第27課 安息日の変更について—聖書的根拠の有無

はじめに

これまでの研究によって、神の律法十戒は道徳律法であって不変であること、十戒の第四条安息日の戒めは、聖書に、第七日とあって、これはこんにちの土曜日であることがはっきりしたと思います。
それにもかかわらず、一般社会の休日はもちろん、キリスト教会の礼拝日も、こんにち日曜日になっている、これはどういうわけなのかということですが、これについての教会側の説明はつぎのようなものです。

1、第七日土曜日は、旧約時代の安息日であり、ユダヤ人の安息日である。
2、週の初めの日、日曜日は新約時代の安息日すなわち、クリスチャンの安息日である。
3、その理由は何かといえば、キリストは日曜日に復活された。新約のキリスト教会は、このキリストの復活によって生まれた。であるから、この日を聖なる日とするのは新約の教会にとってふさわしいことである。

しかも、これは聖書に基づくものであるとして、種々の説明がなされています。しかし、聖書を注意深く読んでいくならば、彼らが引用するそれらの聖句は、どれ一つとして、新約になって土曜安息日が日曜日に変わったことを示す根拠となるものではありません。
以下、その一つ一つを検証してみることにしましょう。

安息日が日曜日に変わったとされる聖句

新約聖書の中で、週の第一日すなわち日曜日に関して述べられているところは、八か所しかありませんが、これらの聖句のあるものを、一般の教会は、安息日に関係づけようとします。しかしそれは、いずれもむりな解釈であり、まちがった読み方であることがあきらかです。これから、その一つ一つについて検証してみることにしたいと思います。

1、弟子たちが集まっていたのは?
「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめているとイエスがはいってきて、彼らの中に立ち『安かれ』と言われた」(ヨハネによる福音書二〇ノ一九)。
この聖句は、弟子たちがキリストの復活を祝うために集まっていたことを示すものであるとして、これを聖日の集まりと説明する人がいます。
だが、彼らがここに集まっていたのは、「ユダヤ人をおそれて」とあるように、人目をはばかって潜み隠れていたのであって、イエスの復活を祝うためなどではありませんでした。なによりも、彼らはこのとき、まだキリストが復活されたことを知りませんでしたし、もちろん信じてもいませんでした。
それなのに、どうしてこれが、復活を祝うための集まりであり、日曜日が礼拝日とされていた証拠である、などといえるのでしょうか。

2、礼拝献金ではなく救援金
「聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもその通りにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」(コリント人への第一の手紙一六ノ一、二)。
ここに、「週の初めの日に献金を」とあるところから、初代教会は週の初めの日すなわち、日曜日を聖日とし、この日に礼拝をしていたという説明がよくなされます。
しかし、この献金というのは、当時、生活に困窮していたエルサレムの信者たちに対する救援金のことであって、礼拝献金ではありません。「一週の初めの日ごとに」というのは、パウロが各教会から託された救援金をエルサレムの教会に届ける計画を持っており、彼がその目的を果たすため、エルサレムに向かう途中、教会に立ち寄ったさい、すぐ受け取れるよう、そのときのために毎週たくわえて用意しておいてほしい、といっているのです。
これを、初代教会は日曜日を聖日として、この日に礼拝していた証拠とするのは、いささかこじつけの感じをぬぐえません。

