第28課 三天使の使命

はじめに

この「三天使の使命」というテーマは、聖書教理の中で十字架につぐ重要なものです。十字架は、聖書の教えの中心となる教義であるのに対して、三天使の使命は、聖書の教えを完結するメッセージであるからです。
いったいこのメッセージは、いつの時代に適合するものなのでしょうか。これは、神がこの世界に送りたもう最後の警告であり、勧告なのです。すなわち、神の救いのみわざを完成するために、まもなく再臨されるキリストをお迎えするために、われわれはどのような備えが必要かを教え示すメッセージです。その意味で、これは別名「現代の真理」また「現代へのメッセージ」ともよばれています。
これは、きわめて重要な教えであるだけに内容も豊富で、これを詳述しようとすれば、五課か六課に分けて説明しなければならなくなります。そうなるとページ数のかぎられたこの本には、とても収めきれなくなりますので、残念ながら、このテーマについては、一課目に圧縮して、要点を箇条書き的に簡略に説明するにとどめさせていただきます。(本格的にお学びになりたい方には、追って関係資料を紹介させていただきます)。

「三天使の使命」の前提となる基礎的真理

この「三天使の使命」について学ぶためには、その前提として幾つかのことを学ぶ必要があります。「二千三百の朝夕」と称される預言、ならびに、それと密接に関連する旧約時代の「聖所の奉仕」にかんする教えなどです。

一、「二千三百の朝夕」の預言
これは、紀元前六○○年代、バビロンに捕囚となっていたユダの民ダニエルという預言者が、神から異象によってあたえられた預言です。
その異象の中に、最初に羊が現れ、その後に山羊が現れています。これはバビロンにつづくペルシャとギリシャを預言的に示すものでした。この山羊には四つの角があって天の四方にのびていきましたが、その角の一つから別の小さな角が出て来て、みるみるうちに大きくなり、神に敵対し、神の聖所を踏み荒らす光景をダニエルは見せられたのでした。
そのとき、二人の聖者が幻の中に現れ、一人が他の一人に訊ねています。
「常供の燔祭と、荒らすことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。
これに対して、他の聖者がつぎのように答えています。
「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」(ダニエル書九ノ一四)。
この異象によって、神の聖所が踏み荒らされることを告げられたダニエルは、驚きのあまり疲れ果てて、病の床に伏してしまったようです。そのため、この異象はやむをえず中断されたようです。
数日ののち、ガブリエルという天使が彼にあらわれ、先の異象について詳しい説明をしてくれています。それによると、この二千三百日のうち、最初の七○週が切り取られ、ユダヤ人のために恩恵期間として与えられる。その七○週の中に、七週と六二週とあり、その後にメシアがあらわれる。だが、彼は一週の間ユダの民と救いの契約を結ぶが、その週の半ばにこのメシアが断たれる、というのです。
いったいこれは、どんなことを意味する預言なのか、ということですが、聖書によると預言の年代は、一日を一年として数えるようにという聖句があります。(民数記一四ノ三四、エゼキエル四ノ六)。
そうすると、ダニエルが異象によって示された二千三百の朝夕というのは、二千三百年という長期間に関わる預言ということになります。いったいこの期間はいつから始まるものなのか、ということですが、天使はダニエルに対して「エルサレムを建て直せという命令が出てから・・・」(ダニエル書九ノ二五)と説明しています。

