補遺2 聖書の教理を一括要約した話

はじめに

人間は、だれもがみな救いを必要としています。なぜでしょうか。
われわれ人間は、現在置かれている状態に、決して満足してはいません。現状に満足できないということは、現在の状態が、ほんらいのあるべき自然の正しい状態にないことを、それは物語っています。きっと何らかの理由、また出来事によって、ほんらいあるべき最初の自然の正常な状態が、こわされ、ゆがめられてしまっている、そのためにちがいありません。
もしそうだとすれば、それはとうぜん、もとの状態にもどされる必要があるわけです。それがすなわち、聖書のいう「救い」ということなのです。
聖書によると、神はそのために、救いの計画を立て、それをこの地上に推し進めておられることがわかります。これまで、みなさんに学んでいただいた教理というのは、この神の救いの計画を、順序立てて解説するものであり、その要点の一つ一つをくわしく説明させていただいたわけでした。
しかし、こうしたまなびは、各課それぞれ、部分的にはかなり程度わかったつもりでも、全体としては何かばらばらの感じで、けっきょく何が何やらわからずじまい、ということもないとはいえません。各部分をくわしく説明しようとすると、どうしてもそういうことになりがちです。
そこで、ここでは、各課ごとのくわしい解説は全部省いて、神の救いの計画全体の流れ、あるいはすじみちを、ひとまとめにして述べてみることにしました。

この世界また人間はどこから出て来たのか

まずはじめに、この世界はいつどのようにして出来たのか、また人間はどこから出て来たのか、という問題です。これについては、つぎの二つの考え方しかありえません。
1、偶然に発生し、自然に出来上がって存在している。
2、宇宙の絶対者なる神によって、創造され、生かされ、存在している。
この二つの考え方は、はたして、それぞれの主張の根拠を証明できるのか?ということですが、残念ながら、それはどちらも証明はできません。なぜなら、人間は理性も知性も有限で、物事の思考や知解には限界があるからです。
ですから、これらは結局信じて受け取るしかないのです。ですがその場合、どちらを信じるかが問題で、その選択の拠り所を、どこに、また何に求めるかはとても大切です。
これについて、J・R・ハウイット博士はこう言っています。
「いかなる説(教理や学説)の真偽も、人間の思想と経験にそれを適用した結果によって判断することが、もっともよい場合がしばしばある。どんなに魅力のあるもっともらしい哲学であろうとも、もしその原理の適用によって、人類が堕落に導かれるものならば、非難すべきである」。
これこそが、もっとも賢明で信頼するに足る、たしかな判断と選択の基準となるべきものではないでしょうか。
1は、いうまでもなく進化論の考え方で、これは適者生存、弱者淘汰の考え方に立つものですから、人間の生存競争を認め、格差社会を是認し、戦争肯定にもつながることになります。しかも、これには人格観念もなければ道徳観念も存在しません。
2は、聖書の創造論によるもので、これは絶対善なる神の存在を認め、この神を宇宙の中心に据え、人間存在のすべてをこの神との関係において考える、そうした世界観に基づいています。
その結果、人生の意義目的、あるいは価値基準といったものを、すべて神のみ旨に求め、それによって、ものごとを判断し、選択し、生き、また生活します。
では、この二つの考え方のうちどちらが、人間としてもっとも健全で正しい生き方といえるのか。それはいうまでもないことでしょう。とすればわれわれは、みずからの人生観の基礎として、どちらを選択すべきかは、あまりにも明白であって、この問題については、なんら迷う必要などないのではないでしょうか。

