第31課 バプテスマとは何か

はじめに

宗教に儀式はつきもの、といってもよいかもしれません。これは宗教一般にみられる傾向ですが、とくに日本神道などは、儀式がすべてといってよいかもしれません。神道は、信仰箇条すなわち教義体系というものは存在しないといわれています。たしかに神道は、儀式によって形成され、儀式だけで成り立っている宗教といってよさそうです。
これに対してキリスト教はどうかといいますと、旧教と新教とでかなりの相違があります。旧教の方はやはり多くの儀式があり、儀式を抜きにして旧教の信仰はありえないということになろうかと思います。
けれども新教の方は、儀式にそれほど重きをおくことはせず、儀式らしいものがほとんどないのが特長といえるかもしれません。
しかし、まったくないわけではなく、新教にとってもやはり、欠かすことのできない儀式が二つあります。一つは、バプテスマであり、もう一つは聖餐式です。
バプテスマは、われわれが信仰に入るときに受ける儀式であり、聖餐式は、信仰にはいってのちに受ける儀式です。
今回は、前者のバプテスマについて、聖書の教えるところを学んでみることにしたいと思います。
バプテスマというのは、イエスが十字架の死後、三日目に復活され、四○日後に昇天されたのですが、イエスは地上を去るに当たって弟子たちに、つぎのような命令をお与えになりました。
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書二八ノ一八〜二○)。
この聖句によってあきらかなことは、バプテスマは単に、人が定めたものでも,教会が定めたものでもなくして、神なるキリストによって定められた儀式であるということです。

バプテスマの意義

われわれがクリスチャンになるということには、どういう意味があるのでしょうか。
「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ人への手紙六の三、四)。
すなわち、救い主キリストは、わたしたち罪人の身代わりとなって、十字架に架けられ、罪に対する刑罰を受けて死んでくださったのです。しかし、それと同時にイエスは復活によって死を滅ぼし、永遠の命の道を開いてくださったのでした。
ところで、わたしたちがキリストを信じるということは、どういうことを意味するのかといいますと、それはキリストと一体になることにほかなりません。そして、そのときわたしたちは、キリストの死がわたしの死になり、わたしたちも生まれながらの罪の自分に死んだことになります。それと同時に、キリストの復活はわたしの復活となり、わたしは新しいいのちに生きる者になるのです。
それを象徴的に示すものがバプテスマ式なのです。すなわち、わたしたちはバプテスマ式によって、水の中に沈められるとき、一瞬、呼吸ができなくなりますが、これは死と葬りの象徴です。つづいて水の中から引き揚げられるとき、ふたたび呼吸ができるようになりますが、これは復活と再生とを象徴しています。この死と葬り、ならびに復活と再生を象徴的に示すものがバプテスマ式なのです。
「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ書二ノ一九、二○)。
これが、バプテスマによって生まれ変わった人の新しい人生なのです。

バプテスマの必要

聖書は、バブテスマについてこのように述べていますが、しかしこのバプテスマが、われわれの救いに必要なものかどうかについては、人々の間に意見の相違があります。大別するとつぎの三つになろうと思います。
1、救いに絶対不可欠の条件である
2、救いの条件ではなく、したがって不必要である
3、救いの条件ではないが、しかし必要である。

1、バプテスマは救いに必要である
この考え方をとる人々は、バプテスマはたんに救いに必要であるというだけに留まらず、受けることが救いの保証であるかのように考えています。そのあらわれが幼児洗礼でしょう。
しかし、クリスチャンになるということは、神とのあいだで救いの契約関係に入ることを意味します。すなわち、バプテスマは救いに関して、われわれが神とのあいだに結ばれた契約のしるしなのです。
人と人との間で結ばれる契約においても、先ず品物や金銭の受け渡しがなされ、その証拠またしるしとして、受取証が渡されます。この受取証は、売買の契約には絶対不可欠といってよいでしょう。なぜなら、たとい金銭の支払いがなされたとしても、受取証がないなら、まだ未払いと見なされかねないからです。
それとおなじように、バプテスマも救いの契約に必要なものには違いはありませんが、しかしそれは、契約のやり取り,すなわち神の側の罪の赦しと、人の側の信仰という実質がまずあって、それの証拠また印としてのバプテスマでなければなりません。信仰が実質であり、バプテスマはそのしるし(形式)なのですから、実質の伴わない形式それじたいが、救いの条件となり、また保証となるものではありません。

