第30課 教会に分派があるのはなぜか?

はじめに

こんにち、世間一般のかたがたが、キリスト教会にたいしていだいている疑問の一つは、教会がいくつにも別れていることかと思います。これはなぜなのか、当然の疑問というべきでしょう。
教会は大きく分けて旧教と新教の別があります。
おなじ旧教のなかにも西のローマ教会と東のギリシャ正教会とは別組織になっています。
新教においても同様、教派数が三○○以上にも及んでいます。そのため、せっかくキリスト教に関心をもち、教会に加入したいと希望する人々を戸惑わせている、ということもないではありません。
戦後まもなくのこと、わたしが神学生の身で、夏休みに仙台で文書伝道をしていたときのことです。あるラジオ店に入って、そこの主人に伝道文書を紹介してみました。
ところが、その方は「わたしもキリスト教です」といわれます。
「教会はどちらですか」と訊ねますと、「いや、教会には行っていない」とのこと、「どうしてですか」とかさねて聞きますと、その方は次のようなことをいわれたのです。
この方は、終戦と同時に思想的混乱状態の中にあって、新しい人生の指針を求め、聖書を読みはじめました。その結果、キリストを神として、また救い主として信じ受けいれました。そこで教会に加入しようと思いましたが、教会は一つではなくたくさんあります。どの教会に行けばよいのか迷い、いくつかの教会に行って話を聞いてみました。ところがどの教会も「自分の教会が正しく他は間違っている」と異口同音に主張する。いくら説明を聞いても、どの教会の教えが正しいのか判断のしようがない。「そこでわたしは、教会に加入するのはやめにして、自分の家で聖書を学び、自分ひとりで信仰を守っていくことにした」というお話でした。
これに対して、キリスト教会は当然、それなりの説明をする責任があると思います。

教会が分かれている理由

いったい教会がいくつにも分かれているのはなぜなのか?
もちろんこれには、いくつかの理由また経緯があるわけです。

一、派閥的対立や紛争が原因
まず最初に挙げなければならないのは、派閥的対立や紛争の結果ということかと思います。
これは、他の宗教には普通にみられるところであり、しかもこれが教団分裂の最も大きな原因となっているのはまちがいなさそうです。
しかし、キリスト教においては、この理由で分かれている例は、極めて稀であるといってよいでしょう。とはいっても、まったくないとはいえないかもしれません。
わたしがよく知っているある教会の場合、総理が非常に有能な方であり、息子さん方も才能に恵まれた優れた人材であるだけに、親子共それぞれ教団の要職についています。そのため教団全体を一族で支配しているという印象を人々に与えかねないありさまでした。
ところが、この教団は将来神学校を建設する予定で、千葉県あたりに何千坪かの土地をもっていたのですが、それを総理の独断で売却を決定したという理由で、総務がこれに反発し、はげしく異義を唱えたため、紛糾したことがあります。そして、それが原因でこの教団は、二つに分裂したという事実があったのです。
この場合の分裂の理由は、まったく派閥的対立と争いにあったことは、あきらかだと思われます。
しかし、このような例は極めて例外的ともいえるものであって、キリスト教会の分裂の理由としては、皆無に近いといってよいでしょう。