3、聖餐式ではなく送別会
初代教会が、日曜日を礼拝日にしていた証拠として、最も多く用いられるのは、次の聖句です。
「わたしたちは、除酵祭が終わったのちに。ビリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこで七日間滞在した。週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた」「明け方まで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した」(使徒行伝二〇ノ六〜一一)。
ここに「週の初めの日に、パンをさくために集まった」とあります。これを一般教会は聖餐式と解し、バウロたちは、日曜日に聖餐式をし、礼拝をしていたと主張します。そしてこれを、日曜礼拝の正当性を支持する決定的な聖句として、よく引用します。しかし、これもよく注意して読めば、そうした解釈は正しくないことがわかります。
まず、パンをさくこと、これを即、聖餐式であるとすることは、かならずしも当をえていません。なぜなら、当時は安息日にかぎらず、パンをさいて会食することがよく行なわれていたことだからです。(使徒行伝二章)
しかも、かれらがパンをさいて食べたのは夜であることがわかります。聖書の安息日は、日没から日没まで(金曜日の夕から土曜日の夕まで)なのですから、そうすると、昼に安息日礼拝の集まりがあり、それが終わって週の初めの日(こんにちでいえば土曜日の夜)に、この集まりが持たれていた、ということになります。
どうやらこれは、安息日の集まりのあと、翌日出発することにしているパウロ一行のために、教会はあらためて送別会を開き、それが夜中までつづいていたということではないでしょうか。
しかもパウロは「翌朝出発することにしていた」とあるところを見ると、彼は日曜日を聖日としていたわけではないことがはっきりします。なぜなら、当時の信者たちは安息日に旅行することはしなかったからです。

4、「主の日」とはいつのことか?
もうひとつは、「主の日」ということばです。
こんにち、多くの教会は、日曜日を主の日と呼んでいます。そのため、聖日といえば日曜日に決まっているかのように思い込んでいる人がほとんどのようです。その根拠とされているのはヨハネ黙示録一ノ一〇の聖句です。
「ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた」。
この聖句に基づいて、ヨハネは日曜日に神を礼拝していたというのです。しかし、これが礼拝であるという根拠は何もありませんし、第一、ここにみられる主の日が日曜日だとすることにも無理があります。なぜなら、この黙示録が書かれたのは、遅くても紀元九六年、それ以後と考える人はいません。ところが、教会が日曜日を主の日と呼ぶようになったのは、二世紀の終り頃からといわれているからです。
主の日という語が聖書に出てくるのはここだけでほかにはありませんが、これに似た言葉は旧約のイザヤ書五八ノ一三に「わが聖日」「主の聖日」という語があります。しかし、これはじつは第七日安息日を指しています。
新約になってからも、日曜日は「週の初めの日」と呼ばれていて、「主の日」と呼ばれた記録はどこにもみられません。むしろ、三つの福音書には「人の子は、安息日にも主なのである」という言葉がみられますが、これはいうまでもなく第七日土曜日のことなのです。したがって黙示録にある「主の日」という言葉も、日曜日であるはずはなく、むしろ第七日土曜安息日であるとするのが聖書的であり、そのほうがきわめて理にかなった自然な解釈であるということになろうと思います。