2、バプテスマは救いに必要ではない
この考え方をとる人々に、救世軍や無教会があります。これは極端な形式重視に対する、反動と言えるかも知れません。この人々の考え方はこうです。
神は目に見えない存在です。したがって信仰は、精神的・霊的ことがらであって、心で信じているなら、それでよい。あえてそれを外側に目に見える形で示す必要はない、というのです。しかし、はたしてそうでしょうか。
例えば、結婚の場合はどうでしょう。これは精神的なものでしょうか、それともたんなる形式にすぎないものでしょうか。もちろんこれは、精神的なものであるはずです。心の結びつきなくして、どうして結婚が成り立ちえましょう。
しかし、それなら形式はまったく必要がないのでしょうか。二人が、たがいに愛を持って結ばれているならそれでよいとして、結婚式もなし、役所への届け出もなしで同棲するならどうでしょう。これを正常な結婚とみなすことができるでしょうか。
バプテスマもおなじです。バプテスマ式それ自体は、たんなる形式かも知れません。しかし、これはその人がキリストを救い主と信じて、彼に従うことを表明し、誓約することをあかしするしるしなのです。
信仰はあくまでも心の問題であり、バプテスマはたんなる形式に過ぎないとして、これを否定することははたして正しいといえるでしょうか。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とせられ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙一○ノ九、一○)。
ここに「口に告白して」とあるのは、「心に信じて」に対して、周りの人々にもそれとわかるように、公然と表明することを意味しています。バプテスマは、信仰のもっとも意味深い、そしてまた印象深い表現また表明の形式ということになると思います。
信仰はバプテスマの内容であり、バプテスマは信仰の表現形式です。信仰はバプテスマの中身であり、バプテスマは信仰を包む容器です。これはたんなる形式にすぎず、信仰にとって無意味であり、無用であるというのは、信仰者としてはまさに暴論というほかはないように思われます。

バブテスマは、神に対しては契約書への署名ともいうべき意味を持つものです。
また周りの人々に対しては入信の宣言、またあかしとなるものです。
そして、さらに自己自身においては、自分は神のものであって、もはやこの世のものではないということを自覚し、それによってこの世に対し背水の陣を布くという意味もあります。
しかし、それならバプテスマは救われるために、絶対不可欠の条件なのでしょうか。
渇きをいやすために必要なものは水ですが、その水を口元に運ぶためにはコップが必要です。コップは水を飲むために必要ではあっても、それは渇きをいやすものではありません。
バプテスマも同様です。それは、信仰の表明形式として尊重されるべきですが、バプテスマそれ自体がわれわれを救うのではありません。

3、バプテスマは救いの条件ではないまでもやはり必要である
もちろんバプテスマは、救いの絶対条件ではありません。十字架上の泥棒は手足を釘づけられており、とてもバプテスマを受けられる状態ではありませんでしたが、彼は信仰を表明することで、イエスから救いを約束されています。
こんにちも、高齢のため、病のため、水にはいれない人は、信仰を告白表明するだけで教会員として受け入れられています。しかし、ここでぜひ覚えていただきたいことがあります。
「これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした」(ルカによる福音書七ノ二九、三○)。
これは福音書記者ルカの説明ですが、イエスの言葉を聞いた民衆や取税人たちは、バプテスマを受けて神の正しいことを認めたが、パリサイ人や律法学者たちはバプテスマを受けないことによって、神のみこころを無にしたとあります。
われわれも同様です。福音を聞いてそれを真理と認めたなら、バプテスマを受けることによって、その信仰を身を以て表明することになるわけですが、もし福音を聞いてもバプテスマを受けないとすれば、その人がまだ福音を真理と認めることができず、神の救いを受け入れてはいないことを示していることになるわけです。少なくとも、「信じた者にバプテスマをほどこして弟子とするように」というイエスのみ旨を、その人は拒みつづけているということになるわけだと思います。
バプテスマは、ほんらい罪人が神に従う者となるときに受ける儀式なのです。ですから、まったく罪のないおかたであったイエスは、ほんらいならバプテスマを受ける必要はなかったはずですが、それにもかかわらずヨハネからバプテスマを受けられたのはなぜか。一つには、第二のアダムといわれるキリストは、全人類の代表として受けられたということがあるのかもしれませんが、もう一つは、このバプテスマに関して、イエスみずから、わたしたちに模範を示すことが目的であったように思われます。
もしそうだとすれば、このようにイエスみずからが模範を示してくださっている以上、われわれがこれにならうのは当然ではないでしょうか。
おぼえたいのは、神の救い、またわれわれの信仰生活の予型であった旧約の聖所についてです。聖所は教会のひながたでもあるわけですが、その聖所のすぐ前に洗盤が置かれていました。これはわれわれが教会に加入するときに受けるバプテスマを象徴しているようにも思われるのですが、それとの関連で考えてみても、バプテスマはやはり、われわれが教会に入る際にくぐるところの門のようなものであり、あるいは入場券のようなものであるということもできようかと思います。