二、この預言は何を意味していたのか
当時、ユダの民はバビロンに捕囚となっていましたが、このバビロンが後にペルシャによって滅ぼされました。そのため、ユダの民はそのままペルシャの支配下におかれるかたちとなりました。
ところが、神はこのときから二○○年も前に、預言者エレミヤによって、ユダの民の捕囚期間は七○年であると告げておられたのです(エレミヤ書二五ノ一一、一二)。
ちょうどその期間の終わりごろに、神のお告げを受けたペルシャ王から、ユダヤ人に対する解放命令が出されたのです。それは紀元前四五七年のことでした。
それから七週のあいだに、荒廃したエルサレムが建て直され、六二週ののちにメシアが現れるというのですが、これは紀元二七年に当たります。この年にキリストはバプテスマを受けて伝道の公生涯にはいられたのでした。
それから一週(七年)の間、民と契約を結ぶが、彼はその週の半ばに断たれるという預言です。週の半ばといえば、それは紀元三一年になります。この年にキリストは、事実十字架に架けられて殺されているのです。
では、残る三年半はどうなったのでしょう。この期間はイエスが地上に残して行かれた弟子たちによって、ユダヤ人を対象に伝道がおこなわれたのでした。
こうして七○週(四九○年)の終わりは、紀元三四年になりますが、この年に青年伝道者ステパノがユダヤの議会に呼び出され、彼の活動について尋問を受けています。彼はそこでおそれることなく、キリストの復活について証言をしたため、議員らのはげしい怒りをかい、そのために石打の刑に処せられています。
この出来事は、ユダヤ人が国家としてキリスト教を完全に拒否したことを示すものであり、その結果、彼らは神の選民としての特権を取り上げられ、民族としては神から捨てられることになったのでした。
こうして、ユダヤ人を対象とする伝道は打ち切られ、このときから、異邦人を対象に福音が伝えられるようになったのでした。
ところで、この二千三百年という長期間にわたる預言の目的は何かといえば、それは救い主キリストを指し示すことにあるわけですが、われわれはまず、この預言とその成就によって、キリストこそはまさしく神のお遣わしになった救い主であるということを確信することができるわけなのです。
それと同時に、さらにもう一つ、十字架の死後復活し、天に帰られたキリストが、いま天において何をしておいでになるのかということについて、この預言はそれを知る手掛かりを与えてくれるという点で、たいへん重要な意味をもっています。
すなわち、二千三百の朝夕の預言は、聖所の清めについて言及していますが、キリストはいま、天にあるその聖所において、われらのために執り成しのはたらきをつづけておられることがわかるのです。
そして、それについて詳しく知るためには、旧約時代に地上に設けられていた聖所と、そこでの奉仕について調べてみる必要があるわけなのです。
なぜなら、かつて地上に存在した聖所は、現在天に存在する聖所の予型であり、ひながたであったからです。

聖所の清めとは?

この聖所というのは、ユダヤ人がエジプトから救い出されて、神の備え給う地カナンに向かう途中、シナイ山の麓に露営していたとき、指導者モーセが神からお告げを受け、神の指図に従って造ったものでした。
「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてぁなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない」(出エジプト記二五ノ八、九)。
これは、会見の幕屋ともよばれていたように、神が民の中に住み、民が神を礼拝するために設けられたものでした。
この聖所において、民は毎日朝晩小羊を殺し、これをいけにえとして神に捧げ、祭司は民を代表して聖所(前の部屋)で、罪の赦しを祈り求めていました。
この聖所の構造、またそこで行われる奉仕(儀式)の一つ一つが、神の救いの計画とその意味を図示するものであったのです。そのなかでも、とくに重要な意味を持つのは犠牲として捧げられる動物と、神への奉仕者である大祭司でした。
犠牲の小羊は、人類の罪の身代わりとして、十字架に架けられて殺されたキリストを象徴するものでした。また、民に代わって罪の赦しを祈り求める祭司は、いま天の聖所でわれわれ罪人の救いのために、執り成しをしておられるキリストを指し示す予型であったのです。
すなわち、キリストは人類の罪のために犠牲となって十字架の死を遂げられましたが、死を滅ぼして復活されたキリストは、昇天されてのち、天にある前の聖所でわれわれのために、執り成しのつとめを行なっておられたということなのです。
ところで、ユダヤでは年に一度贖罪日というものが定められており、その日(ユダヤ暦の七月一○日)には大祭司が至聖所(奥の部屋)に入り、聖所の清めという、特別のつとめを行うことになっていました。
このときには、民たちが聖所のまわりに集まって断食をし、身を悩まし、たがいに罪の告白をおこなっていたのでした。そして大祭司がつとめをおえて至聖所から出てくるときまでに、罪を告白しなかった者は、民のうちから断たれることになっていました。したがってこの日は、民に取っては裁きの日でもあったのです。
すなわち、預言者ダニエルは、神から示された異象の中で、「二千三百の朝夕(二千三百年)ののちに聖所が清められる」と告げられていますが、この預言期間の開始は紀元前四五七年であり、それから二千三百年後は一八四四年になるわけです。
この年、とくに贖罪の日(ユダヤ暦の七月一○日、ローマ暦では一○月二二日)というのは、ユダヤ人にとっては裁きを意味する日でしたが、そのように、二千三百年の預言期間の終わり、一八四四年に聖所が清められるというのは、この年に神の裁きがはじまつたことを意味していたのです。
この天における神の裁きが開始されたことを告げ知らせるのが、三天使の使命であり、任務なのです。

三天使の使命とは?

