補遺2 迷い出て失われた一匹の羊

はじめに

神に背いて、神から失われた状態にあるわれわれ人間を、天の神はどのように思い、どうしようとされているのか。そのことを告げ示すために、イエスは、次のような譬え話をなさっておられます。それがルカによる福音書一五章四節から七節に記されている物語です。

あなたがたのうちに、百匹の羊を持っているいる者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹をみつけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう。

この喩えに出てくる羊は、われわれ日本人にはほとんどなじみがないため、羊飼いにとってこれがどんなに大事なものかあまりよく理解できないことかもしれません。しかし、日本でもこのごろ、愛玩用としてさまざまなペットを飼う人が多くなっていますので、ある程度類推することはできるはずです。
わたしも少年の頃、母が生まれて間もない子犬を、どこからかもらってきたため、これにチロと名づけて、兄弟みんなで育てたことがありました。
ある日のこと、母が用事で町に出かけたとき、チロもそのあとを追ってついて行ってしまいました。ところがどうしたことか、慣れない所にはじめて行ったためでしょうか、いつのまにかはぐれて姿が見えなくなってしまったというのです。母はあちこちずいぶんとさがしまわったようですが、ついに見つけることができなかったといってそのまま帰ってきました。
さあ、それからというもの、わたしはチロのことが念頭から離れず、寂しいやら、悲しいやら、ご飯も喉を通らないありさまで、すっかりしょげかえってしまいました。夜床に入ってからも、なかなか寝付かれず、寝ている間もよく夢に見るということが続きました。もしかしたら、そのうちひょっこり帰って来るのではという期待をもって、何日も待ち続けたという思い出があります。
それに似たような経験はどなたにもおありかと思いますので、それと重ね合わせながらこの物語を読むなら、この羊の立ち場や羊飼いの気持ちが、ある程度は理解できるはずと思います。
もちろん、普通一般の考えでは、羊が百匹もいるのなら、そのなかの一匹ぐらいいなくなったからといって、そんなに大騒ぎするほどのことではないような気もしないではありません。
しかし、譬えの中の羊飼いはそうではありませんでした。それは羊を檻に集めたときのことですから、もう夕方であり、もしかしたら夜になっていたのかも知れません。
一日中えさ場をさがして野山を歩き廻った羊飼いは、きっと疲れ切っていたにちがいありません。それにもかかわらず、この羊飼いは、このいなくなった一匹の羊を捜すために、野に出かけて行ったというのです。
山を越え、川を渡り、野のいばらをかき分けて、あちこち探しまわったあげくのはてに、どこか遠くのほうから、か細い小羊の啼き声が聞こえてきたのでした。その声を頼りに近づいてみると、なんとそれは谷底の中腹と思われるところから聞こえて来る声でした。羊飼いは身の危険をも顧みずに、崖を滑り降り、薮の中にうずくまっている羊を見つけるや、それを抱きかかえるようにして崖を攀じ登り、野原に這い出ると、見つけた羊を肩にかついで檻に帰ってきたのでした。
ほっておいたら、猛獣の餌食になるか、谷底に転落死するか、あるいはそのまま動けなくなって飢え死にするか、そのいずれかであったことでしょう。
しかしこの羊は、すんでのところで羊飼いに発見され、危険なところから救い出されて、無事檻に連れ戻されたのでした。

この譬えは何を意味するのか?

いったいこの譬え話は、わたしどもに何を教え、また悟らせようとしているのでしょうか。
羊はいうまでもなく、神のもとから迷い出て失われたものとなっているわれわれ罪人をたとえています。羊飼いは、人間を創造し、これに命を与えて、養い育ててくださっている天の神様であり、魂の牧者と呼ばれているイエス・キリストの象徴です。
聖書によれば、われわれ人間は、神によって造られ、神から命を与えられて、生かされているのです。
神と人間との関係は、創造者と被造物との関係、生かす者と生かされる者との関係です。ですから、人間は命も幸いも、すべて神に依存しているのであって、神を離れては生きることも安全であることもできないのです。
ところが、羊が草を食むことに夢中になっている間に、羊飼いを見失い、むれから迷い出てしまつたように、アダムとエバも、食べ物によってサタンに誘惑され、神に背いて神のもとからさまよい出てしまったのでした。
そのように、こんにちのわれわれも、生活の煩いに心を奪われ、いつのまにか神のもとからさまよい出て、いままさに神から失われた状態にあるのです。これはとても危険な状態と言わねばなりません。なぜなら、聖書に次のようにけいこくされているからです。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(ペテロの第一の手紙五ノ八、九)。