日曜日が聖日とされるようになった経緯

安息日というのは、第七日土曜日のことなのです。週の初めの日である日曜日が聖日であるというのは、聖書に根拠はなく、また初代教会の歴史にもそれをうかがわせる形跡は何もみられません。
そうすると、日曜日を休日とし礼拝日とする慣習はいつから、どのようにしてはじまったものなのでしょうか。
キリスト教会が、日曜日を特別な日としておぼえるようになったのは、この日がキリストの復活された日であったからです。弟子たちは、いつのころからか、これまで守っていた天地創造の記念日である第七日安息日のほかに、週の初めの日である日曜日にも、キリストの復活を記念し、たがいに励まし合うために、ひそかに集まりを持つようになって行ったものと推測されます。
ところで初代教会は、ユダヤ教から改宗したユダヤ人クリスチャンと、異邦人の中からキリストを信じて教会にはいってきたクリスチャンとからなっていました。そして、この両者の間にはその背景として、文化的・宗教的考え方や慣習に異質的な相違が存在していました。
ユダヤ人クリスチャンは、律法に対してあまりにも厳格で几帳面な考え方をしており、すでに廃された儀式や慣習にも、依然として強いこだわりを持ちつづけていましたが、異邦人クリスチャンのほうは、その点、古い儀式や宗教的慣習に対しては、かなり柔軟で自由にふるまっていました。
そのうち、ユダヤ教徒のあいだに、国家主義的な動きが出てきて、各地で暴動を起こすようになりました。そのため、ローマ政府はユダヤ教を厳しく弾圧するようになりましたが、クリスチャンに対しては寛大な扱い方をしていたようです。
それもあって、異邦人クリスチャンは次第にユダヤ人クリスチャンを敬遠するようになり、意識的に彼らと距離を置くようになっていきました。しかも、自分たちがローマ政府から、ユダヤ人と同じに見られたくないという気持ちが強くはたらくようになり、意図的に彼らとちがった行動をとるようになったのです。その結果として、最も顕著にみられるようになったのは、聖日の集まりでした。
ユダヤ教や、ユダヤ人クリスチャンは、聖書どおり第七日を厳格に守っています。これに対して異邦人クリスチャンは、もちろん第七日を聖書の命じる安息日として、これまでどおり守りながらも、それは、あまり目立たぬように密かな集まりとなるようにし、もう一つのキリストの復活を記念する日曜日の集まりのほうを、これ見よがしに、おおっぴらに行なうというかたちがとられるようになっていきました。
これはユダヤ主義とキリスト教信仰との違いを際立たせることに、ねらいがあったといってよいわけです。そして、これを強く指導し推進したのはいうまでもなくローマの教会でした。このようにして、二世紀のはじめには、土曜日よりも日曜日のほうがはるかに優るということが、言いふらされるようにもなっていったようです。
古い文献によれば、アレキサンドリアとローマにおいて、日曜礼拝が毎週おこなわれるようになったのは紀元一三〇年ごろであったことがうかがわれます。
もちろん日曜礼拝は、聖書に根拠のあるものではないので、すべてのクリスチャンが土曜日の集まりをやめてしまったわけではありませんでした。
教会歴史家によれば、五世紀頃になっても聖書に忠実なクリスチャンは、日曜日にはキリストの復活を記念するために、土曜日は聖書の命じる安息日として、両方の集まりを守っていたとつたえられています。
このことは、当時多くのクリスチャンはかならずしも、日曜日を土曜日の代わりと考えていたわけではなかったことを示すものでもあります。

日曜休業令の布告

ヨーロッパにおいて、日曜日が礼拝日として守られるようになったのは、六世紀ごろからですが、その最初のきっかけとなったのは、ローマ皇帝による勅令の発布でした。
ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝は、初めキリスト教を迫害していましたが、迫害によってキリスト教を撲滅することはできないことを悟り、キリスト教に対するこれまでの考え方をあらためました。そして彼自身、キリスト教に改宗したのですが、それは政治的な目的を動機とするものでしたので、それによってキリスト教に寛容な政策をとるようにはなったものの、自分としては、異教の信仰や慣習を依然として持ち続けていたようです。
彼は紀元三二一年に、日曜休業令というものを定めていますが、それは次のような内容のものでした。
「都市に住むすべての行政官、すべての市民は、尊ぶべき太陽の日に休業し、すべての職場を閉鎖せよ」
これは日曜日に仕事をすることを禁じる法令ですが、理由は聖書や十戒にもとづくものではありませんでした。それどころか、この日は「尊ぶべき太陽の日であるから」というものでした。
日曜日はもともと、ローマにおいて「太陽の神を祭る日」として尊ばれてきていたもので、太陽のシンボルである日曜日には、いっさい仕事をはなれて休日とするように、というものでした。
これに対して、キリスト教会はどのような反応を示したでしょうか。日曜日を礼拝日とすることは、とても好都合となった半面、土曜日を守ることはきわめて困難になりました。週に二日も仕事を休まなければならないからです。
紀元三六四年ラオデキヤ会議が開かれた際、教会は日曜休業に関して、次のような決議をおこないました。
「クリスチャンはユダヤ化して、土曜日を無為に過ごすことなく、その日は働かなければならない。しかし特に主の日(日曜日)を尊び、クリスチャンとして出来る限り、仕事をしてはいけない」。
こうして、聖書に命じられている土曜日の遵守をユダヤ化と称して排斥しながら、この戒めの内容そのものを日曜日のほうに移して、日曜日を安息日として守るようにクリスチャンを指導したわけです。
しかも、ローマ教会は土曜日を断食の日と定め、この日を意図的に、よろこびのない暗い日とするように仕向けたのでした。そのため、土曜日はしだいに人々から敬遠され、軽んじられるようになりました。反対に、教会員は日曜日のほうを、あたかも聖書の定める安息日であるかのように思い込み、この日を聖日とすることがしだいに人々のあいだに定着するようになっていったのでした。

