第24課 安息日の意義

はじめに

神の律法は、十ケ条からなっていますが、その第四条が安息日に関する戒めです。これはいったい、どういう意味を持つ戒めなのでしょうか。それを考えるにあたって、まずこの戒めが制定された由来について見てみたいと思います。
聖書によると、神はこの世界を創造されたとき、時と季節を定め、それと同時に、七日を一区切りとする週制度をもうけられました。そして、六日間で万物を創造し終わり、第七日目に休まれたとあります。しかも、神はこの日を、天地創造の記念日として、祝福し、聖別された、と聖書は告げています。
こうして、神によって制定された安息日の戒めを、アダムとエバは堕落以前からずっと守ってきていたと思いますし、彼の子孫も、神を信じてしたがう人々は、アダムにならってこれを遵守してきたのでした。
しかし、人類が増え広がるにつれて、多くの人は神から遠ざかり、それにつれてこの安息日もしだいに忘れられていったようです。
そうしたなかにあって、アブラハムとその一族だけが、かろうじて、この神への信仰を保っており、安息日の戒めも守り続けていたのでした。
ところが、ある事情から、このアブラハムの子孫であるイスラエルの民が、四百年という長い間エジプトの奴隷となり、そのあいだに、彼らもまた神を見失い、安息日の戒めもいつのまにか忘れ去られてしまいました。
しかし、奴隷の苦役に堪えかねたこのイスラエルの民の叫びを聞かれた神は、モーセをエジプトに遣わし、イスラエルの民をその奴隷状態から解放して、約束の地カナンに導かれたのでした。彼らがエジプトを出てカナンに向かう途中、神はシナイ山の上にモーセを召し寄せ、そこで十戒を記した石の板二枚を彼に授けられたのです。そして、その十戒の第四条に、この安息日の戒めがあらためて明記されていたのでした。

安息日とはどんな戒めか

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記二○ノ八〜一一)。
神は、「時」の流れに一週の区切りを設け、そのうちの六日間を人間にお与えになりました。人間は、この六日間を用いて生活のために働き、さまざまな文化的な活動をするように定められたのです。
しかし、第七日目は、神ご自身の日として聖別し、この日をほかの日と区別されました。ですから、この日は人間が、自分のために、かってに用いるべきではなく、神のためにこれを聖く過ごすようにしなければならないのです。
それにしても、この日にはいったい、どんな意味があるというのでしょう。

安息日の意義について

一、天地創造の記念日
「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記二ノ一〜三)。
世には、さまざまな祝日や祭日があります。一般の方々は、安息日もそれと同じようなものと思われるかもしれませんが、両者には比較にならない大きなちがいがあります。
まず第一に、世にある祝祭日は人間によって定められたものであるのに対して、これは神によって設けられた聖なる日であることです。
さらに、人間ひとりびとりに誕生日があって、この日には何か贈り物をしたりして喜び祝います。また家を建てると新築祝いをし、会社には創業記念日があって、それなりのお祝いをしています。国には建国記念日というものが定められていて、国民挙げて仕事を休み、お祝いをします。
ところが、この安息日は、一家、一市町村、さらには一国の記念日などとは比較にならない、それよりはるかに大いなる意味を持っています。すなわちこれは、個人的、国家的なものにとどまらず、世界的、宇宙的な意味を持つ、建国の記念日なのです。なぜなら、この日は、地球の起源、人類の起源にかかわる、神の創造のみわざを記念する目的で定められた祝日であるからです。
神は六日間で、この世界とその中のすべてのものを創造され、そのできたものをごらんになって、「はなはだ良し」とされたと聖書にあります。そして神は、この日を祝福し、聖別することによって、被造物であるわれわれ人間に対し、この日をおぼえて、きよくすごすように命じておられるのです。
いったい、天地創造の記念日であるこの安息日は、われわれの信仰とどんな関係があり、またどのような意味をもつものなのでしょうか。
われわれ人間は、この日に仕事を休み、教会に集まって聖書を学び、お祈りをし、神を讃美する。すなわち、この日に神を礼拝することによって、神との交わりのときを持つ。そして、そうすることにより、
1、この世界は神によって造られ、神によって保たれていることを心に留め、創造主なる神の存在を覚える。
2、人間が神を造ったのではなく、神が人間をお造りになり、これに命を与えて生かしてくださっていること、いいかえれば、われわれ人間は神の被造物であることを想起する。
3、人間の生命とさいわいのすべては、この神から与えられるものであって、人間の存在はすべてこの神に依存すること、われわれは、この神を離れては生きられないものであることを再認識する。
4、われわれ人間は、罪によって神から失われた状態にあるが、その人間がいまなお、神との関係をたもっているのは、この安息日の戒めによるのである。その意味で、安息日の戒めは被造物なる人間を、造り主なる神にむすびつけている、いわば命綱ともいうべきものなのである。
5、しかるにわれわれは、六日間の生活によって、世のわずらいのため心が塞がれ、ともすれば神を忘れ、見失いがちになる。そこで、われわれは神の定めにより、第七日に世俗の仕事から離れて安息し、神を礼拝することによって創造主を覚え、われわれ自身この神の被造物であることを想起する。それと同時に、人間は神を離れては生きられない者であることを自覚し、神との交わりを深めることによって、神との関係を、密にするよう心がける。

