜでしょう。それは、心の畑が石地のようなひとであったため、ということになりましょう。
ここでぜひ申し添えておきたいことがあります。世には宗教を理性によって理解しようとするひとがいます。しかし、理性は知の領域にとどまるものであり、それ以上の領域には限界があり、無力なのです。
ある神学者はこう指摘しています。
「神の言は人間の理性の中に這入る。それで人間は欺かれる。しかし心の中には容易に這入らない」。
理性が理解しうるのは知の領域のことであって、そのもっと奥にある心(霊性)の領域に関しては、理性では把握できず、これは信仰によらねばならならないのです。
ところが理性は、人間の言葉や思想については、手際よく分別しますが、神や神の言には歯がたちません。そのため、理性は神の言を、プライドをもって、ある一点までは近づかしめますが、そこで『止まれ』と命じます。その先は心(霊性)の領域であり、理性の圏外であるからです。
理性の対象は知の領域であり、罪人の知は、人間が禁断の木の実を食べて以来、悪魔の支配下にあります。そのため、知性の領域にまかれた種(神の言)は、そこで悪魔によって持ち去られてしまいます。
そういうわけで、理性を、人生の問題や真理に関する、唯一最高の判断基準としているひとは、この意味でやはり石地にたとえられる人ということになりましょう。

三、茨の地
《ほかの種はいばらの地に落ちた。するといばらが伸びて、ふさいでしまった》(七節)。
このいばらの地というのは、石地とちがい、土壌が深く、しかも土が柔らかく、よく肥えてもいます。ここに種がまかれると、たちまち根を下ろし、発芽し、生長を始めます。
しかし、残念ながら土地が肥えているだけに、作物以外の雑草も勢いよく繁茂します。ですから、頻繁に除草しないと、作物のほうが負けてしまい、生い茂った雑草にふさがれてしまいます。その結果、日光の供給が阻まれ、風の流通も妨げられて、せっかくの作物もけっきょくは萌やしのようになり、実を結ぶことが出来ないで終わってしまいます。
では、このいばらの地にたとえられている人というのは、どういう人のことでしょうか。
「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである」(二二節)。
いばらとは、「世の心づかい」や「富の惑わし」とあります。ルカによる福音書のほうには、もう一つ「快楽」も加えられています。これらは、われわれの心の畑にはびこっているいばらや雑草だというのです。

1、世の心づかい
人間は誰しも、世の心づかいをもっています。そして、とかくそれに心がふさがれがちになります。父たる者は、仕事や生活のことで将来を思い煩っています。母たる者は、毎日の家計のことはもちろん、育児や子供の進学のことで頭がいっぱいです。それに、近所づきあいのことでも神経をすり減らしています。病気や老後のことなども念頭から離れることはありません。こどもはこどもで宿題や受験勉強に追いまくられ、道徳教育や人格形成という大事なことに心を用い、時間をさくということがほとんど不可能にされています。
貧しい人は、貧しさゆえにあすの食のことで思い煩っています。豊かな人は、その豊かさをどうやって失わないようにするかで、あたまがいっぱいです。貧しいための気苦労には同情せざるをえませんが、それにしても、そうした気づかいに心がすっかり塞がれてしまって、神や、信仰や、救いや、永遠のいのちについては、まったく見向きもしないという人がほとんどです。これこそがまさに、聖書が告げるように、いま神から失われた状態にあるという、われわれ人間の姿なのでしょう。
あるときのこと、イエスはベタニヤ村のある姉妹方の家に立ち寄ってくつろいでおられました。姉のマルタはイエスをもてなすため忙しく働いていましたが、妹のマリヤはイエスの膝元に座ったままイエスのお語りになる話に熱心に聞き入っていました。ごうを煮やした姉のマルタがたまりかねてイエスに訴え出ました。
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いにはなりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
これにたいしてイエスの言われたお言葉こそ、こんにちのわれらにたいするご忠告でもあるのです。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(ルカによる福音書一○ノ三八〜四二)。
では、あなたはどうでしょうか。あなたはイエスの教えに対して、これまでどういう態度で接してこられたでしょうか。マルタのようにでしょうか。マリヤのようにでしょうか。
この物語をお聞きになって、世の救い主なるイエスは、われらに対して、いったいどちらをお望みになっておられるかを、あなたはおさとりになられたでしょうか。