宗教改革時代における安息日

一六世紀になって宗教改革が行なわれたのですが、改革者たちはこの安息日を、いったいどのように考えていたのでしょうか。安息日の戒めそのものは、だれもが重要であることを認めており、それは第七日であることも知ってはいましたが、それにこだわる必要はないとの考え方が支配的でした。
しかし中には、日曜日はキリスト復活の記念日ではあっても、聖書の安息日ではないとして、日曜日を聖日とすることに疑問をいだく人もいたようです。
一五三四年から一五三六年にかけて、三回にわたり、ジュネーブやローザンヌにおいて、宣教目的の討論会が開かれていますが、そのさい教会の聖礼典についても論議されています。このときプロテスタント側は、つぎのように主張しました。
「人間はいかなる聖礼典も教会に持ち込んではならない」。
これに対してカトリック側は、つぎのように反論しています。
「神はユダヤ人に安息日を守れといわれた。しかし教会は、教会に与えられた権威によって、土曜日を主の復活された日曜日に変更した。われわれは、神の命令ではなく、教会の命令により、また教会の定めた律法にしたがって日曜日を守る。神の命令に文字通り従う人は、土曜日を休まなければならない」。
さらに、カトリック側はこのようにも言っています。
「もしカトリック教会が聖書をこえて、聖典を定める権威がないとすれば、プロテスタントはなぜ土曜日を守らないで日曜日を守るのか。聖書の言葉についていかなる変更も認めないとすれば、土曜日を守るべきではないのか」。
これに対して、プロテスタント側は、日曜日に神を礼拝することも、やはり聖書に準拠するものであることを証明しようと試みましたが、成功しませんでした。それを立証できる聖句は、聖書のどこにもないからです。
以上によって明らかになったことは、一六世紀におけるルターらによる宗教改革は、歴史を変える程の大改革であり、はかりしれない重大な意味と価値を持つものではありましたが、しかしそれは、かならずしも完全なものとはいえず、ある意味において、改革の本丸ともいうべき核心的なものが、手つかずの状態に残されてしまっていたともいえます。
なぜなら、神の律法、特に神の権威のシンボルともいうべき、第四条安息日の戒めが人の手によって変更されていたのに、それが見過ごしにされてしまったからです。
これについて、注目すべき事実があります。ルターは改革の基本原理としてつぎのことを標語として、高くかかげていました。それは、「聖書、そして聖書のみ」という言葉でした。
ところが、ローマ・カトリック側の弁護者の一人、ヨハン・エックは「教会の権威」は聖書のそれよりも上位にあるとの論法で、ルターを攻撃したのでした。
「聖書は『安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息日であるから』と教えている。にもかかわらず、教会はその権威を持って、安息日を日曜日に変えた。この点においてあなた(ルター)は、聖書にもとづいていない」。
これほどはっきり指摘されても、ルターとしては、安息日を改革の重要なテーマとして認識し自覚するまでには至らなかったようです。
しかし、あるいは神は、このときルターにたいして「信仰による義(恵みによる救い)」という大改革の使命を負わせられましたが、それ以上の荷を負わせることは控えられたのかもしれません。そしてまた、これはじつをいうと時代の流れからして、まだその時がきていなかった、ということなのかもしれないとも思います。
聖書の預言によれば、この神の権威のシンボル、また印とされる安息日の改革は、地上歴史における最後の改革の働きとして、世の終り、すなわちキリストの再臨直前におこなわれることが、神のご計画であったということも考えられます。これは、ヨハネの黙示録一四章に記されている三天使の使命と呼ばれるものがそれであって、ルターのころは、この真理が宣揚されるときがまだきていなかったということなのかもしれません。
もしそうであるとしたらなおのこと、こんにちのプロテスタント教会はルターの衣鉢を受け継いで、この改革を成し遂げなければならない重大な責任があるということになろうと思います。
ここで、はっきりさせておかなければならない問題の核心は次の点にあります。