二、教義信条の相違が原因
キリスト教会がいくつかに分裂している原因は、主としてこの点にあるといってよいでしょう。なぜか、たとえば仏教の場合でしたら、各宗派の礼拝の対象である本尊自体が別々であり、依拠する経典もみな違います。ですから、教義や信条がちがうのはあたりまえであり、したがって、宗派の分裂も当然であり、自然であるとさえいえましょう。
ところが、キリスト教の場合、信仰の対象である神は、万物の創造者・支配者であって、同じ神なのです。しかも、信仰の拠り所とする聖典は旧・新約聖書であって、同じ一冊の聖書なのです。それなのに、教会が分かれているのはなぜなのか、これは当然の疑問というべきでしょう。
もちろん、例外もあります。たとえば、旧教のほうは礼拝の対象が、同じ創造主であるとはいえ、イエス・キリストと共に、イエスの母マリヤも礼拝の対象としています。信仰の拠り所も、聖書だけではなく、教会の伝承(教会の中のさまざまな言い伝え、これも公教要理のなかに納められている)も聖書と同等に重視しています。
しかし、このカトリック以外は、神の啓示の書である聖書だけを信仰の唯一の典拠としているのです。それなのに、どうして教会が分かれているのでしょうか。
これは、信仰の拠り所である聖典は同じであっても、その解釈に相違があるためです。しかし、聖書が神のみ旨のお告げであるという。それなら、聖書の言わんとする意味は一つであるはずなのに、どうして解釈が違うのでしょうか。これにはいくつかの理由があるように思われます。

1、理解の相違
聖書は神から啓示された真理であって、しかも神の霊、聖霊によって人間に与えられたものです。したがって、これは聖霊によらなければ、だれもその真の意味を理解し、悟ることはできないと聖書にも記されています。(コリント人への第一の手紙二ノ九〜一六)。
このような聖書を、人間の理性や知力だけで理解しようとするなら、とうぜん、人によって違った理解の仕方をするということが起こりえます。

2、信仰の相違
聖書は神の啓示の言葉である以上、人間の理性や常識だけでこれを理解することには無理があります。なぜなら、人間の理性や理解は有限であり、当然限界があります。したがって、これを自分のものとするためには、理性や知性の合理的理解や納得だけではなく、信じることが必要になります。
ところが、この信仰は人それぞれに深浅・強弱の相違があります。たとえば、神のわざである奇跡に対してある人は、神は全知全能であるから、神にはなんでもできる、神に不可能はないはずだとして、聖書に書かれていることを、百パーセント全面的に信じ受け入れます。
しかしある人は、奇跡としか言いようのない神のわざを、全部その通りに信じ受け入れることができません。ある人は五○パーセント、ある人は三○パーセント、中には一○パーセント程度しか信じ受け入れることができないわけです。
そうすると当然、その信じ方の相違によって、聖書の読み方解釈にも個人的差違が生じてくることになります。

3、服従の相違
たとい、聖書の教えを一○○パーセント信じ認めた場合であっても、その教えにたいする従い方は、人によってみな違います。ある人は信じた通りに従いますが、別の人は一○○パーセント信じていても、五○パーセント、あるいは三○パーセントしか、従うことができず、また従おうとはしません。そうした従い方の相違が、教会に分裂を生じさせる原因となっているということもあります。

4、真理また神への愛の相違
それもこれも、とどのつまりは真理また神への愛の相違によって、教えの受け取り方従い方にも相違が生じているということにもなります。すなわち、なかには「自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった」(テサロニケ第二ノ手紙二ノ一○)結果として、信じ方従い方にも相違が出てくることになるわけです。
けっきょく、聖書の教えは非常に標準の高いものであるのに対して、人間の現実の標準はあまりにも低いのが実態です。
これに対して、ある人は人間の実情を聖書の標準にまで引き上げ、高めようとしますが、ある人は、聖書の標準を引き下げて、人間の実態に合わせようとします。そして、この二つの考え方の間に、幾段階かの信仰また服従の仕方の相違が生じるということもあります。
これが、こんにち教会の教義・信条がいくつにも分かれている原因であり、また経緯なのです。

