第29課 教会とは何か

はじめに

われわれが福音を聞いて、キリストを信じる者となった場合、普通は教会員となるわけですが、いったい教会とはなんでしょうか。これはどういう意味を持つものであり、またその成り立ちはどのようなものなのでしょうか。
キリスト教の信仰は、二つのものを柱また土台として、その上に建てられています。
一つはいうまでもなく聖書です。聖書は、神の啓示による真理の言葉です。
もう一つは教会です。教会は、聖書に基づいて形成されたキリスト者の集まりを指します。
「神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである」(テモテへの第一の手紙三ノ一五)。
ここに、教会は神の家であり、真理の柱、真理の基礎であるとあります。
では、聖書と教会とはどんなかかわりを持つものなのでしょうか。
聖書は、信仰の理論や信条に関係し、教会は信仰の実践または生活に関係します。
聖書は信仰の内容に関係し、教会は信仰の外形をなすものということがいえるかもしれません。
しかし、理論や信条を切り離した実践や生活は、盲目的信仰となり、実践や生活を無視した理論や信条は、命のない形骸だけのものとなってしまいます。
この二つの土台のうち、どちらにより重きをおくかという点で、キリスト教の中に二つの異なった考え方が存在します。
旧教は教会を重んじ、新教は聖書を重んじます。しかも、そのうえどちらかというと、旧教のほうは、教会を重んじるあまり聖書を軽んじ、新教のほうは聖書を重んじるあまり、教会を軽視するという傾向がみられます。
ある人たちは、教会がなくても信仰を持つことはできる。教会に加入しなくても救いは得られると主張します。しかし、はたしてそうでしょうか。この問題について、これから究明してみたいと思います。

教会の起源

教会という言葉の原語はエクレシアといいますが、これは「呼び出された者」または「召し集められた者」を意味します。
神によって、この世から呼び集められた群れということですが、その原型は,エデンの園におけるアダムとエバということになろうかと思います。そこはたしかに神の家であり、神の民のホームでありました。しかし、残念ながらアダムとエバは、サタンの惑わしによって神に背き、このエデンから追放されました。
そのうち、彼の子孫がしだいに増え広がり、同時に人類は神を信じる者と、神を信じない者との二つの群れに分かれるようになりました。そこで神は、神を信じる人々を、神を信じない人々の中から呼び出し、これをみもとに召し集められました。それがノアとその家族たちです。
神はこのノアに、洪水が起こることをお告げになり、それから逃れるために、箱船を造ってその中に入るようにお命じになりました。それと同時に、世の人びとにも警告をお与えになりましたが、誰ひとり耳を貸す者はなく、その結果救われた者は、ノアとその家族だけでした。
このノアとその家族、これはまさに神によって呼び出され、召し集められた群れ、すなわち教会でした。
洪水ののち、救われたノアとその家族から、またまた人類が増え広がっていきましたが、この人々は町と高い塔を建てることを始めました。これは、神からの離反と独立を策する企てでした。そのため神は、人々の言葉をみだすことによって、この企てを阻止されました。
それと同時に、そうした群れの中からアブラハムというひとを呼び出し、その子孫を召し集めて、これを神の選民とされました。これがイスラエル民族です。神はこの民を、救いのおとずれを全世界に宣べ伝えさせる器としてお用いになるご計画であったのです。これが旧約時代の教会ということになると思います。
ところが、いまから二千年前、神は救い主キリストをこの世にお遣わしになったとき、彼らはこの方を拒み退け、十字架に架けて殺してしまったのです。そのため、神もこの民をお捨てになり、これに代わる者として、全世界からキリストを信じ受け入れる者を呼び集め、新たに神の民の群れを起こされたのでした。こうして、新約のキリスト教会というものが生まれたわけです。

教会は神の教会

教会というと、人が立てた人の教会と考えられがちですが、教会はじつは神がお建てになった神の教会であることを正しく認識することが大切です。その根拠となるのが、聖書のつぎのお言葉です。
イエスが弟子たちに対して「あなたがたはわたしをだれだと思うか」とお尋ねになりましたが、そのときペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えています。これを聞いてイエスはたいへんお喜びになり、つぎのように仰せになりました。
「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイによる福音書一六ノ一八、一九)。
これによれば、教会は信者が自分たちの意思や都合で建てたものではなく、神ご自身が、神のご意志とご計画によってお建てになったものであるということがわかります。言い換えますと、教会は人間による人間の教会ではなく、神による神の教会であるということです。

教会は可視的なものか不可視的なものか?