1、神によって守るように命じられている安息日は、第七日土曜日である。
2、ところが、こんにちは一般の社会の休日も、教会の礼拝日も日曜日になっている。
3、だが、日曜日を聖日とすることは、聖書に根拠をもつものでは決してない。
4、これはカトリック教会自身が、教会の権威によって神の律法を変更したことによると主張している。
5、したがって、土曜日を守るか、日曜日を守るかは、神の命に従うか、教会の権威に従うかの問題となる。

もちろん一般の方々は、神と教会は一体的なものと思っておられるにちがいありません。ですから、神にしたがうことと、教会にしたがうこととが、対立するものとはだれも考えないでしょう。
しかし、問題は次の点にあります。カトリック教会側が、神の律法を変更したのは、教会が神から与えられている権威によると主張していますが、しかしこれは、聖書にたしかな根拠があるわけではありません。
また、教会の首長である教皇は、地上におけるキリストの代理者であると主張してもいますが、これも聖書的根拠は何もないのです。(もちろんカトリック側は、マタイによる福音書一六ノ一八、一九を根拠にしているが、この聖句の解釈には無理があり、たんなるこじつけというほかはない)。
ここで、カトリックとプロテスタントの基本的信条の相違点というものを明確にしておく必要があろうかと存じます。
両教の信仰の拠って立つ基礎は、どちらも聖書と教会ですが、ではどこがどう違うのかといいますと、カトリックのほうは、教会に最高の権威を置き、(教会の中に継承されている伝承ー言い伝えもその中に含まれる)神の言葉である聖書はその下に置かれています。
ですから、極端な言い方をすれば、教会が決定すれば聖書の教えを変えることもできるということになる。そこまではいかなくとも、すくなくとも聖書の解釈権は教会にあり、その解釈によって聖書の意味を決定できるという立場です。
これに対してプロテスタントのほうは、最高の権威を神の啓示の言葉である聖書に置きます。ですから、教会は聖書の下に置かれ、教会の組織も運営も聖書の教えによって、規定され統御されることになります。
以上が両教の決定的な相違点ですが、どちらの立場が正しいかは、一般の方々には判断が難しいと思われます。ですから、ここでは良い悪いは別として、両教が拠って立つ信仰の基礎的立場の相違というものを念頭においていただくことは、一般の方々にとっても必要なことではないかと思います。

反キリストの登場

ただここで注意したいのは、聖書の次の言葉です。これは神の律法、殊に安息日の変更に関係のある預言のように思われるからです。
「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っている通り、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、裁くのである」(テサロニケ人への第二の手紙二ノ三〜一二)。
詳細な解説は省かなければなりませんが、次の言葉に注意していただきたいと思います。ここに、「神に反抗して立ち上がる者があり、彼は神の宮に座して、自分が神だと宣言する」とありますが、ローマ教皇は、自分はこの地上におけるキリストの代理人であると主張しています。「この不法の者は真理を信じないで偽りを信じるように人々を迷わす」とあります。真理とは聖書の言葉、聖書の教えです。不法とは、神の律法に違反することです。
ここに預言されている不法の者というのは、ローマ教皇によって、文字どおりの成就をみているように思われるのですが、あなたはどう思われますか。
そうすると、カトリック教会が、神から与えられたと主張する「教会の権威」には疑問があり、そうした偽りの権威によって、変更された日曜安息日を、神の聖日とすることにはとうてい同意できません。