この世に、苦難や不幸があるのはなぜなのか

しかしながら、もしこの世界が神によって造られたというのなら、どうして人間に不幸や苦難があるのか、これはだれもがいだく当然の疑問です。
これについて聖書は、人間が神によって造られたときには、完全であり、不幸も苦難もなかったと述べています。そして、苦難の原因は、人間がサタンにまどわされて神に背いた結果であると告げています。人間が神に従うことを拒んだ結果、この世界は神の支配から脱落し、サタンの支配の下に置かれている。そのために、この世は神のみ旨がおこなわれなくなり、むしろサタンの意のままに引っ掻きかまわされている。これがこの世における不幸や苦難の原因であるというのです。
世には、不幸や苦難に遭うとき、「どうして神がこのような目に遭わせるのか、どうしてわたしにこんな苦しみを与えるのか」と、神を恨みまた呪う人がいます。
しかし、神は愛であり、善なるお方ですから、人間を苦しめ、不幸にするということはありえないことです。不幸と苦しみのいっさいは、神に背いた人間がみずから招いたものであり、いわば自業自得なのです。(といってもそれは、その人個人の責任というわけではなく、人類全体の責任であり、連帯的な意味での自業自得ということなのですが)しかも、苦難を降り注ぐ張本人は、人類を惑わして神に背かせ、アダムとエバに代わってこの世を支配しているサタンなのです。
われわれ人類は、いまサタンの奴隷となって罪の牢獄に閉じ込められており、やがて罪に対する刑罰として、永遠に滅び行く運命にあるのです。

 

神はこの世界を回復するために「救いの計画」を立てておられる

もちろん、人間が神に背いたといっても、神から完全に見捨てられたというわけではありません。それどころか、神はこの世界を元の状態に戻そうとしておられます。そのため神は、救いの計画を立てておられるのですが、それはどういうものかといえば、キリストの十字架こそが、まさにそれなのです。
いったい、キリストの十字架にはどんな意味があるというのか。どうしてそれが人間を救うことになるのか。そのことわりについて、これからできるだけ簡潔にもうし述べてみます。
神はこの世界をお造りになったとき、これを保持するために法則を制定されました。それは、物理的面と精神的面の両面の法則です。前者は科学的原理(法則)といわれるものであり、後者は精神的原理(法則)、すなわち道徳律といわれるものです。神の十戒がそれです。
人類の最初の先祖アダムとエバが、エデンの園で禁断の木の実を食べたというのは、じつはこの十戒を破ったということなのです。
ところで、法律というものはほんらい、われわれの生命や財産を保護するために定められているものです。しかし、法律はこれに従う人を保護しますが、これを破った人に対しては刑罰をもって臨みます。なぜなら、そうしなければ、社会の正義や秩序を維持することが出来ず、善良な市民を守ることもできなくなるからです。
神の律法も、それとまったく同じ理屈になります。ほんらい人間の生命と生活を保護するために制定された律法も、人間がこれに違反した結果、これを罰しなければならないことになったのです。
もちろん罰すれば、人間は永遠に滅びることになります。なぜなら、人間が神に背いたために、木の幹から切り離された枝のように、命の源である神との関係が切断された状態になっているからです。その結果、命が枯れて死ぬほかはないものとなったのです。
そこで、これを救うことが可能かどうかです。もし可能だとしたら、それにはどんな方法があるのでしょうか。それはただ一つ、身代わりの刑罰という方法です。
このことについては、わかりやすい説明として、罰金刑を例に挙げることができましょう。法の違反者には罰金刑が課せられます。その人に支払い能力がない場合、他の人が代わって収めればよいことになっています。それによって法の要求が充たされたことになり、事件は処理済みと見なされ、当人は自由の身となることができます。これは、たとい身代わりとはいえ、それによって法の要求が充たされることにより、社会の正義と秩序が維持されることになるからです。
神に対す人間の罪も同様、身代わりの刑罰によって、神の律法の要求が充たされ、それによって宇宙の正義と社会の秩序が維持される。その結果、われわれの刑の満了が宣せられ、即時赦免となるのです。
そのために神は、神の子キリストを身代わりに立て、このキリストの十字架刑によって、われわれ罪人の罪を罰せられたのです。こうして、われわれの罪は合法的に処理され、われわれは自由の身となることができるのです。