これは、ヨハネの黙示録一四章に記されているものですが、ここに三人の天使が次々とあらわれ、中空を飛びながら、大声で神からのメッセージを叫んでいます。

第一天使の使命

「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝め』」(ヨハネの黙示録一四ノ六、七)。
この第一の天使の布告する神よりのメッセージは、「永遠の福音」といわれています。永遠という以上、この福音はいまに始まったものではなく、遠い昔から伝えられていたものにちがいありません。
では、それがなぜ、いままた改めて、特別に布告されなければならないのでしょうか。それは、神の福音が歴史の途中で曲げられ、歪められてしまっているためです。使徒パウロは、すでに次のように警告していました。
「違った福音に落ちていく」「キリストの福音が曲げられようとしている」「わたしたちが宣べ伝えた福音に反すること」(ガラテヤ人への手紙一ノ六〜八)。
こうしたことが、これまでの歴史の中でたしかに現実となっています。ですから、それをほんらいの正しいすがたに戻す必要があるのです。
この第一天使のメッセージには、ある出来事についての警告と、それに対する備えの必要についての訴えとが含まれています。

一、警告
これは、いまから二千五百年前、預言者ダニエルが異象によって神から示されていた預言、「二千三百の夕と朝」(二三○○年)のおわりに、「聖所がきよめられる」という、換言すれば「神のさばきの時がきた」という告知です。

二、備えの必要
これは「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」という訴えです。福音の中核は、神との関係の正常化ということなのですが、残念ながら、こんにち人々は、神を離れ、神を無視し、人間中心、人間本位の考え方に立ち、自己追求の生き方に終始するようになっています。しかもこれは、一般世人にかぎらず、教会自体がそのような状態に陥っている。こうしたまちがった考え方や生き方を改めて、本来のあるべき正しい姿に戻る必要があるという、これはいわば、神の裁きに対して、人々を備えさせるための神の警告、また勧告のメッセージなのです。
これは、ひとことでいえば、「天地の創造主である神を礼拝せよ」ということなのですが、この「礼拝」とは何か。それはたんに頭を下げることではありません。
真の礼拝には、つぎの三つの要素が備わっていなければなりません。それは、献身と服従と奉仕です。

1、まず献身です。
われわれは神によって造られ、生かされているものです。この事実を確かなものにし、かつその関係を持続するためには、神にしっかりと連なっていることが必要です。すなわち、この神への帰属を明確にすること、これが献身にほかなりません。

2、つぎは服従です。
これは神に連なる方法にかかわるものです。具体的には、神の政府の憲法である律法(十戒)を守ることです。神の民が、神の国の住民であるためには、神の国の憲法を尊重しこれを遵守すること、これは当然の義務であるはずですが、事実はこれが殆どの人びとに無視されています。そればかりか、教会によっても軽視され、なおざりにされてしまっています。
具体的には、十戒の第四条に「安息日を聖とせよ」とありますが、これは天地創造の記念日であり、この日は、神と交わるためにすべての働きを休んで、神への礼拝を守るようにすべきなのです。
ところが、この安息日は第七日となっています。聖書のいう第七日は、こんにちの土曜日にあたります。ですから、かつて神の選民であったユダヤ人は、こんにちも土曜日を安息日として、国全体、民族全体がかたく守っています。
それにもかかわらず、こんにち異教世界はもちろんのこと、キリスト教会自体が、日曜日(週の第一日)を安息日とし、この日に神を礼拝しています。
なぜこうなったのか?これは紀元四世紀に、ローマ法王によってこの日が変更されたためです。理由は、第七日を安息日とするのは、ユダヤ教である。キリスト教は、キリストを拒んだユダヤ教と同じではない。であるから、キリスト教はキリストの復活した日曜日を礼拝日とするのが真にふさわしい、という理由のようです。
しかし、キリストの復活を記念することは自由ですが、聖書になんの根拠もないばかりか、(ということは、これは神のご要求ではないということである)この日を記念しても、それは安息日を守ったことにはならないのです。なぜなら、この日を守ることは、どこまでもキリスト復活の記念であって、十戒第四条の安息日とは何の関係もないことだからです。
そればかりか、実は日曜というのは、太陽を神とする異教世界が、太陽を祭る日としてきた日でした。ですから、日曜日は太陽礼拝(偶像礼拝)のシンボルでもあるのです。
したがって、この日を安息日とし、この日に神を礼拝するということは、天地の創造主なる真の神にたいする冒涜的行為ということにもなるのです。なぜなら、それは聖書の神を偶像の神と混同することになるからです。