安息日の戒めは、われわれがこれらのことを心にとめ、神との関係を、ほんらいのあるべき正しい状態に整えるために、神によって定められた、とても意義深い日なのです。

二、贖罪の記念日
「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守る事を命じられるのである」(申命記五ノ一五)。
神がイスラエルの民をエジプトから導き出された目的の一つは、奴隷状態のなかで忘れかけていた神を、彼らに思い起こさせ、とくに安息日を覚えて、この神を自由に礼拝できるようにするためでした。したがって、この日は彼らにとって、神を礼拝し、神と交わることもできないような、奴隷状態からの解放を記念する日ともなったのでした。そのため神は、イスラエルに対し、彼らが神によって奴隷から解放されたこと覚え、その記念として、この安息日を守るようにお命じになったのです。
しかもこれは、後世の神の民の予型ともなっているのです。すなわち、
1、イスラエルが、かつて奴隷となっていたエジプトは、神に敵対する罪のこの世のひな形となっている。
2、彼らがモーセによって導き入れられた、神の約束の地カナンは、天国のひな形である。
3、エジプトを出てカナンまでの荒れ野の旅は、われわれが入信によって、サタンと罪から解放され、天国に入るまでの信仰生涯の予型となっている。

しかもこの安息日は、こんにちわれわれがキリストによって罪とサタンから解放され、霊的安息が与えられたことの印となるものでもあるのです。
注意すべきは、かつてのイスラエルが安息日の戒めを守るよう命じられたのは、エジプトから救い出されるための条件としてではなかったことです。そうではなく、彼らが神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたことの記念として、これを守るようにというのでした。
こんにちのわれわれも同様です。この安息日の戒めは、救われるための条件ではなく、救われた人が、救われて霊的安息を得ていることのしるし、またその記念として、守るものであるということです。すなわち、これはまだ救われていない人に守ることを求められているわけではないのです。そのような人には、事実この日を守ることは不可能なことでしょう。これは、あくまでも、救われた人が対象であって、事実救われた人にして、はじめてこれを守る気にもなり、またそれが可能ともなるのです。
「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル人への手紙四ノ九〜一一)。
すなわち、救われた者たちにたいして、これを守ることを命じられている理由は、その人が、救われたこと、すなわち罪とサタンの奴隷状態から解放され、霊的安息が与えられたことをおぼえて感謝し、しかもそのことをつねに忘れないようにするためです。それと同時に、これから先、神を忘れ、神から遠ざかり、また背教したり、落後したりして、神から失われることのないようにするためでもあるのです。