三、サタンの策謀
しかし、それもこれもその背景には、サタンの策謀があることを知らなければなりません。いったいサタンとは何者でしょう。サタンというのは敵、すなわち神への敵対者という意味なのです。
かつて彼は、天使の最高位にある者でした。ところがその彼が、神によって造られ、生かされている存在としての自分の立場を忘れ、己の分を超えて神への敵対者となりました。
彼は神に戦いを挑み、その結果、敗北して天から追放され、いまこの地上に閉じ込められている、と聖書は告げています。
彼は神がこの世に遣わされた救い主キリストを滅ぼそうとし、十字架に架けて殺したのです。けれども神はこれを死からよみがえらせ、かつ彼は天に挙げられたのです。こうしてキリストを滅ぼすことに失敗したサタンは、こんどはキリストが地上に残していかれた弟子たちや教会に、戦いの鉾先をむけるようになりました。
彼は最初、武力や暴力を用いて教会を迫害しましたが、それによってはキリスト教を滅ぼすことができませんでした。そればかりか、この教えはますます広まる一方であったのです。
そこでサタンは戦術を変え、妥協策によって教会の内側に侵入し、内部から腐敗と撹乱を企てたのです。その具体的あらわれが、それまで教会の迫害者であったコンスタンチヌス大帝のキリスト教への改宗です。
教会は外から迫害されている間は、聖書を土台とした信仰に立ち、教会も一致団結して純粋な信仰を守りとおすことができたのですが、ローマ皇帝の改宗により、教会が国教となるや、大勢の人が悔い改めの経験なしにぞくぞく教会に加わるようになりました。
その結果、異教の信仰や慣習がそのまま教会に持ち込まれ、教会のこれまでの聖書的信仰や戒律がその影響を受けて次第に俗化していきました。
こうして形成されたのが、宗教改革前の異教化した教会の実態であったのです。しかも、その結果教会は、宗教と政治の結合した形となり、信仰の強制がおこなわれ、、教会に従わない者を弾圧し、抹殺するようにさえなったのでした。

宗教改革の必然性

こうした教会の世俗化は、神の教会としての存在の意味を失わせることにもなりかねません。ですから、教会のこうした状態は是正され、純化される必要があります。そのため、神の摂理によって起こされたのが宗教改革であったのです。
この宗教改革の狙いは何かと言いますと、神と人との間に立って、人々に特定の信仰を強制したり、またその人の信仰を抑圧したり弾圧したりする、いかなる権力の介在をも許さない。だれもが、みずからの良心に従って、自由に信仰また宗教を選び取ることができるようになることです。
しかし、そのためには信者各自が、信仰の拠り所とすべき永遠不変の基準がなければなりません。それが、神の啓示の言葉である聖書なのです。改革以前は、異教化した教会がこの聖書を所持することを禁じたばかりか、この聖書を人々から取り上げて焼却したりもしていたのです。そんなありさまでしたから、教会の教義信条の中には聖書に基づかない異教の思想や慣習が取り入れられ、それが聖書の教えや信仰に取って代わるようにさえなりました。そこで、改革者のひとりルターは、「聖書に帰れ」と声を大にして叫んだのでした。こうして、聖書を土台とする信仰に立つ人々によって生まれた教会が新教(プロテスタント)教会なのです。
ところがプロテスタント教会は、このようにして、ひとりひとりが自由に信仰を選べるようになった半面、信仰が個性的になり、その結果、いくつもの異なった教会に分かれていきました。