2、富の惑わし
こんにち人々は、何に最高の価値を置いているかと言えば、それはどうやらお金のようです。この世の中は経済が絶対的な権力を持っていて、経済人はもちろんのこと、学者も政治家も公務員も、そして宗教人までもが、お金の前に膝を屈し、これを拝しています。
ですから、それが下々にも及んで、一般庶民の中には、お金ほしさに、いとも簡単に人のいのちを奪う者が、あとを断たないありさまです。犯罪の多くは富の惑わしが原因です。
ほんらいお金は、命のためにあるものなのに、現実には、その命がお金のために犠牲にされているというありさまです。いま、「命よりも健康が大事」という言い草が、お笑いのネタになっているようですが、命よりもお金が大事ということになると、それはとても笑ってすませられる話ではありません。
聖書に、次のように記されてます。
「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」(テモテへの第一の手紙手紙六ノ九、一○)。
3、快楽
健全な快楽は、人間に必要であって、これをむげに否定すべきではないのかもしれませんが、こんにちは不健全な快楽が多すぎます。それは、たばこや酒に見られるように、多くの人はそのなかに溺れそうな状態にあります。快楽は、こんにちまさに多くの人の麻薬になりつつあります。こんにちはほとんどの人が、快楽の虜となり、精神的麻薬常用者になってしまってはいないでしょうか。
ところで、このような人々は、世の心づかいや、富の惑わし、快楽などに、心がふさがれてしまっているために、人間にとって本質的な問題である人生の問題を考える余裕を失っています。また精神的霊的なことにたいして、それが必要であるとわかつていながら、どうしても後まわしになってしまいがちのようです。
こうして、せっかく神への信仰心はありながら、そして神のことばが大切であるとわかっていながら、世俗のことに心がふさがれて、その信仰は健全に成長できず、けっきょくは、救いの実を結ぶことなしに終わってしまう人が少なくないのです。まことに残念というほかはありません。
ここでも宗教について触れておく必要がありそうです。生長の家という宗教があります。この宗教は「万教帰一」を標榜し、すべての宗教は生長の家によって、はじめて真の意味が明らかにされると称して、仏教・神道・儒教・キリスト教、はてはクリスチャン・サイエンスというキリスト教の名を語って癒しをおこなうものまでも取り込んで教えを説いています。
とくに聖書の「山上の垂訓」の講解をしたり「黙示録の預言」を解説したりもしていましたが、それにとどまらず古事記の解釈によって、「日本が戦争に勝利し、現人神である日本天皇が世界を支配する」などと預言したりしていました。さらには老子や法華経、華厳経や維摩経の解き明かしまでして、教えを広めたわけですが、それらの雑教がいばらとなって、肝心の神のみことばを覆い隠してしまい、なんの実も結ぶことなく、ついに敗戦によって、その教えの欺瞞が物の見事に暴露されてしまったのでした。
神の啓示によらない思想や教えの多くは、いばらや雑草にすぎず、なかには毒麦も混じっていて、イエスは「それをまいた敵は悪魔である」と仰せになっています。そして、それらが神からの教えを覆い隠して、人々の目に見えなくしているのは、たしかなのです。神の啓示によらない宗教は、すべて悪魔から出ているといってまちがいないのですが、世にはこの悪魔的毒草と良い麦との見分けがつかない人がほとんどで、しかも、これを生えるがままにしています。しかもこれは、作物よりも繁殖力が強いために、そしてあまりにも種類が多いために、それらが入りまざって錯綜し、せっかくの作物である神の言にたいする信仰心が、それらによってふさがれてしまい、そのため、肝心の教えが耳に入らない状態におかれています。
宗教のこともさることながら、仕事や日常生活に忙殺されて、人生の生きる意味や目的について、真剣に考えることをなおざりにしているひとがいかに多いことでしょう。
かつてイエスは、サタンの誘惑に対して、きっぱりと次のようにお答えになっています。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書四ノ四)。
イエスは、人間が生きてゆくためにパンの必要はみとめながらも、それだけでは人間として生きることにはならないことを告げておられるのです。ですから、イエスは次のように警告しておられます。
「あなたがたが放縦や、泥酔、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕らえることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから、これらの起ころうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカによる福音書二一ノ三四〜三六)。
イエスがここでいわれていることは、「世の心づかい」と「快楽」についての警告ですが、その警告というのは、まいた種の結果についてです。すなわち、それは収穫にかかわるものですが、これについては、この記事の結論部分で詳述しますので、そこを注意してお読みいただきたいと思います。