安息日は神の印

それにしても、なぜそんなにも日そのものにこだわるのかと、これを疑問に思われる方があるかもしれません。しかし、じつは日曜日が太陽の神のシンボルであるように、第七日(土曜日)は天地の創造主なる神のシンボルなのです。いや、シンボルどころではない、神の印とされているのです。
「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記二ノ一〜三)。
ところで、この安息日が神の印である理由はなにか、ということですが、神の印とは、神のものとそうでないものとを区別するなんらかの目印となるものを意味します。いいかえれば、天地の創造主である神とその他の者とを区別し、識別できるしるしとなるものです。それはなんでしょうか。
そもそも印には、つぎの三つの要件が備わっていなければなりません。印鑑でしたら、その人の固有名と、職権と、職権のおよぶ範囲、です。たとえば、わが日本の統治者の場合、菅直人という固有名、それに内閣総理大臣という職権、さらに、その職権の及ぶ範囲すなわち日本国という領域の明示が必要です。
神の印の場合、固有名はヤーウェ(主)、権威は創造主(支配者)、範囲は天と地と海と水の源(全宇宙・森羅万象)、この三つが備わっていなければならないわけですが、われわれは、どこに、何に、それを見出すことができるでしょうか。それは神の政府の憲法である十戒の中にこれを見出すことができるのです。すなわち、第四条が、まさにそれにあたります。
この第四条こそが、この律法を定めて遵守を命じておられる神と、それ以外の神々とを区別する、唯一の印となる戒めなのです。すなわち、この第四条は、律法の制定者は天地の創造主であることを明示しています。
さらに、神の民にとっては、これを守ることが、われわれが信じてしたがつている神は、天地の創造主であって、それ以外の神ではないことをあかしする唯一の証拠、また印となっているわけです。
ですから、聖書にこう記されています。
「あなたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。それゆえに、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。・・・ゆえにイスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである」(出エジプト記三一ノ一二〜一七)。
「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。・・・
主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることをあなたがたに知らせるためである](エゼキエル書二○ノ一二、一九)。
すなわち、この安息日の戒めは、たんに神の印であるというにとどまらず、神と神の民とのあいだの契約の印であるというのです。
安息日がこのようなものであるとすると、神への信仰は心の問題なんだから、日にこだわるのは、あまりにも形に捕われすぎた形式的信仰ではないかという批判は、事の本質を見誤った、まちがった指摘といわねばなりません。
ところで、これほど重大な意味を持つ安息日のいましめが、こんにち変えられており、正しく守られていないということは、神と人間とをつなぐ、紐(生命線)が断ち切られているということであり、これはとりもなおさず、神の民を自称する者までもが、神への帰属を拒み、その絆を放棄しているということにもなるわけです。
ですから、キリストの再臨をまぢかに控え、神の最終的審判がすでに開始されたこんにち、人類が改革すべき最重要課題は、聖書に基づく正しい安息日を守るようにすることなのです。
それにしても、安息日の戒めはやはり印であって、それは目に見えない信仰の、目に見える象徴にほかなりません。それは国旗や軍旗、また帽章のようなものです。これはその人が、どこの国の人か、どこの学校の生徒かを示す印となるものですが、大事なことは、その人がほんとうに国旗の示すとおりの人かどうか、帽章が示すとおりの生徒かどうかにあるわけです。
信仰についていえば、第七日安息日を守ることによって、その人がどんな神を信じて従っている人なのかを示す印となっているわけですが、問題は実質的に天地の創造主なる真の神に、その人が帰属する者となっているかどうかです。すなわち、信仰の実質が、その印が示すとおりの信仰かどうか、もしそうでないなら、たんなる形式主義者、いいかえれば律法主義的信仰者ということになってしまいます。
ですから、印は信仰の表明、象徴として大事なものであり、これはおろそかにしてはならないこともちろんですが、それはどこまでも実質としての信仰それ自体の表明であり、それは外的象徴であって、その印には内面において、それに相当する実質がともなっていなければ意味がない。これは改めていうまでもないことです。