教会が分かれているもう一つの理由

教会がいくつにも分かれている理由に、もう一つの側面があり、それにも注目する必要があります。
神は、救いのおとずれを人々に告げ知らせるために、その器として最初ユダヤ人をお選びになりました。これが旧約時代の神の民です。
しかし、神が救い主を世に遣わされたとき、彼らはこれを信ぜず、拒み退けたため、彼らは神からも棄てられる結果となりました。
そこで神は、彼らの代わりに全世界からイエスを救い主として信じ受け入れた人々を集めて、このひとびとに救いのおとずれを述べ伝える働きを負わせられたのでした。これが新約時代の教会です。
ところが、この新約の教会も時が経つに連れて、しだいに聖書の信仰から離れていき、世俗の思想や習慣が教会の中に取り込まれるようになりました。そのため、教会はすっかり異教化してしまい、神はこの教会をお用いになることができなくなりました。これが旧教と呼ばれている教会なのです。
そこで神は、改革者を起こし、「聖書に帰れ」との叫びをもって、人々が聖書を土台とする信仰に固く立つように導かれたのでした。このようにして起こされたのが、新教と称されるプロテスタント教会なのです。
しかし、神の真理は漸進的啓示と言って、一度にすべての真理をお与えになるのではなく、神は時代の推移とともに、次々と新しい光をお与えになるのです。そこで、聖書からその新しい光を発見した人が、教会の人々にそれを知らせます。
だが残念なことに、これまでの教会はそれを異端として拒み退けます。しかも、この人は教会から破門され、追放されます。その結果、新しい光を受け入れた少数の者たちによって、新しい教会が生まれます。
そのうちまた聖書から、さらに新しい真理を発見する人が現れ出ます。そして、それを人々にあかしすると、教会は「それはわれわれがこれまで継承してきた教えとは違う」ということで、これを拒み退けてしまうのです。こうして教会から拒まれた人々の群れによって、また新しい教会が生まれることになります。
ところが、それとは別に、なかには聖書の様々な教えのうちの、ある特定の教義だけを強調し、他の教義を軽視したり、無視したりするといった、偏った信じ方をする者も出てまいります。たとえば、神学を重視する余り、理論的真理の追究に傾きすぎて、頭だけの信仰になってしまっている教会、あるいは、聖霊を強調する余り、狂信的ともいえるような熱狂的タイプの信仰を特徴とする教会、さらには文化的色彩の顕著な教会とか、社会性や政治性を帯びた教会など、そうした群れの独自性のゆえに、分派をなしている教会もあります。
このようにして、次から次と新しい教会が生まれてきたわけですが、これが、教会がこんにち沢山の教派に分かれて存在するようになっている、もう一つの理由なのです。

教会の分派をどう考えるべきか

では、このようにして生まれた、教会の分派をわれわれはどう考えたらよいのでしょうか。
こうした教会の分裂状態の可否について、人々の間に肯定、否定の両論があります。

1、分派があってかまわない
教会がいくつにも分かれていることは、かならずしも悪いこと、間違ったこととは思わない。むしろこれは必要なことであり、よいことであると考える人もいるのです。その理由はこうです。

A、教会が唯一つなら、たとい教会が間違っていても、それに気付かないでいることもありうる。しかし教会が分かれていることによって、もし間違いがあれば、たちまち他の教会からそれを指摘され、批判される。
そのことによって、教会はその間違いに気づき、ただちにそれを改めるようにもなる。
そうした切磋琢磨によって、教会は教義的に重大なあやまちに陥ることから守られてきたばかりか、より健全な聖書理解と、正しい聖書的信仰に成長することもできたはずであるというのです。
B、また、教会が分かれていることによって、入信者は自分の好みにあった教会を選んで、それに加入することができる。だから、その方がよいではないかという人もいます。
たとえばわれわれが身につける衣服にしても、種類が唯一つであるよりは、いくつもの種類があり、各自が自分に合うものを自由に選択できる方が望ましい。教会もそれと同じことがいえるというのです。

たしかに、理屈からすれば、そうかもしれませんが、しかし神ご自身のみ旨はどうなのでしょうか。
イエスがこの世を去られるにあたって父なる神に嘆願された祈りに、次のようなことが述べられています。
「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守ってください。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネによる福音書一七ノ一一)。
このイエスの祈りによれば、教会がいくつにも分かれているのは、決して神のみ旨でないことがわかります。
神の教会は、やはり一つであることが神のみ旨であることに、疑いの余地はありません。