四、よい地
《ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった》(八)。
もう一つは良い地です。土壌も深く、土も肥え、よく耕されています。そこは雑草も生えておらず、害虫も注意深く駆除されています。こういうところにまかれた種は、なんの妨げるものもありませんので、すぐ発芽し生長して、たくさんの実を結びます。
この良い地にたとえられているのは、どういう人のことなのでしょうか。
「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(二三節)。
この人は「御言を聞いて悟る人のこと」と説明されています。すなわち、心が柔らかで素直な人、真理とわかれば喜んで受け入れる人、神のみ旨と知れば即座に従う人、信仰のために少々の困難試練に遭っても挫けない人、神の約束なさっている永遠の命を得るためには、肉の命をも惜しまない人、そういった人のことであるといってよいでしょう。
このようなひとは、その結果として、地上においても、神をあかしするための良い実を結び、まわりにも良い影響感化を及ぼすようになるのはもちろんですが、それ以上に救いの実を結ぶことによって、やがての日に天の倉に収められます。そして、イエスから永遠のいのちを与えられ、神から栄光の冠をかむらせられるという、人間として最高のよろこびと栄誉にあずかることになるのです。

耳のある者は聞くがよい

いったいイエスはこのたとえばなしによって、何を訴えようとしておられるのでしょうか。
御国のこの福音は、これからユダヤ全土、異邦の地サマリヤ、さらには地の果てにまで伝えられることになるのだが、これを聞いた人たちの全部が全部信じて救われるとはかぎらない。イエスはそのことを百も承知の上で、人々に教えを垂れ、これを人々に伝えるように命じておられるのです。
ではなぜ、ある人は信じて、ある人は信じないのか。なぜ、ある人は救われて、ある人は救われないのか。その理由と責任の所在を、イエスはこのたとえばなしによって、はっきりとお示しになっておられるのです。
すなわち、種は神の言です。種をまく人は神の子イエスご自身です。これに、欠陥や落ち度など、あろうはずはありません。原因は、種のまかれる畑にあるのです。その畑とは、この世界のことであり、人間ひとりひとりの心のことです。
神の言を聞く人に大きく分けて四つのタイプがある。たとえていえば、道ばたのような人、石地のような人、いばらの地のような人、良い地のような人、などがそれです。
では、あなたは、この四つのタイプのどれに該当するでしょうか。ご自分ではどのように思われますか。

  1. 道ばたにたとえられている人は、はじめから聞く気のない人です。
  2. 石地にたとえられている人は、聞く気はあるが、信じても浅く、長続きしない人です。
  3. いばらの地にたとえられる人は、聞く気もあり、深く信じ受け入れもするが、この世のことに心がふさがれて、信仰の成長が妨げられている人です。
  4. 良い地にたとえられている人は、みごとな信仰の実を結び、まちがいなく救われる人です。