これについては、二つの面があります。
教会は、聖書において人体に例えられています。人体は肉と霊とからなっています。
教会もそれと同じように、目に見えない生命体と目に見える形体とからなっているのです。
これについて、教会の霊的指導者であるエレン・ホワイトは次のように説明しています。
「地上にある神の教会は、天にある神の教会と一つであります。地上の信者たちは、天に住む者と共に一つの教会を組織しています。すべての天の聖者たちは、神を拝むために集う聖徒の集会に興味を持っています。彼らは天の内庭で地上の外庭にいるキリストの証人のあかしに耳を傾けています」(教会への証第六巻三六六ページ)。
可視的教会と不可視的教会との関係について、これはまことに厳粛かつ感銘深い説明といわねばなりません。人体は肉体と精神とからなっていますが、この二つは一体であって分離することはできません。そのように、教会も可視的教会と不可視的教会とは一体であって、これを切り離して考えることはできません。
ところが、キリスト者の中に、教会はほんらい不可視的なものであって、可視的な教会はかならずしも必要ではないと考える人もいるようです。しかしそれは、聖書に基づく正しい考え方といえるでしょうか。

なぜ目に見える教会が必要なのか

キリストを信じる者が自分ひとりなら、教会は必要がないということになりましょう。しかし、信者が数人またそれ以上になれば、当然交わりが必要になり、それは群れとして存在することになります。この群れがすなわち教会にほかならないのです。しかも、その群れが大きくなればなるほど、まとまりを保っていくためには、メンバーの組織立てが必要になります。
例えば、初代のクリスチャンたちは、各家ごとに集まりをもっていました。これは家の教会と呼ばれています。それは必ずしも組織立てられてはいなかったと思いますが、共同で礼拝をなし、共に交わりをもっている以上、やはりそれはいちおう教会のかたちをなしていたといえます。
しかし、その家と家との連携が生まれ、その連携を緊密に保って行くためには、やはり指導者や組織が必要になります。こうしてユダヤの諸教会、マケドニヤの諸教会、コリントにある神の教会、ローマにある教会、ガラテヤにある教会、アジアの諸教会等と呼ばれるようになっていきましたが、これでみても、家の教会自体においても、家の教会間の連携においても、しだいに組織化が進んで行ったものと思われます。

教会の組織・形態

ここで先ず、教会の成り立ちを考えてみることにしましょう。
教会は、どのようにして成り立ち、存在しているのでしょうか。

一、外的形態
教会の組織には、現行四種の形態があるように思われます。
1、法王制教会の最高決定権は、キリストの代理と称する法王にあるとする。(カトリック教会)
2、監督制教会の最高決定権は、監督の会義にあるとする。(聖公会・メソジスト教会など)
3、独立制教会の最高決定権は、各教会の独立自治によるとする。(会衆派教会)
4、代議制教会の最高決定権は、各教会選出の代議員による総会議にあるとする。(セブンスデー・アドベンチスト)

このなかの代議制について、もう少し詳しく説明しますと、
まず組織としては、個々の信徒が集まって教会が形成されます。その個々の教会が集まって教団が構成されます。さらに、それらすべての教団を一つにまとめて、これを世界総会と呼び、これが全組織の頂点となっています。
行政においては、個々の信徒が教会の役員を選び、各教会が教団の役員を選び、さらにその教団が世界総会の役員を選びます。こうして選ばれた役員によって理事会が構成され、教会・教団・世界総会は、それぞれの理事会に行政の実務を委任するという形になっています。
この代議制こそは、教会行政のもっとも民主的な在り方といえましょう。

二、内的本質
教会の本質は、たんなる人の集まりにとどまらず、人と神とのつながりを根幹とする集団です。
「御子は、見えない神のかたちであって、・・・自らは、そのからだなる教会のかしらである」(コロサイ人への手紙一ノ一五、一八」。
「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(コリント第一の手紙一二ノ二七)。
これらの聖句によると、キリストは教会のかしらであり、教会はキリストのからだであり、信者はその手足である、ということになります。これを木にたとえるなら、キリストは幹であり。教会は枝であるということもいえます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネによる福音書一五ノ五)。
そうすると、教会は、キリストと信者の霊的結合体ということになり、その意味で、教会は一種の有機体(生きたからだ・生命体)ということにもなるわけです。
したがって、教会はキリストを離れては生ける教会たりえず、反対にキリストも教会なしには、この世に生きて働くことがおできにならないわけです。われらは信仰においては、キリストにつらなり、実践においては教会を通して生活し、活動する。これが教会の本質です。
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書一八ノ二○)。
いずれにしても、こうした集まりの組織化されたものが、聖書のいう教会なのです。