2、神の教会は当然一つになるべきである
キリスト教は愛の宗教といわれる。それなのに教会が分かれて争っているなら、それは愛にもとる行為といわねばならない。教会は互いに相手を非難し、排斥することをやめ、愛をもって一つになるべきであるという主張があります。もし分かれている理由が、派閥的対立や分離なら、たしかにそのとおりというべきでしょう。
しかし、教会が互いに分裂している原因また理由が、教義信条の相違にあるのだとしたら、そう簡単に一つになるわけにはいかないでしょう。
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ人への手紙四ノ五)。
ここに、信仰は一つとあります。教会が一つであるためには、その前提条件として、当然信仰における一致がなければなりません。信仰が異なるにもかかわらず、一つになるということになれば、それは神と真理に対する背信行為となりかねません。そのような一致は、神の求めたもうものではなく、またそのような教会はもはや神の教会とはいえず、単なる烏合の衆にすぎないものとなってしまうでしょう。

3、独善的自己主張
教会の一致を妨げている原因には、互いに己が聖書理解や解釈だけが正しく、他のそれは間違いだと主張してゆずらないという。そういうところにあるのも事実かと思います。。ではどうしたらよいのでしょうか。
「ペテロとヨハネとは、これに対して言った、『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いた事を、語らないわけにはいかない』」(使徒行伝四ノ一九、二○)。
「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである』」(使徒行伝五ノ二九)。
そもそも、真理に関して何が正しいのか、どれが確かなのかについて、ここに判断の基準が明確に示されています。それは、人の考えや判断ではなく、神のみ旨また判断によるべきであるというのです。けっきょく人間の考えや意見は相対的であり、これだけが正しいということはありえないことです。
ですから、絶対の正しい基準は、これを神に求める以外にはないということになります。そこで、いったい神はどの教会の聖書理解や解釈を正しいとお認めになるのかが問題となります。そしてまた、われわれがそのような教会を見分ける手掛かりとなるものを神がお与えになっているのかどうかが決め手となります。
では、沢山の教会の中で、神の言葉に忠実であり、聖書の正しい理解と解釈をもっている教会はどの教会なのか、それを見分ける判断の基準また根拠を、神は示しておられないのかどうかです。

真の教会

「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った」(ヨハネの黙示録一二ノ一七)。
ここにいわれている龍とはサタンのことです。女は教会の象徴です。サタンの攻撃の対象は女すなわち教会ですが、背教教会はサタンの攻撃の対象とはなりません。この聖句によれば、サタンが戦いを挑むのは「女の残りの子ら」とありますが、これは残りの教会のことです。それは背教教会ではなく、神に忠実に従う教会であり、神がお用いになる最期の教会のことです。
では、それはどういう教会でしょうか。ここに二つの特徴が示されています。

1、神の戒めを守る教会
ここに「神の戒めを守り」とあります。神の教会なら、神の戒めを守るのは当然のように思われますが、事実はそうではないようです。こんにち多くの教会は、神の戒めはキリストの十字架によって廃されたと主張しています。彼らは神の律法を持ってもいなければ、守ってもいません。
たとい律法の不変性を認める教会であっても、十戒の第四条安息日の戒めには従っていません。彼らの聖日は日曜日となっています。しかし、神が十戒に命じておられる安息日は第七日とあります。週の第七日は土曜日です。これが神によって定められた真の安息日なのです。これを聖書どおりに守る教会でなければ神の教会、とくに残りの教会とはいえないわけです。
神の安息日である土曜日を日曜日に変更したのはカトリック教会ですが、かつてカトリックの機関誌が、こういう記事を公表したことがあります。
「聖書は唯一の指導書であると主張するプロテスタントは、日曜日を守る正当な理由はない。この点に関しては、セブンスデー・アドベンチストが矛盾をもたない唯一のプロテスタントである」(ザ・カトリックユニバース・ブレティン一九四二・八・一四)。
これによって、神の真の教会はどの教会か、かなり明白になったのではないかと思います。しかし、聖書にはもう一つの特徴が示されています。