安息日の変更に関する聖書の預言

しかも、驚くべきことに、この神の律法が不法の者によって変更されることについても、じつは旧約聖書に預言されていたのです。それは、紀元前五世紀頃にダニエルという預言者によって書かれた預言書です。聖書をお持ちの方は、ぜひダニエル書をお開きになってみてください。
その第七章に、彼が神から見せられた異象が述べられていますが、その中に四つの獣が登場しています。これは地上にあらわれる政治権力を象徴しています。
第一の獣は獅子ですが、これはバビロン帝国の象徴です。
第二の獣は熊ですが、これはペルシャ帝国の象徴です。
第三の獣は豹ですが、これはギリシャ帝国を指します。
第四の獣は、ローマ帝国の預言であることは、歴史的順序からして当然です。
この第四の獣に十本の角がありますが、角は権力の象徴であり、十本の角はローマ帝国が十カ国に分裂することを示しています。じじつローマ帝国は、諸方から侵入して来た蛮族によって十に分割統治されています。
その角の間から「また一つの小さい角が出てきた」とありますが、この角について「見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった」とあります。しかも「彼は先の者と異なり」(二四節)とありますが、これはこの後の方を見れば明らかなように、「先の者」が政治権力であるのに対して、これは宗教権力であることがわかります。これに相当するものは何かといえば、それはローマ法王権がぴったりで、それ以外には考えられません。さて、これがいったい何をするかですが、二五節にこうあります。