この救いの計画が事実として存在する証拠は何か

この救いの計画は、人間のたんなる考え方というものではありません。神がお立てになった厳然たる事実なのです。
では、それについての証拠なり根拠なりがはたしてあるのかどうか。あるとすれば、それは何なのか、ということですが、これはキリストについての聖書の預言と、歴史上に見られる成就こそが、まさにそれであるのです。これ以上の証拠また根拠となるものは、ほかにないといってよいでしょう。事実、これがある以上、ほかにその必要はないともいえます。
すなわち、神なるキリストが人となってこの世に現れたのは、いまから二千年前ですが、じつはそれより何千年も前から、この救い主キリストについて、聖書に多く預言されていたのです。彼は、いつ、どこに、どんな家系から生まれて、どのような生涯を送り、どういう死に方をするかまで、かなり具体的に預言されていました。
しかもそれが歴史上に明確に成就しているのです。処女降誕をはじめとして、十字架の死、さらには復活と昇天、これらすべてが預言のとおりに起こっている。これは、神の救いの計画というものが、たしかな事実である何よりの証拠です。
そしてまた、これはキリストこそがまさしく、神がお立てになった救い主であるということを、確証するものにほかなりません。

この世に苦難や不幸が依然としてなくなっていないのはなぜなのか

しかしながら、神の救いの計画の中心がキリストの十字架だというのなら、その十字架によってはたして救いが実現したのか。現実には十字架以後にも、依然として不幸や苦難がなくなっていないではないか、それはなぜなのか。いったい神の救いは、いつどのようにして実現されることになるのか、という問題です。
これを解く鍵となるみことばは、ヘブル人への手紙九ノ二八の聖句です。
「キリストもまた、おおくの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられて後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのである」。
この聖句によれば、二千年前、キリストが十字架にかけられて死なれたのは、人間の罪を負うためであった。すなわち、罪を処理することが目的であったというのです。しかし、それによって罪の処理が終わったとはいえ、罪の結果としての不幸や苦難は、まだ解消されていません。これが解消されるのはいつかといえば、それは歴史の終わりに、キリストがふたたびこの地上に降臨される、そのときであるというのです。
しかも、そのときが間近いことは、キリスト再臨の前兆として預言されている事件が、ほとんどみな成就してしまっていることによってわかるのです。

エデンの園の回復は新天新地の出現による

救いとは何かといえば、それは罪によって損なわれたこの世界が元の状態に回復されることです。その回復されたエデンの園が、間もなく出現する新天新地なのです。これは、キリストの再臨によって実現することになっています。
そこには、この地上にみられるような、罪の結果としての戦争もなければ争いもない。病もなければ死もない。不幸も苦難も存在しない世界なのです。そこは、だれもがみな、こころから満足できる平和な理想の世界なのです。なんとすばらしい未来がわれわれに約束されていることでしょう。
もちろんそこに入るためには、審判という関所を通らなければなりません。そこで、資格審査と選別がおこなわれます。何を基準としてえりわけられるのかといえば、それは国の法律でもなければ、道徳という社会的規範でもありません。宇宙の法則である神の律法が基準なのです。これが基準なら、われわれはどうなるのか、聖書にはこうあります。
「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ人への手紙三ノ一○)。
これによると、この世にはだれひとり神の前に正しい者はいないということなのです。

不可能を可能にする神の救い

とすれば、救いはわれわれ人間の側からは、まったく不可能なことであって、絶望のほかはないわけです。けれども神は、ご自身の側においてそれを可能にしてくださったという、これが聖書の教えであり、これが福音といわれるものなのです。
ほんらいなら、救われる資格も価値もない者を、神が愛と憐れみにより、神の側の一方的恵みの業として、われわれ罪人を救ってくださるという。福音とは、この神の約束のことであり、そのさいわいなおとずれのことをいうのです。
したがって、救いは人間が努力して築き上げるものでもなければ、探索して発見し獲得するものでもなく、神が提供してくださるものを、信じて受けとることによるのです。
救いは人間の努力や業績にたいする報酬としてではなく、神よりの贈り物として与えられるというのです。もっと端的にいえば、救いは行いによってはえられず、信仰によってもたらされるものなのです。
聖書に次のように記されています。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方自身からでたものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ人への手紙二ノ八、九)。
日本に広く信奉されている仏教のおしえ、「唱名念仏による救い」の原点は、じつはここにあるのです。阿弥陀仏の信仰がいつどのようにして、はじまったのかは不明とされています。アミダは光に関係のある名称ですので、ペルシアなど西域地方の影響を受けて形成された信仰と考えられていますが、この仏が人々に知られるようになったのは、紀元四世紀後半に、鳩摩羅什によって「仏説阿弥陀経」が漢訳されたことによります。しかも、これがひろく信受されるようになったのは唐代になってからで、善導大師によるとされています。これは紀元七世紀のことです。
この「阿弥陀仏の立てた願による救い」というのは、お釈迦さまのおしえにはなかったもので、このおしえの根本原理は、聖書によって神から啓示されたものであり、イエス・キリストの十字架が、その源泉であることは、あまりにも明白です。
特に、救い主とされる阿弥陀仏というのは、抽象名詞であって、人格的実在の仏ではない以上、われわれはコピーの救い主ではなく、原本であり、実在の救い主であるイエス・キリストに、直接依り頼むようにするほうが、賢明であり、確かなことではないでしょうか。