3、もう一つは奉仕ということです。
奉仕とはすなわち、神に帰属する者としての任務、また生活の在り方のことです。
これまで曲げられ、見失われていた福音の中核的真理が、二千三百年の終わり、一八四四年から明らかにされ、これが世界に宣べ伝えられているのですが、われわれは神の民として、こうした神よりの真理を世の人々に知らせる責任を担うことも含めて、神に仕えることが神の礼拝者となることにほかなりません。
いずれにしても、この第一天使の使命というのは、こんにちすべての者に対して、天地の創造者なる真の神に対する礼拝への招きが発せられているということであり、そのことを告げ知らせるはたらきというか、運動を意味するのが、第一天使の使命であり、任務なのです。
そして、これが神の裁きにたいする備えとして、いまわれわれのなすべき分であるということです。

第二天使の使命

では、第二天使の使命とはなんでしょうか。
「また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者』」(ヨハネの黙示録一四ノ八)。
ここでいわれているバビロンとは何か。このバビロンの起原については、創世記の第一一章に記されていますが、要は人間が神の救いの計画を無視し、神を除外して、人間を中心とし、人間が主体となって、救いを達成し、これを実現しようとする企てを言い、そのための努力の結集を意味しています。バビロンという語自体、それはばらばらの状態、混乱を意味します。
なぜそうなったのかといえば、それは彼らが、みずからの上に神の怒りを招くようなあやまった思想や教えに惑わされた結果にほかなりません。こんにち世界は、神のみ旨とは無縁の考え方によって、政治が行われ、さまざまな営みや生活がなされています。
ことに、教会自体、神の啓示である聖書から外れた教えを説くことにより、それによって、人びとが惑わされ、また毒されていますが、その結果、神から見捨てられ、失われようとしているという宣告のメッセージです。
「大いなるバビロンは倒れた」とある。バビロン、これはたしかに、大いなる力と勢いを示していよう。しかし、聖書を歪曲し、神を無視し、神から離脱した組織なり運動なりは、けっして成功しない。そればかりか、幹から切り離された枝のように、命がないので、もうすでに倒れた存在となっているということなのです。
そして、それを告げ知らせるのが、第二天使の使命なのです。

第三天使の使命

では、第三天使の使命というのは、どんな意味を持つものなのでしょうか。
「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、『おおよそ獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』」(ヨハネの黙示録一四ノ九〜一二)。
これは、第一天使の使命を拒否し、第二天使による「倒れた」という宣告を受けた者は、最後にどういう結果を招くことになるかということを警告するメッセージです。
獣とは、聖書においては、神に敵対する地上の政治権力を指しています。すなわち、獅子はバビロン、熊はメド・ペルシャ、豹はギリシャ、地上には見あたらないような恐ろしい獣はローマ、それに小羊のような角を持つ獣はアメリカを象徴しているのです。
獣の刻印とは、神の印と反対の印。ということは、いまはまだ、だれにも理解できないことかもしれませんが、聖書の預言によれば、やがて近い将来、日曜休業令というものが施行されることになります。これは、新教国アメリカが旧教の法皇権を支持し、これに協力する形で実現を目指すことが、黙示録一三章に預言されていますが、いまアメリカは現実に、着々とその準備をすすめています。すなわちそれは、宗教的信条が政治の力によって律法化され、人々に強要されるようになると預言されているのです。
そのときがくれば、それに従う者は、額と手にこの獣の印を受けることになるのです。獣の印は、神に敵対する政治勢力の印なのですから、この印を受ける者は、その結果としてどのような刑罰を招くことになるのかという、それを告げ知らせる警告のメッセージが第三天使の使命なのです。