「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。・・・聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる」。
いと高き者は天の神様です。聖徒は神の民クリスチャンです。ここに預言されている宗教権力は、神に敵対して言葉を出すとありますが、それは神に対する敵対的な言葉、冒涜的な言葉のことです。彼は聖徒を悩ますというのは、迫害・弾圧を意味します。その期間ですが、ここにある、ひと時、ふた時、半時というのは、同じことを預言している黙示録の一一章と一二章には四二ヶ月また一二六〇日とあり、聖書には、預言の解釈においては、一日を一年と数えるようにとの指示がありますので(民数記一四ノ三四)、それによると、これは一二六〇年ということになります。そのあいだ「聖徒が彼の手にわたされる」とは、「不法の者」の意のままにされるということであり、クリスチャンはそれの完全な圧政下におかれるとの預言です。
では、この預言は歴史上どういうかたちで成就をみているのでしょうか。ローマ皇帝がコンスタンチノープルに遷都したのは三三○年、この時から教会の首長である法王は、ローマ皇帝からヨーロッパの支配権を譲渡されたかたちとなり、やがて反対勢力を屈服させて、絶対的最高権力を掌握したのは、五三八年とされています。それからというもの、法王の命にしたがわないものはみな摘発され、処刑されたのでした。このような恐るべき法王の権力が失墜したのは、フランス革命のときで、それは一七九八年のことです。その迫害期間はちょうど一二六〇年でした。まさに預言のとおりであったのです。
これによってみても、ダニエル書の預言にある小さき角、すなわち不法の者はローマ法王であることは、もはや疑いの余地はまったくないといってよいでしょう。
では、彼は神に対する敵対行為として何をするかです。ダニエル書には、こう告げられています。
「彼はまた時と律法とを変えようと望む」(七ノ二五)。
まず、律法を変えるというのですが、驚くべきことに、彼はたしかに神の律法を変えているのです。すなわち、カトリック教会の十戒には、第二条がなくなっています。(そのかわり、第十条を二つに分けて、数だけは十にしていますが)。その第二条というのは「偶像を造ったり、それにひれ伏したりしてはならない」という戒めです。
なぜこの戒めを除いたのでしょう。それは、カトリック教会が、マリアの像や諸聖人の像を拝んだり、これにむかって祈ったりしているからでしょう。これはあきらかな偶像礼拝であり、神の律法にたいする違反行為です。ですから、彼らにとってこの戒めは邪魔だったのでしょう。
これで問題はかなり明白になったと思いますが、最重要課題はほかにあります。それは「時を変える」という預言です。この「時」というのは十戒に関係する「時」なのですから、これは第四条安息日に関するものであることも容易に推察できます。すなわち、カトリック教会は第七日安息日を、週の初めの日である日曜日に変更しているのです。そのことによって、このダニエル書の預言が文字通りに成就していることになるのですが、あなたはこれをどう思われますか。
ところで、ことの本質をさらにもっと掘り下げて究明してみる必要があります。テサロニケ第二の手紙の二章四節には、この不法の者が「自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」とありますが、いったい法王が神を押しのけて自分を神とする行為というのは何を指すのでしょうか。それは神の律法を変更することです。これ以上に、自分を神よりも高め、自分を神の上におく不届きな行為は、ほかにないといってよいでありましょう。
そうすると、神がお定めになった第七日安息日をないがしろにして、法王が変更した週の初めの日である日曜日に神を礼拝するということは、この日がもともとローマにおける太陽礼拝の日であったことからしても、これは偶像礼拝そのものであり、聖書のおしえからすれば、背信行為であることは否定すべくもありません。
以上のことは、聖書を神の啓示の言葉として、これを唯一の信仰の拠り所とするプロテスタントにとっては、どうにも看過しえない大問題ということになります。じじつ近年になって、それに気付いて心を悩ましていた人がいました。たとえば、有名なバプテスト派の神学者であるエドワード・T・ヒスカック博士は、一八九三年一一月一三日、ニューヨークで開かれた牧師会において、次のように報告しています。
「『安息日を守り、これを聖とせよ』との戒めは、かつてあったし、今でもある。しかし、その安息日というのは日曜日ではない。・・・この問題についての指示を熱心に求めて、私は多年にわたって研究してきたが、そのような変更をどこに見いだしうるかと質問したい。新約聖書の中にはない。絶対にない。安息日の戒めが週の第七日より週の初めの日に変更されたという聖書的根拠は全然ない」。
博士はさらに、「安息日の問題」は、こんにちのクリスチャンを、もっとも困惑させる問題であることを認め、とくに日曜礼拝が太陽神の名において、キリスト教会の内に多神教の印をもってはいって来たことを「惨めな事である」とも言っています。
しかし、これは一般にはあまり知られていないとはいえ、じつをいうと、初代教会から第七日土曜日を聖書の命じる安息日として、これを忠実に守ってきた人々がいました。ローマ法王による迫害時代にも、こうした信仰は連綿と継承されてきていたのです。こうした人々はヨーロッパの各地に散在しており、英国においては、セブンスデー・バプテストという教会がロンドンにありました。
ところで、その教会員のひとりステファン・マンフォードという人が一六六四年にアメリカに渡り、一六七一年に第七日を安息日として守る人々によって、アメリカにもセブンスデー・バプテスト教会が設立されています。
しかし彼らは、一般のクリスチャンからは、なかなか理解されず、容易に受け入れられませんでした。したがって、この教会はあまり目立たず発展もしなかったようです。
たといそうであっても、第七日安息日の遵守が、旧約時代はもちろん,初代教会からこんにちまで、絶えることなく連綿と継承されてきているという事実は注目すべきことであり、これは神の守りとお導きによるものであることを認めないわけにはまいりません。