羊は弱い無力な動物です。羊飼いのあとに従っているかぎり、安全に守られますが、ひとたび羊飼いから離れて、群れから迷い出るなら、たちまち、ししや狼にねらわれて彼らの餌食にされてしまいます。
それと同じように、われわれ人間も、神の支配の中に止まっているかぎり、平和と安全が保障されるのですが、この神の支配から迷い出てしまったいまは、天災地変や、さまざまに災害、また経済的困窮や病魔との戦いなどのため悩み苦しんでいるのが実態です。
その上、人間は罪の奴隷となっており、多くの罪と過ちを繰り返しています。こうした生活をつづけているかぎり、人間はサタンの餌食となって、やがては永遠に滅びることになるだけです。
しかし神は、われわれのこうした状態をほうっておくことはなさいませんでした。神は、預言者エゼキエルによってつぎのように呼びかけておられます。

「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる。わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人がその道を離れていきるのをよろこぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル書三三ノ一一)。

羊飼いが、迷い出て失われた羊をほうってはおけず、これを捜して見つけ出すために、夕闇の迫る野山に出かけて行ったように、神なるキリストは天の宮廷を離れ、羊飼い同様の姿となって、この世に下ってこられたのでした。そのことをイエスは、はっきりこうおっしゃっています。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカによる福音書一九ノ一○)。

しかもイエスが、われわれ罪人を救うためには、たいへんな犠牲を払わねばなりませんでした。なぜか?それはこれまで学んでいただいた教理の解説でお読みになったはずです。
神が人間を救うためには、罪の処理が必要です。罪を処理するには、犠牲が必要であり、贖罪ということが不可欠なのです。贖罪とは身代わりの犠牲の死であり、それがあのキリストの十字架の死の意味なのです。しかもそのキリストが十字架の死後三日目に復活されたのですが、これは人間の罪の結果である死を滅ぼされたことを意味しています。それと同時に、それはサタンの餌食となって永遠の滅びの運命にある人類を、その滅びから救うことが可能となったことを示すものであり、その保証でもあるのです。
ゆえにイエスの弟子ヨハネは、このようにあかししています。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書三ノ一六)。

さて、イエスの譬えのなかの羊飼いのように、天の神は、罪のために失われているわれら人間を、なんとかして救おうといまも探し求めておいでになります。
それなのに、われわれ人間のほうはどうでしょうか。神を求め、神のみもとに帰るみちを、はたして探し求めているでしょうか。
かなしいことに、聖書はわれわれ人間の現実の姿を、次のように告げています。

愚かな者は心のうちに「神はない」と言う・・・
主は天から人の子らを見おろして、
賢い者、神をたずね求める者が
あるかないかを見られた。
彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。
善を行なう者はない、ひとりもない。(詩篇一四ノ一、二、三)。

これが、われら人間の実態であるとは、なんと嘆かわしいことではありませんか。
しかし、もしわれらが、自分が神から失われた状態にあることに気づいて、神のよぶこえを聞き分け、これに応えようとするなら、神はただちにわれらのところに駆け寄ってこられて、われらを神の檻に連れ戻してくださるのです。

いずれサタンの支配するこの世は終わりを告げることになっています。サタンは永遠の滅びに定められています。そのときこの世界は、ふたたび神の支配に戻されます。
その結果、神と人間の関係はもとの状態に回復され、人間は神の保護と導きのもとで、安全かつ永遠にいきるものとなるのです。そのときのさいわいな光景を預言者ヨハネは、幻によって見せられ、つぎのように書き記しいます。

「それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいます方は、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(ヨハネの黙示録七ノ一五〜一七)。

ではどうでしょう。あなたはこのようなさいわいな群れの中に加わりたいとは思いませんか。
この特権は、これを望む者すべてに与えられることになっているのです。

リバイバル聖歌(一五六)

九十九匹のひつじは檻にあれども       主よ山道たどれる血潮はなにぞ
ただ一匹のひつじはいずこに行きし      主よ双手とみ足の痛手はなにぞ
飼い主より離れて迷いゆき帰らず       呪われたるいばらをかき分けしためなり
迷いゆき帰らず               かき分けしためなり

九十九匹は帰れり主よよからずや       よろこばしき叫びぞ谷間に起こる
いな迷いし羊もわがものなれば        失われしひつじは見出されたり
いかに深き山をも分け行きて見出さん     み使らよきたりていざ共によろこべ
分け行きて見出さん             いざ共によろこべ

主は越え行きたまえり深き流れを
主は分け行きたまえり暗き闇夜を
死に臨めるひつじの啼き声を頼りに
啼き声を頼りに