2、イエスのあかしを持っている教会
つづいてここに「イエスのあかしを持っている者たち」とあります。
いったいイエスのあかしとはなんでしょうか。これについて「ものみの塔」という団体は言います。
「クリスチャンはイエスのあかし人である。だからここでいわれている『あかしを持っている者』とは、クリスチャンのことである」と。だが、はたしてそうでしょうか。これについての聖書の説明はこうです。
「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」(ヨハネの黙示録一九ノ一○)。
では、この預言の霊とは何でしょうか。これは、神からのメッセージを人々に伝達する神の聖霊のことですが、この神の聖霊はどんな形で教会に与えられているのでしょうか。結論を申しますと、それは預言者です。
そのことは、つぎのことによって立証できます。
ヨハネの黙示録一九ノ一○に「イエスのあかしびとであるあなたの兄弟」とありますが、同書二二ノ九には、
「あなたの兄弟である預言者」とあります。この二つの聖句を並べて讀むと、片方は「イエスのあかしをもつ兄弟」とあり、他方は「その兄弟は預言者」とあります。そうすると「イエスのあかしをもつ者」とは、「預言者」のことであることがわかります。
これらの聖句によって、神が歴史の終末において、この世に対する最期の警告のメッセージをひとびとに宣べ伝えさせるためにお用いになる教会は、「神の律法を守り」、また「イエスのあかしをもつ者」、すなわち「預言者」を与えられ、これに導かれる教会であることがわかるのです。

なぜいま預言者なのか?

なかには、救いに関する神の啓示は、聖書によって完結している。したがって、こんにち神が預言者を立て、これを教会にお与えになる必要性はもはや存在しないという人々がいます。
しかし、預言者というのは、聖書を書くだけが使命また任務なのではありません。聖書をみると、いろいろな預言者のいたことがわかりますが、そのなかには何も書き残すことをしなかった人も少なくありません。
たとえば、イエスにバプテスマを授けたヨハネは、聖書を何も書いてはいません。彼の使命は、当時の人々に、初臨のキリストを迎える準備をさせることにありました。
こんにちもそれと似た目的と必要性があります。すなわち、現代の人々に、再臨のキリストを迎えるための準備をさせるという使命また任務です。それを担う預言者が必要なのです。なぜなら、これまで述べてまいりましたように、せっかく神から天国への案内図として聖書が与えられていながら、こんにちその解釈がまちまちであり、したがって信仰もばらばらです。ですから、いったい聖書をどのように解釈し、どのように信じればよいのか分からず、途方に暮れている人も少なくありません。こんな状態で再臨のキリストをお迎えすることなどできるわけがありません。
そこで神は、聖書のほんとうの意味、また聖書の正しい解釈や信じ方を示す必要があり、そのために預言の霊すなわち預言者をこんにちの教会に約束されていたのです。
では、どの教会がその預言者をあたえられているのか、またどこのだれがその預言者なのか、これはわれわれが各自で判断し、選択するように求められています。(それには、詳細な情報が必要ですので、ご希望の方は教会にご連絡ください)。

残りの教会とその他の教会との関係

聖書に預言されているこの残りの教会が、神の真の教会ということになるわけですが、それ以外の教会はどういうことになるのでしょうか。聖書によるとこれらの教会はバビロンとよばれています。バビロンとは混乱という意味です。聖書どおりの正しい解釈や信じ方でないために、信仰自体が錯綜し混乱してしまっています。
その結果、次のような宣告が与えられています。
「また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者』」(ヨハネの黙示録一四ノ八)。
このバビロンとよばれる教会は、世俗と妥協し、偶像礼拝など異教化した教えを、人々に説き示すことによって、神の怒りを招いているというのです。これはあきらかに神に背いている教会であり、神はもはやこのような教会をお用いになることはできないのです。いわば神から棄てられたか、棄てられつつある教会ということになるわけです。
では、そのような教会のメンバーとなっている信者たちは、どうなるのでしょうか。彼らも神から棄てられているのでしょうか。そうではありません。
「わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積もり積もって天に達しており、神はその不義を覚えておられるからである』」(ヨハネの黙示録一八ノ四、五)。
女は教会の象徴ですが、ここに述べられている女は背教教会です。ところが、その中にいる人々に対して神は、「わたしの民よ」と呼びかけておられます。たとい教会は背教して神から棄てられているとはいえ、そのなかにいる人々まで棄てられているわけではなく、むしろ神はこれを「神の民」として、いまも愛し導いておられることがここに示されています。
しかし、それと同時に、ここで聞き流してはならない大事なことがあります。それはそのあとに続く神の招きのお声です。
「彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」。
すなわち、教会の罪に対する神の刑罰から逃れるために、そのなかから出てくるようにというのです。こうして、バビロンから呼び出された人々が、聖書を土台とした正しい信仰に立ち帰ることによって、救いの備えを全うし、再臨のキリストを大いなる喜びをもってお迎えすることができるようになるのです。