安息日に関する改革運動の預言

ところで、旧約聖書のイザヤ書五八章一二節には、次のようなことが告げられているのです。
「久しく荒れ廃れていた神の統治の基(律法)が修復され、再興されて、その破れが繕われるようになる」という預言です。律法のどこが崩れ、また破られていたかといえば、いうまでもなく、第四条の安息日の戒めです。
これは、そのあとにつづく一三節、一四節の聖句によって明らかです。
この神のお約束が成就し、実現するのは、いっ、どのようにしてでしょうか。一八四〇年代になって、聖書の預言に注目が集まり、期せずしてキリストの再臨運動というものが世界各地に興っています。
米国では、バプテスト教会のウイリャム・ミラーという牧師によって、この運動が全米に波及し、このメッセージを受け入れた人々が、これまで所属していた教会から出てきて、あらたな一つの群れが構成されました。
ところが、キリストの再臨を待望するこの群れと、第七日安息日を守るセブンスデー・バプテストとが、不思議な機縁で接触し、お互いの信仰を相手に伝え合うことになりました。その結果、キリストの再臨を待望する人たちの多くが、第七日安息日を守るようになり、こうしてセブンスデー・アドベンチストという団体が生まれたのです。このキリストの再臨と第七日安息日の真理とは、密接な関係があり、不離一体の真理と言っても過言ではありません。というのは、第七日安息日は、キリストの再臨のときに実現する永遠の大安息の地である新天新地のひな形であり、この永遠の大安息の象徴、また予型でもある第七日安息日の真理は、キリストの再臨を迎えるための備えとして、どうしてもすべての人に周知徹底させなければならない、きわめて大切な使命なのです。なぜなら、神はこの安息日について次のように仰せになっておられるからです。
「主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」(エゼキエル書二〇ノ一九、二〇)。
すなわち、安息日の戒めは、神の側においては、これが天地を創造した真の神であることの証拠また印であり、
神の民の側においては、自分たちは天地を創造した方を真の神として、信じかつ従っている者であるという、その証拠またしるしとなるものなのです。
言い換えますと、第七日安息日は神と神の民との間の代々にわたる印となるものであるということなのです。
ところが、再臨のメッセージは、いまプロテスタントのほとんどの教会がこれを受け入れ、熱心に宣べ伝えています。また、第七日安息日を守り、これを宣べ伝えている教会も少数ながら、あるにはあります。
しかし、この両方を一体のものとして宣べ伝えているのは、このセブンスデー・アドベンチストという団体だけなのです。そしてこの団体は、じつは再臨使命とともに安息日の真理を述べ伝えることによって、急速に成長し、いまや世界的な規模で発展しつつあります。これはまさに、イザヤ書五八章の預言の成就にほかなりません。この再臨と安息日の真理こそは、世界歴史の最終時代において、すべての人々に宣べ伝えなければならない、神よりの最後の警告のメッセージ、救いへの招きのメッセージなのです。

要点の確認

  1. こんにち日曜日が聖日とされており、これは聖書に基づくものとして引用される聖句がいくつかある。しかし、これはいずれも安息日が第七日から第一日日曜日に変えられた証拠とするのにはむりがある。
  2. キリストが復活されてのち、クリスチャンは第七日安息日のほかに、キリストの復活を記念し祝う意味で、週の初めの日にも集まりをもつようになった。
  3. ユダヤ人はしばしば反政府目的の暴動を起こした。そのため、ローマ政府から厳しく扱われるようになった。クリスチャンは彼らのユダヤ主義を敬遠し、彼らと同じに見られたくないという気持ちから、第七日安息日は密かに集まり、キリストの復活を記念する第一日、日曜日の集まりを公然とおこなうようになった。
  4. 紀元三二一年、ローマ皇帝は日曜休業令を発布した。太陽の神を祀る日であるから仕事を休めとの命である。これに合せて、教会もラオデキヤ会議において、土曜日には仕事をし、日曜日を聖なる日とするよう定めた。
  5. 宗教改革者たちはカトリック教会によって、変更された日曜日を踏襲していた。聖書を唯一の依拠とするプロテスタントが、日曜日を聖日とするのは矛盾だと、カトリック側から逆襲されたが、改革までには至らなかった。
  6. 旧約聖書には、不法の者が現れ、神の律法を変えようとすると預言されている。しかし、変更された安息日を回復する運動が起こることも預言されている。ローマ法皇による迫害下においてもなお、第七日を守りとおした人々がいた。一八四〇年代に預言の研究がさかんになり、キリストの再臨を信じる人々の群れができた。
  7. この両者の接触と交流によって、再臨と安息日とを一体の真理とするセブンスデー・アドベンチストという団体が生まれた。この団体によって再臨と第七日安息日の真理が、いま世界中に宣べ伝えられている。