バプテスマの方法・形式

バブテスマの形式には、現行二つの型が見られます。それは、洗礼(滴礼)と浸礼です。
洗礼は、受浸者の頭に水滴を垂らす方法であり、浸礼は、全身を水中に沈める形式で行なわれるものです。
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ人への手紙四ノ五)。とあるように、バプテスマに形式がいくつもあるのは、神の定めとは思われません。
バプテスマの原語は、「漬ける」、「浸す」、「深く沈める」の意です。
われらの模範であるイエスも、沈めの形式で受けておられますし、弟子たちも同様です。
「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた」(マタイによる福音書三ノ一六)。
「道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、『ここに水があります。私がバプテスマを受けるのになんのさしつかえがありますか』・・・そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると・・・」(使徒行伝八ノ三六、三八,三九)。
バプテスマは、どの形式が正しいかは、以上によってあきらかだと思います。それにもかかわらず、こんにちほとんどの教会は滴礼の形式を取っていますが、聖書に根拠のないこの形式は、いつどのようにしてはじまったものなのでしょうか。
これは紀元七五四年ステパノという法王が、水中に沈めることのできない老人また病人に、灌ぎの方法でバプテスマを授けることを許可したことにはじまると伝えられています。
しかし、老人また病人の場合は例外的に許されるとしても、これを一般化し、恒常化することは許されるベではないと思います。なぜなら、名は実を表すということばもあるように、名は容器であり、実は中身です。名と実は不離一体です。容器があっても中身がなければ無意味ですが、中身があっても容器がなければ、それを保つことも持ち運ぶこともできません。
バプテスマは形式とはいえ、大切な中身を納める容器です。容器である形式を否定することは、大切な中身を粗略に扱い、それを失うことにもなりかねません。
沈めのバプテスマは、死と甦りの象徴ですが、灌ぎのバプテスマは、死と生、葬りと再生の象徴とはなりえません。したがって、このような滴礼は、中身とは異なる容器だけのものとなってしまいます。中身をそっちのけにした、容器だけの形式的儀礼は、真の信仰の表明とはならず、キリストをあかしすることにもなりません。
中身と形式は不離一体の関係にあります。一方だけでは用をなさず、目的を達することはできません。水を飲むのに金のコップは必要でありませんが、真珠やダイヤを保管する場合、ティッシュペーパーや新聞紙で包むことはしません。なぜなら、だれかが気付かずにゴミ箱に捨ててしまいかねないからです。
形式は、それだけなら何の価値もありませんが、内容が価値のあるものなら、それにふさわしい形式は不可欠です。バプテスマも同様、内容の伴わない形式は、排すべきですが、内容の伴う形式は尊重すべきです。

バプテスマの資格・条件

では、バプテスマを受けるための資格また条件は何でしょうか。

1、キリスト教の教理(聖書の骨組み)を一通り学ぶことです。
聖書の全部を知り尽くすことは、一生かかっても不可能なことですが、聖書の概要(骨格)を把握することは充分可能ですので、せめてそうした学びは必要と思います。それがなければ、キリスト教の信仰は成り立ちえないからです。

2、イエスが神の子であり、救い主であることが信じられなくてはなりません。
「あなた方は、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書五ノ三九)。
聖書の教えの中心はなんでしょうか。それは、この聖句にありますように、たんなる理論的教理の体系ではありません。神がわれらのためにお遣わしになった救い主イエス・キリストです。
「ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえありません。」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。そこで・・・ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた」(使徒行伝八ノ三七、三八)。
この聖句にみられるように、聖書の教えの中心であるキリストを救い主として信受することが、受浸資格の絶対要件ということになります。

3、悔い改めが必要です。悔い改めとは、自分に死んで神に生きる者となることです。
「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう』」(使徒行伝二ノ三七、三八)。
バプテスマがたんなる形式に終わらないためには、実質がそれに伴わなければならないのは、当然のことです。実質とは、死と生、葬りと復活です。言い換えれば、生き方の方向転換、すなわち悔い改めです。
それは、自分を中心とする生き方から、神を中心とする生き方に、この世を目的とする生き方から、神の国をめざす生き方に、人生の目的や生き方を変えることです。