救われた者のこれからの生活

では、このようにして救われた者は、その後どうすればよいのか。これまでの生き方をそのまま続けて行ってよいのか、それとも何かを変えなければならないのか。キリストによって救われた者は、その後どのような生き方をすればよいのでしょうか。
救いとは罪からの救いであって、罪への救いでもなければ、罪に在っての救いでもありません。救われた者は罪を捨て、罪(神への背き)から離れなければなりません。これを聖書は悔い改めと呼んでいます。悔い改めとは、人生の方向転換を意味します。これまで神に背を向けていた者が、神に向き直り、神に従う生活を送るようになることです。
神にしたがう生活とは、具体的にどうすることなのでしょうか。聖書によれば、罪とは神の律法に違反することなのですから、罪から救われた者は、当然のこととして、神の律法に従う生活を送るようになるのです。
とくに大事なのは、十戒の第四条安息日のいましめです。週の第七日(土曜日)を聖別して、この日に神を礼拝することが求められています。これは、神と人との間のしるしであると聖書に記されています。すなわち、神の側においては、これが天地を創造した真の神である証拠、またしるしとなるものであり、人間の側にとっては、これが天地を創造された真の神を信じて従っている者であり、結果として、その人が神の者となっていることを示す証拠、また、しるしとなるものなのです。

信仰の対象は、理論的教義ではなく、人格的救い主イエス・キリスト

救いは信仰によって与えられるものですが、その信仰とは、抽象的理論や教義体系を真理として認めることではありません。そうではなく、これまで述べてきた神の救いの計画をよく理解し、それを頭に置いた上でのはなしですが、要は人格的存在である救い主キリストに、すべてをお委ねして、この方にしたがっていくことです。
「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書には『すべて彼を信じる者は、失望に終ることはない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである」(ローマ人への手紙一○ノ一三)。
ここに、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあります。救いが信仰によって与えられる、これが聖書の教えですが、信仰というととかく、おしえを知的に理解し、それを正しいと認めることと考えられがちです。しかし、ある教理を真理として認めることが信仰とはいえず、その意味での信仰は救いにつながるわけではありません。
真の信仰、また救いは、どこまでも神と人との人格的関係によるのです。ですから、信仰とはたんに、おしえの主であるキリストが正しいと承認することではなく、おしえの主であるキリストを救い主として信じ、受け入れ、この方に従うことなのです。
「主の御名を呼び求める」とは、そのことを指しています。主の名を呼び求めるとは、心に信じて、口で告白すること、すなわち救い主キリストへの信仰を表明し、彼におすがりする生活に歩み出すことにほかなりません。この告白また表明の一つの形式がバプテスマという儀式なのです。これはキリストご自身がお定めになったものです。このイエスが福音を「信じた者にバプテスマを施」すよう、教会に命じておられるのです。(マタイによる福音書二八ノ一九)。
しかし、これはどこまでも、その人が神を信じてキリストのものとなったことを示す、外的しるしにほかなりません。特別、妨げがない限りそうすべきですが、種々の妨げにより、それ(受浸)が不可能な方(たとえば、老衰や病気など)も、決して絶望したり、あきらめて信仰を放棄したりすべきではありません。ともかく、ひたすら真剣に、キリストの名を呼んでおすがりすれば、どんな人でも神は必ず救ってくださるという、これが真実(アーメン)なる神のお約束なのです。