教会の使命・任務

では、教会の使命また任務は何なのでしょうか。

一、対内的には
「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みよって起こる様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」(エペソ人への手紙四ノ一二〜一五)。
1、偽りの教えから教会員を守る。
2、教会員の信仰の成長と品性・霊性の聖化を助ける

二、対外的には
「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の努をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることはしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」(コリント人への第二の手紙五ノ一八、一九)。
「このみ国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイによる福音書二四ノ一四)。

1、キリストの十字架とその意味を告げ知らせることによって、この世を神と和らがせる。
2、福音を全世界に広める責任を全うするために教会を組織化して、働きの伸展拡大をはかる。

教会は果たして必要か

教会は、われわれの信仰と救いのために、果たして必要なものかどうかについて、相反する二つの異なった考え方があります。

1,教会はわれわれの信仰と救いに必要ではない
教会は不完全な存在であり、誤りも多くある。したがって、われわれの信仰に必要でもないし、それに頼るべきでもないと、ある人は言います。
たしかに教会は完全でもないし、誤りもある。しかしそれは、教会を否定すべき理由とはならないのです。
教会は、罪人の集まりなのですから、不完全であるのは当然です。しかし、イエスはこのようにおっしゃっています。
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書九ノ一三)。
教会は、このようにしてキリストのもとに集められた者たちの群れである以上、その教会が不完全であるからといって、その存在までも否定するということは、神のみ旨とは思われません。
たといわれわれが、心で神を信じていても、それだけで神につながっているとはいえません。われわれが真に神に結合するためにはどうしたらよいのでしょうか。
聖書には、キリストは教会のかしらであるといわれています。教会はキリストのからだであり、われわれ信者はその肢体であるとあります。手足はあたまに直接つらなるわけにはまいりません。手足があたまにつらなるためには、どうしてもからだにつらなる必要があります。それによってはじめて、手足はあたまに結合することになるのです。
それとおなじく、教会の手足である信者は、教会のかしらであるキリストに直接つらなることはできません。
なぜなら、キリストはいま天におられて、地上のわれわれには目にみえない存在だからです。そのため、このキリストにつらなる者となるためには、キリストのからだである教会に、手足としてつらなる必要があるのです。
われわれの信仰や救いに、教会は必要がないという人は、あたかも、手足はあたまに直接つらなればよいのであって、手足があたまにつらなるのに、からだの必要がないといっているようなものです。それは暴論というほかありません。

2、教会はわれわれの信仰と救いに必要である
教会は不完全ながらも、神の教会です。神はこれを必要とされてお建てになったのです。
「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイによる福音書一六ノ一九)。
教会は、天の神がこの地上に設置された大使館ともいうべきものです。大使は外国に対して本国を代表する存在です。大使は、本国の決定を代行する機関なのです。
それとおなじように、教会は地上における神の政府の代行機関なのです。教会は、この地上に対する神の決定を代行する権限を与えられています。
具体例をあげますと、教会がある人を教会員として受け入れるならば、その人は天においても神に受け入れられたことを示すものであり、反対に、教会がある人を除名するならば、その人は天においても神に拒まれ、捨てられたことを示すことになるのです。(ただし、これには例外もあります。宗教改革者マルチン・ルターは、教会から破門されています。しかし、神は彼を受け入れておられたのです。どこに問題があったのでしょうか。これは、教会の決定が天国の鍵を用いてなされたものではなかったことにあります)。
「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった「聖霊を受けよ。あなたがたが許す罪は、だれの罪でも許され、あなたがたが許さずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネによる福音書二○ノ二一〜二三)。
ただし、それには条件があります。それは、教会の決定は、神から与えられたかぎを用いてなされなければならないということです。そのかぎとはなんでしょうか。それは神のみこころの啓示である聖書です。
教会が聖書に基づいて行なう決定は、神の決定の代行となりますが、聖書に基づかない決定は、神の決定の代行とはなりえないということなのです。