恐らくこの説明を聞いて、たしかに思い当たるところがあり、そのため心を刺される思いの人もおありでしょう。これは、なんと鋭い洞察でしょう。イエスは、われわれの思いのすべてを知り、動機のすべてを見抜いておられます。これでみると、イエスは非常にすぐれた大心理学者でもあることを認めざるをえません。とうぜんです。イエスは人間をお造りになった神様なのですから。
ところで、この四種類のなかの最初の道ばた、おそらくこれに類する人はみなさんのなかにはおられないでしょう。なぜなら、このような人は、この読み物を手渡されても目もくれず、すぐまるめて屑籠に放り捨ててしまうはずだからです。しかしみなさんは、とにもかくにも、きょうまで、神の使信を伝達し紹介するこの読み物を、いちおう手にとって、これに目を走らせてこられたわけでしょうから。
しかし、なかには石地のような方がおられないとはかぎりません。はじめは好奇心も手伝って読んではみたものの、やはり興味は新聞や週刊誌のほうに向かい、そのほうに時間を奪われて、いまはつん読(積んどく)だけ、というような方です。それは「神のメッセージ」をたんに「紙のメッセージ」としか思えなかったからかもしれません。もしかしたら、それはわたしの文章に原因があるのかもしれませんので、その場合はつまり、わたしの責任ということになるのかもしれませんが・・・。
おそらくみなさんのなかには、いばらの地のような方もおられるかと思います。これまで、この読み物の中に、神よりの使信が載せられていることを認め、そのつもりで読んでこられた方々です。
しかし、そういう方でも、お仕事や生活の雑事に追われ、ついつい聖書の学びが、後回しになったり、忘れていたりということで、この読み物も、いまは読むのをやめてしまっている、というようなことはないでしょうか。
もしあれば、そういう方はイエスの語られたこのたとえばなしに、ぜひ耳をかたむけていただきたいのです。
そうすることによって、いま自分は、神の前にどういう状態にあるのかを、あらためて見つめ直してみる機会ともなれば、このうえない幸いと存じます。
なかには少数ながら、良い地に相当する方もおられるはずです。すなわち、神と神の御言こそ人生の中心的拠り所であり、これがなければこの世の事は一切空しく、人生の何もかもが無意味になってしまうと考え、これだけは何ものによってもさまたげられることのないようにとの願いを持って、信仰の学びにつとめ励んでいる人びとです。
そのようなひとは、この世においても、恵みに満ちたさいわいな人生を送ることができるばかりか、たといこの世の終わりがきても、それはその人の人生のおわりとはならないのです。それどころかこの世のあとに、きたるべき世というものが備えられており、そこにおいては、この世の何増倍にもまさる恵みが備えられていて、そのようなさいわいな人生を、永遠に生きることができるようになるというのです。
しかもこれは、人間の単なる空想的願望などではなく、神のたしかなお約束なのです。

四種の畑は固定的なものなのか

問題は、この四種の畑は固定されたもので、だれも変えることのできないものなのかということです。もしそうであれば、この種まきのたとえは、われわれ人間にたいする単なる断罪にほかならず、このたとえ自体予定論の提示また立証以外のなにものでもない、ということになってしまいます。その結果われわれは運命論に陥り、前途にもはや何の希望も持ちえないことになってしまうでしょう。はたしてそうなのでしょうか。
著名な神学者エミール・ブルンナー博士は、めずらしくこのイエスの種まきのたとえについて、解説をおこなっています。そのなかで博士は次の点に注意をうながしています。
「これは、この四つの異なった土地の種類、ないし性質の人間をいうのではなく、神の言に対する四つの異なった態度をいうのである。同一の人間がある時はこの、ある時はかの種類であり得る。・・・従ってそれは、我々が項垂れて『そうだ、わたしはどうせこんな人間だ。神はこんな人間をどうしようもないのだ』と言わしめるために語られているのではない・・・各人は良い畑であり得るのだ」。
この四つの種類は、人間の性質ではなく態度をいうのだ、といっています。性質なら変えられないかもしれませんが、態度なら当然われわれの意思次第、心構えいかんによって変えることが可能のはずです。
そういえば、預言者エレミヤはこういっています。