結論として申し上げたいこと

人間はいつか必ず人生の終わりを迎えます。やがてまちがいなく、死に直面するときがきます。そのときわれわれは、絶対的孤独の状態に置かれることになります。死ぬ直前までは、一緒にいてくれる人があるとしても、死に行く者の道連れとなってくれる人はひとりもいません。そのとき頼れる人はどこにもいないのです。
なかには、これまでの人生を、他人を頼りとせず、自分だけを頼りにして生き抜いてきた、という人もいるでしょう。しかし、そういう人であっても、死に行くときには、その自分さえも頼りにはならないことを思い知らされることになるはずです。死んで行く自分にどうして頼ることなどできましょうか。
そのときの孤独と絶望、これに耐えられる人はひとりもいないのです。ですから、そのときほとんどの人は手の指を折り曲げ、これに渾身の力を込めて虚空をつかもうとします。しかし、虚空は何の力にもなりはしません。
そのようなときのために、わたしはあなたにぜひ申し上げたいのです。これまで聖書から学んできたことの結論として、イエス・キリストを仰ぎ見ていただきたいのです。イエスは生ける神、生ける救い主です。あなたの叫びをちゃんと聞きとり、助けの手を差し伸べてくださいます。

地の果なるもろもろの人よ、
わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ書四五ノ二二)。

このかたは、われらにさきがけて、その身を死にわたして葬られ、その死を滅ぼして復活され、いま現に命の君として生きていましたもう神であり、救い主なのです。
「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」(テモテへの第二の手紙一ノ一○)。
このおかたが、いままさに命が尽きて滅び行く者に、復活によって体現された永遠の命を差し出し、「これを受けよ」と招いておられるのです。

むすび

「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人(神に背く人)の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道(不信の生き方)を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル書三三ノ一一)。
かつて神は、預言者エゼキエルの口をとおして、イスラエルの民にこのように告げておいでになります。しかし、これはイスラエルだけにかぎりません。こんにちのわれわれ一人一人に対しても、おなじように愛の心からほとばしり出る、このように悲痛な訴えをつづけておられるのです。
人間の罪は神によって取り除かれ、救いの道が開かれました。救いはこれを望むすべての人に与えられます。
「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全く拭いとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。
すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた。『書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』」(ヨハネによる福音書二一ノ三〜五)。
神は、キリストの十字架によって罪の鎖を断ち切ってくださったというのに、どうしてあなたは罪から解放されようとしないのか。
神は、キリストの復活によって死を滅ぼしてくださったというのに、どうしてあなたは死の川の流れに身を任せて、破滅の滝壺を避けようとはしないのか。
神は、それを望むすべての人に、不死のいのちを提供してくださるというのに、どうしてあなたは手を差し出して、それを受けようとはしないのか。
神は、あなたの救いのために、すべての備えを完了して、われにきたれと招いておられるというのに、どうしてあなたは、そこに立ち止まったまま、前に進み出ようとはしないのか。
神は、あなたの名を呼んで、十字架の血潮したたるみ手をひろげ、われに来よと招いておられるというのに、どうしてあなたは、その招きに応えようとはしないのか。
神は、あなたに永遠の命と、栄光の聖国とを約束し、「生きよ」、「生きよ」、と呼びかけておられるのに、どうしてあなたはむざむざ死んでよいであろうか。
神は、いまもなお、われわれひとりひとりに、聖書をとおし、神の証人によって、このように呼びかけておられるのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音書三ノ一六)。

イザヤ書 四四章二一、二二節

ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事をこころにとめよ。
あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、
イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。
わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。
わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。

イザヤ書 六五章一七節

見よ、わたしは新しい天と新しい地とを創造する。
さきの事はおぼえられることなく、
心に思い起こすことはない。
しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。

賛美歌二三九番

さまよう人々たちかえりて あめなる御国の父を見よや
罪とがくやめるこころこそは 父より与うるたまものなれ
さまよう人々たちかえりて 主イエスの御許にとくひれふせ
わが主は憐れみみ手をのべて こぼるる涙を拭いたまわん
さまよう人々たちかえりて 十字架の上なるイエスをみよや
血しおの滴るみ手をひろげ 「生命をうけよ」とまねきたもう。