教会の希望

ところで、この教会には神から輝かしい希望が与えられています。
教会はこの地上において、あまりにも小さく無力な存在です。世人の目には、ほとんどなきにひとしい存在かも知れません。しかし、神の御目には、それとは全く異なる存在とされているのです。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたの神がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中から甦らせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ人への手紙一ノ一七〜二三)。
ここに、神の世界観が示されています。神のお考えの中にある世界の構造はつぎのようなものです。

神—キリスト—教会—万物

これによれば、教会はキリストのからだであり、しかも万物の上におかれています。教会は神と万物をつなぐ媒介としての役割を担う存在とされています。これが、ほんらいあるべき真実の世界の原型であり、神のみ旨の中に描かれている構想なのです。
しかしこれは、いまはまだ隠されていて、人の目にはさやかではありません。これは、たとえていえば英国にみられるシャドー・キャビネット(影の内閣)のようなものです。いずれまもなく、政権交代のときがまいります。というよりは、むしろ大政奉還というべきかもしれません。
サタンに代わって、神がこの世を統治なさるときがくるのです。そのときがくれば、教会のかしらなるキリストが万物の王であり支配者であられることを、誰もが認めるようになるのです。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至まで、しかも十字架の死に至まで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、またあらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ人への手紙二ノ六〜一一)。
このように、教会の希望は地上にかぎらず、地上の歴史を超え、永遠に連なる輝かしい希望を与えられているのです。
また聖書は、この希望をキリストと教会の結婚にたとえています。
「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、
『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、
王なる支配者であられる。
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。
小羊の婚姻の時がきて、
花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、
汚れのない麻布の衣を着ることを許された。
この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである』。
それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。またわたしに言った、『これは神の真実の言葉である』」(ヨハネの黙示録一九ノ六〜九)。
ここに記されている婚宴の花婿はキリストであり、花嫁は教会のたとえです。
「キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救い主であられるように・・・キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」(エペソ人への手紙五ノ二三〜二七)。

むすび

イエスは、宣教を開始するに当たって「天国は近づいた」と宣言され、また「神の国は実にあなたがたのただ中にある」とも言われました。
天国また神の国というのは、神の支配という意味なのです。世に福音が伝えられるとき、これを信じる人々が神に従うようになります。その結果、神の支配がはじまる、それが天国であり、神の国なのです。
これは、いまは目に見えない霊的な形の存在です。しかし、ときがくれば目に見える具体的なかたちで実現することになっています。前者は恵みの王国、後者は栄光の王国と呼ばれています。
前者の恵みの王国、これがすなわち教会なのです。教会は卵に例えることもできましょう。その本体は隠されていて目に見えないとはいえ、いますでに、ある形をもっています。それが教会なのです。
これは予型的な意味を持つ象徴的存在であって、いつかやがての日に、実体的な存在に変貌するのです。卵が孵化することによって鶏になるように、いま卵の形で存在する教会は、やがて世の終わりに変貌し、新天新地における神の都となるのです。それが栄光の王国なのです。いいかえれば、教会は神の都の卵であり、ひな形なのです。

要点の確認

  1. 教会とは、神に呼び出され、神のみもとに召し集められた者たちの群れをいう。教会は、たんに人が自らの必要にせまられて作った人の組織ではなく、神の権限と命令によって設立された神の教会なのである。
  2. 教会には、不可視的面と可視的面の両面がある。不可視的教会とは、キリストをかしらとし、信者をその肢体とするキリストのからだであって、生きて存在する、いわば有機体なのである。可視的教会とは、目に見える形に組織された信者の集団のことである。
  3. 教会の使命・任務はなにか。対内的には、信者の信仰と霊性の成長をはかると同時に、間違った教えや、さまざまな惑わしから信者を守る。対外的には、十字架の福音を伝えることによって、人々を神に立ち返らせる。いわば、世を神と和解させる、そのつとめを神から委ねられている。
  4. 教会は、神がこの世に設置された大使館のようなものである。教会は神の政府の代行機関としての役割を担っている。そのために、天国のかぎを授けられている。このかぎは聖書である。これによってなされる教会の決定は神の決定の代行となる。
  5. 教会には、輝かしい希望が与えられている。聖書はキリストを花婿に、教会を花嫁に例えている。花婿なるキリストは、まもなく花嫁なる教会を迎えにこられる。これが世の終わりに起こると預言されている、キリストの再臨なのである。
  6. 教会は、天国と神の都の予型であって、これが実体そのものに変貌するとき、それが新天新地(栄光の王国)の出現となり、神の都となるのである。