むすび

ただしこれは、やがてそうなるという恐喝的宣告ではなく、そうならないようにしなさいという、神のあわれみの警告であり、それから逃れるために、唯一の避け所であるわたしのもとに来なさいという、招きの声でもあるのです。
「この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。彼は力強い声で叫んで言った。『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた憎むベき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』」(黙示録一八ノ一〜三)。
ちょっと見ると、ここにどぎつい言葉、淫猥な表現が羅列されている感じで、人類全般、ことに神の教会とは、まるで無縁のことが述べられているように思ってしまいがちですが、ここにいわれている姦淫とか酒とかいうのは文字通りのことではなく、比喩的表現なのです。それは真理に対する誤謬、神の言葉に対するサタンの教え、そしてそれとの習合妥協を指しています。
考えて見ますと、この世の思想や信仰はすべて、神の真理と相容れない、むしろ神の教えとは無関係の、それこそ堕落し腐敗した思想に汚染されてしまっています。そして、これこそがあたかも、酒のように人々を魅惑し、泥酔させて、理性も良心も焼き金で焼かれたように、人々をして神の真理に対して不感症・無感覚となり、神の呼びかけに対して無反応の状態に陥れているのが現実なのです。
こういう指摘に対しては、当然、反発を感じる方もおられるかとは思いますが、しかし、これは正直言って、神の御目から見た人間の否定できない実態なのです。そして、このような状態こそは、とりもなおさずサタンの惑わしに、唯々諾々と身を委ねている背信教会の現状であり、その意味でこれはまさしく霊的姦淫にほかならないというべきなのです。
これは神からすれば、愛する人間の、ご自身に対する無節操な裏切り行為であって、到底、目をつむって放置しておくことのできるものではないわけです。そこで神は、次のように訴えておられます。
「わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる』」(黙示録一八ノ四、五)。
彼女というのは、背信思想をまき散らしている背教勢力をさします。こうした思想や教えに惑わされている人々に対して、神は止むに止まれぬ哀切の思いから、「その中から出てくるように」と、悲痛な招きの叫びを挙げておられるのです。
あなたはこれに対して、どのようにお応えになられるでしょうか。
では、この招きに応えようとする者は、どこへ、どうすればよいのでしょうか。それは神の招きに応えた人々の群れに加わることです。これを聖書はエクレシアと呼んでいます。これはギリシャ語ですが「召し出された者」という意味です。すなわち、神の前に呼び集められた者の群れを指す言葉です。
この群れの詳細については、後ほど改めて取りあげることになりますが、いずれにしても、この神の招声は、三天使の使命の総括的結論ともいうべきものであり、神がこの世界にお送りになる最後の警告のメッセージなのです。

  

要点の確認

  1. この三天使の使命は、聖書の教理の中で、キリストの十字架につぐ重要な意味をもつ真理である。
  2. これを知るためには、その前提としてダニエル書八、九章に記されている「二千三百の朝夕」と称される預言を研究する必要がある。そこには、二千三百日(二千三百年)の後に、聖所が清められるとある。
  3. 聖所の清めとは何かを知るためには、イスラエルが神の命にしたがって設けた聖所とそこでの奉仕について調べる必要があるが、そのなかでとくに注目すべきは、大祭司の働きである。彼の奉仕には日ごとの奉仕と共に重要なのは年に一度の贖罪の日のつとめであった。そして、この日は民にとっては、さばきを意味する厳粛な日であった。
  4. 旧約時代に存在したこの聖所とそこでの奉仕は、神の救いの計画の模型であり、それは実のところ、キリストの十字架の死と、復活してのち天に帰られたキリストが、これまで天の聖所において、われわれ罪人のためになさっておられた執り成しのはたらの予型であり、それを象徴的に示すものであった。
  5. キリストは昇天されて、最初、前の聖所で奉仕をしておられたが、二千三百年の終わりにあたる一八四四年からは、至聖所に入られ、「聖所の清め」という特別の奉仕をはじめられた。これは、地上の民にとっては、「神の裁きの開始」を意味する。
  6. 三天使の使命は、この「裁きの時」の開始を告げると共に、これに対して、どういう備えが必要かを知らせるメッセージである。具体的には、天地の創造者なる「神の印」であり、この神と民との間の「契約のしるし」である第七日安息日をおぼえて、この日に「神を礼拝せよ」との招きなのである。
  7. 残念ながら、こんにち安息日は第七日(土曜日)が、第一日(日曜日)に変えられてしまっている。そうした背信の体制に押し流されることなく、そこから離れて神の支配に復帰するようにという招きが与えられているのである。