むすび

神はいまから二千年前、世の救い主として、キリストをこの地上にお遣わしになりました。しかも神は、その前に、バプテスマのヨハネという預言者をお与えになりました。これは、当時の人々に、初臨のキリストをお迎えする準備をさせるためでした。
この救い主キリストは、近い将来また来臨されます。これがキリストの再臨です。しかも神は、この再臨のキリストをお迎えする準備をさせるために、こんにちの教会にも預言者を与えると約束しておられたのです。
いまから二千年前、ヨハネのメッセージを聞いて悔い改めた人たちは、初臨のキリストを救い主として受けいれたのでした。こんにちも同様、神のお与えになった預言者に教え導かれる人々は、再臨のキリストをお迎えするための正しい備えができ、確信と喜びをもってキリストの来臨を待ち望むことができるのです。

要点の確認

  1. 教会が神の教会なら、当然一つであるべきではないか。それなのに、現実はいくつにも分かれている。これはどうしてなのか。当然の疑問であろう。
  2. 教会がいくつにも分かれているのは、派閥的対立や紛争が原因となっている例もないわけではないが、キリスト教会においては、それは例外に属する。主な理由は、教義信条の相違にある。
  3. しかし、おなじ聖書を信じているのに、どうして教義・信条に相違があるのか。それは、聖書の理解に深浅があり、信仰に強弱があり、神への服従に忠実不忠実の違いがあり、それは結局、神と真理に対する愛の相違にあるということになろう。それによって、教義や信条にも相違が生じているわけである。
  4. だが、教会分派の根本的原因は、サタンの策謀によるというほかはない。サタンは神への敵対者である。彼はまず、神の選民イスラエルをあざむいて、彼らを律法の奴隷にし、彼らの信仰を誤らせた。その結果、イスラエルは、神が救い主をこの世にお遣わしなったとき、これを退け、十字架にかけて殺してしまった。けれども、神はこれを復活させられ、天に挙げられたので、サタンはキリストを滅ぼすことに失敗した。そこで彼は、戦いの鉾先を教会に向けるようになった。彼は先ず、迫害によって教会を滅ぼそうとしたが、それは不可能と知り、戦術を変えて、教会の内部撹乱を策した。これが見事に成功し、教会はサタンの欺瞞思想に耳を傾けることによって、聖書から遠ざかっていったため、神は既存の教会をお用いになることができなくなった。
  5. そこで神は、宗教改革によって人々が聖書に立ち返るように導かれた。しかしその結果、人々は聖書を勝手に解釈するようになり、さまざまな教義信条が生まれ、同時に教会がいくつにも分かれるようになった。
  6. しかし神は、キリストの再臨を間近に控えた今日の教会に、預言者を与え、聖書の真の意味、また正しい理解や信じ方をお示しになった。それと共に、聖書から離れた教会に対し、「バビロンは倒れた」という宣告を下しておられる。
  7. だが神は、そのなかにいる人々をお棄てになったわけではない。神はそれらの人々を「わたしの民よ」と呼んでおられる。ただし、堕落した教会の教えに惑わされないように、その中から出てくるようにと招いておられる。われわれは、この神の招きにどう応えるかによって、各自の運命が決まることになる。