「あなたがたの新田を耕せ、
いばらの中に種をまくな」(エレミヤ書四ノ三)。

畑の種類が、もし固定的なものなら、なにもことさら「耕せ」などと言う必要はないはずです。耕せというからには、変えられることを前提とする勧めと考えるべきでしょう。

畑を耕すにはどうすればよいのか

まず、われらが道ばたのようであるなら、それを畑に変えられる必要があります。われわれの多くは道徳を宗教であるかのように錯覚しているようです。しかし、道徳は人の道であって神への道ではありません。救いを求める者は、道徳的であることをもって満足する心を棄てなければなりません。種がまかれるためには、それを受け入れる姿勢態度、すなわち信仰が必要です。信仰こそは、まかれた種が発芽し生長するための土壌となるべき畑なのです。
もしわれらが、石地のようであるなら、どうすべきでしょうか。自我が砕かれ除かれる必要があります。その自我が砕かれるにはどうすればよいのでしょうか。預言者イザヤはこういっています。
「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」(イザヤ書五三ノ五)。
ここにいわれている彼とは、あきらかにキリストを指しています。キリストはわれわれのために砕かれたとあります。それは十字の死をいっているのですが、キリストはわれわれのために砕かれてくださったという以上、われわれがキリストを信じて彼と一体になるなら、そのときわれわれも、彼において砕かれた者となるのです。われわれにとっては、十字架を信じる以外に、自我が砕かれる方法はありません。
では、いばらの地のような人は、どうすればよいでしょうか。「世の心づかい」や「富の惑わし」や「快楽」は雑草のようなものですから、当然、除草が必要です。心の畑の除草は、きよめということでしょう。残念ながら、人間は自分の努力によってきよくなることは不可能です。けれども、きよめは神の聖霊のはたらきによってなされます。「聖霊によってきよめられた」(ローマ人への手紙一五ノ一六)。
そして、そのために必要なことは「神の言と祈りとによって、きよめられるからである」(テモテ第一の手紙四ノ五)。とあるように、聖書の学びと祈りにつとめることです。あとからあとからと生えてきて、ほっておくとたちまち作物をふさいでしまう雑草を取り除く方法は、これ以外にはないといってよいでしょう。

種まきと刈り入れ

種まきには刈り入れが伴います。種まきの目的は収穫にあるからです。まいた種には必ず刈り入れの時がやってきます。刈り入れとはなんでしょう。イエスは仰せになりました。
「収穫とは世の終わりのことで、刈る者は御使たちである」(マタイによる福音書一三ノ三九)。
自然界には法則があります。この法則は創造主なる神がお定めになったものです。この神は、歴史や人生にも法則をお定めになりました。いずれも原因と結果の法則です。
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ人への手紙六ノ七、八)。
肉とは生まれながらの性質また世俗のことであり、利己的打算や欲望のことです。霊とは人間の本性また神の領域のこと、すなわち神の言や信仰のこと、永遠の命や天国のこと、救霊や奉仕のわざなどを指します。
イエスは肉にまく者は滅びを刈り取り、霊にまく者はいのちを刈り取ると仰せになっています。農夫は、種がわるければ、良い収穫が得られないので、まく種を吟味し、出来るだけ良い種をまくように努力します。
ではあなたはどうですか。人生の歩みの一歩一歩は、種をまくその過程にほかなりません。なにをまくかによって、なにを収穫するかが決まることになります。畑であるわれわれとしては、よい種と悪い種のどちらを受け入れ、これを守り育てるかに責任があり、それによって収穫による永遠の運命が決定されるのです。
種はそれ自体の中に生命が宿っています。その種がまかれれば、自然に発芽し、成長し、開花し、実を結びます。そのように、神の言もその中に命があり、これを妨げるものがなければ、黙っていても成長し、実を結ぶのです。
ただ悪魔がまき散らす毒麦や雑草が、作物の生長を妨害しますので、たゆまぬ手入れが必要です。石をのぞき、雑草を抜き取り、害虫を駆除するなどのことを怠らないかぎり、時がくれば必ず収穫はえられます。なぜなら、種まく者は人の子、すなわちイエス・キリストご自身であられるからです。
ゆえに、使徒パウロはつぎのように言っています。
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している」(ピリピ人への手紙一ノ六)。
ですから、われわれが救いの実を結んで、天の倉に納められるか、それとも箕で吹き分けられて、火で焼かれて灰となるかは、神の言を聞いたわれわれ自身が、それをどう受け止めるかにかかっているのです。

むすび

「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい」(マタイによる福音書一三ノ四○〜四三)。
(ちなみにヨハネの黙示録一四ノ一四〜一六を併せてお読みください)。
「また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、『かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた』。雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものは刈り取られた」。

「見よ、わたしは命じて
人がふるいで物をふるうように、
わたしはイスラエルの家を万国のうちでふるう。
ひと粒も地に落ちることはない](アモス書九ノ九)。