バプテスマを受けた者の世との関係

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マルコによる福音書一ノ九〜一一)。
イエスがヨハネからバプテスマを受け、水から上がられたとき、聖霊が彼の上にそそがれ、それと同時に天から父なる神の声があって、このイエスこそまさしく神の子であるとの宣言がなされたとある。イエスのバプテスマは、われわれ罪人の代表として受けられたものであるのですから、このときイエスに起こったことは、われわれのうえに起こることでもあるのです。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」(ガラテヤ書三ノ二七、二八)。
このように、われわれはバプテスマを受けることによって、キリストと一体になり、その結果、父なる神に神の子として認められ、受け入れられたことを示すものとなるのです。
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」(ガラテヤ書六ノ一四)。
わたしたちはバプテスマによって神の子となった以上、この世に対して死んだ者となり、神に在って新しい命を生きる者となったのです。
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ人への手紙六ノ一一)。
わたしたちはバブテスマを受けたからといって、一瞬にして変貌するというわけではありません。むしろ外観は昨日までの自分と何も変わってはいないでしょう。
変化は外観ではなく、内面にあります。内的、とくに神との関係が、これまでとまったく違ったものとなっているのです。これは信仰によってのみ認められうる事実なのです。ですから、それはたんなる感情ではなく、意思をもってそのように「認め」、自覚することが必要です。
「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ人への手紙三ノ一〜三)。
われわれはバプテスマを受けてのちも、依然として身はこの地上におかれたままです。しかし、神の支配下に入った者であるのも事実なのです。それなら当然、これまでのように地上に目をそそいで、それを追い求めることはしないで、天上に目をそそぎ、上にあるものを求めるようになるべきなのです。

むすび

「彼らに言われた、「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書一六ノ一五、一六)。
われわれがバプテスマを受けてのちも、外観は世の人となんの違いもないように思われるかも知れません。しかし、内面的にはまったく違った存在となるのです。その違いは、世が改まる時にあきらかになります。
それはイースター(復活祭)によく用いられる卵が、とてもよい譬えになります。
ここに二つの卵が置かれています。外観はどちらも同じですが、内容は全く違います。一方は無精卵であり、他方は有精卵です。この卵は、どちらも親鳥によって一定期間、抱かれて温められます。その結果はどうなるでしょう。
一方は腐ってしまい、殻だけが残ることになります。しかし、他方はどうでしょう。卵の殻は破られ、中からひよこが元気良く飛び出します。
どうしてこのような違いが生じたのか。それはなにもむずかしいことではありません。一方は無精卵であって、その中に命がやどっていなかったからです。他方は、有精卵であって、そのなかに命が宿っていたからです。
バプテスマを受ける者と受けない者とのあいだには、表面なんの違いもないように見えます。しかし、内側には質的にたいへんな違いがあります。それはどういう違いでしょうか。
「神の御子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。これらのことをあなたがたに書き送ったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである」(ヨハネの第一の手紙五ノ一○〜一三)。
救い主キリストは、十字架の死後復活することによって、死を滅ぼし、永遠の命の道を切り開いてくださいました。このキリストは命の根源であり、永遠の命そのものです。
このキリストを、信仰によって心のうちにお宿しするならば、そのひとはいますでに、永遠のいのちを生きる者となっているのです。しかし、それが誰の目にもあきらかになるのは、いうまでもなく世の終わり、キリストの再臨のときなのです。
「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬ者は必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちる者が朽ちない者を着、この死ぬ者が、死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである」。(コリント人への第一の手紙一五ノ五一〜五七)。
クリスチャンは、いまは肉体という殻を身にまとっています。しかし、この殻を破って出てくるときがやってまいります。それが復活による命です。
そして、バプテスマにはそのような意味がこめられているのです。
とするならば、われわれはこのバプテスマをどうすべきでしょうか。
「そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」(使徒行伝二二ノ一六)。

 

要点の確認

  1. 宗教に儀式はつきものといってよい。だが、キリスト教はこれを主要なものとは考えていない。しかし、次のふたつは、神によって制定された儀式であるゆえに、これを尊重し、守り行っている。それはバプテスマ式と聖餐式である。バプテスマは、われわれが入信時に受けるものであり、聖餐式は入信後に預かる儀式である。
  2. バプテスマにはどんな意味があるのか。われわれがキリストを信じるということは、キリストと一体になることにほかならない。キリストと一体になった者は、キリストが十字架上で死んだように、生まれながらの古き我に死んだ者となり、キリストが復活したように、新しき我に生まれ代わった者となる。バプテスマは、その霊的変化の象徴であり、その告白表明である。
  3. バプテスマは、救いに不可欠のものか。これは救いの条件ではないが、やはり必要である。なぜなら、イエスご自身これを受けられ、また「信じた者にこれを施して弟子とせよ」お命じになっているからである。
  4. バプテスマの形式に洗礼と浸礼とがあるが、これが死と生の象徴であるのなら、浸礼でなければ意味がない。
  5. 受浸の資格また条件は、信仰と悔い改めであるが、受浸後は、神の律法が生活の規範となるべきである。