三、道徳の基礎
こんにちクリスチャンの中に、この安息日の戒めは、ユダヤ人のために定められもので、新約時代に入ってから、この戒めは廃されていると主張する人々がいます。十戒は不変であることを認めながらも、この第四条だけを廃されたとするその理由は、これは道徳的律法とは見なしえないということにあるようです。
しかし、はたしてそうでしょうか。じつは、この安息日のいましめは、道徳性が認められないどころか、むしろ道徳の基礎をなす戒めでもあるのです。というのは、そもそも道徳の根源は、神との関係にあるのです。ですから、神との関係が正しくなければ、人間は道徳的に正しくあることもできないのです。
かつて、フランス革命は無神論を標榜して社会改革を企図し、国会で宗教排撃を決議したのでした。こうして、「狂信は理性にその道を譲った」と叫んで、人々は理性を神とするようになったのです。
その結果はどうかともうしますと、人間の欲望を統御するものがなくなってしまい、不倫、背徳が横行し、流血の惨事が頻発するようになりました。あわてた政府は、ふたたび宗教自由を認め、これを尊重することにしたといういきさつがあります。
ですから、アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンは「宗教を離れて、真の道徳はありえない」といいました。
元東大総長矢内原忠雄氏も「もし神を認めないなら、道徳は意味をなさなくなる」と言っています。
また、救世軍の山室軍平氏は、「安息日遵守は、社会浄化のために、警官のこん棒よりもはるかに効果がある」と説きました。
たしかに、道徳の退廃は、神を畏れることをしなくなった結果であり、人々が神を忘れ、神を畏れる心を失ったのは、ほかならぬ安息日を守ることをしなくなったためなのです。もしアダム以来すべての人間が、この日を守って忠実に神を礼拝していたなら、だれも神を忘れることはなく、神から遠ざかる者もなかったでしょう。そうすれば、人は道を踏み外すこともなく、したがって、道徳的退廃などは起こらなかったにちがいありません。
このように考えてくると、安息日の戒めは、道徳に関係がないどころか、むしろ道徳の源泉であることが理解されてくるはずだと思います。

四、服従の試金石
「そのとき主はモーセに言われた、『見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう』(出エジプト記一六ノ四)。
かつてイスラエルの民は、エジプトを出てカナンに入るまで、四○年間、砂漠の旅をつづけたのですが、そのあいだ、どうやって食物を手に入れたのでしょうか。
聖書によると、神が天からマナ(天使の食物とされる)を降らせて、彼らを養われたとあります。この場合、まいにちその日必要な分だけ集めるようにといわれていました。ただし六日目には二日分を集めるように、指示されたのです。それは七日目には降らないからだということでした。神はこのことによって、彼らがはたして神を信頼し、従順に神に従うかどうかを試されたのです。
これは、こんにちも同様です。われわれがほんとうに忠実に神に従う者かどうか、それを神は、われわれがこの安息日の戒めをどのように守るかによってはかられるのです。
人類の先祖アダムは、禁断の木の実が、神への信頼と服従の試金石となったのでした。神がこれを食べることを禁じられたのは、この木の実に毒があったからではありません。これは神の絶対主権を認めさせるためのシンボルとしての意味をもつものであったのです。これを食することは神の命に背くことであり、それはとりもなおさず、神の主権の否定であり、また神の主権の侵害を意味することになるのでした。
今日、われらにとって、神の主権のシンボルは創造の記念としての安息日の戒めなのです。十戒の中の他の九ケ条は、道徳的にこれを守らなければならない理由がだれの目にもはっきりしています。だが、この第四条だけは、これを守らなければならない道徳的理由がどうもよくわからない、という人がいます。
しかし、それだからこそ、これは禁断の木の実同様、神の主権を示す象徴でもあり、神への信頼と服従を試みる、いわば試金石ともいえるものなのです。その意味で、これは神の絶対主権の主張を象徴する旗印ともなっているわけなのです。
われわれが神の主権を認め、これを尊重し、これに服するかいなかは、この安息日の遵守によってはかられることになる。その意味において、安息日はこんにちのわれわれにとって、神への絶対服従の試金石ともなっているのです。

五、潔めのしるし
「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである」(エゼキエル書二○ノ一二)。
神はこの世界を創造されたとき、創造の第七日目を、ほかの六日間と区別するために、聖別されたとあります。こうして神は、この日をご自身のものとして、他の日と区別されます。
では、この安息日を守ることは、神がわれわれを聖別することと、どういう関係があるというのでしょうか。
われわれの救いは、行いによるのではなく、信仰による。しかし、救われた者は、罪によって失われた神の像を回復しなければならない。この回復の過程を聖化と呼びます。聖化は罪から清められることであり、それは神の律法と一致し、調和するようになることです。
ですから、救われた者は必然的に、第四条安息日の戒めを守るようにもなるわけです。その結果、この安息日遵守こそは、その人が神のものとなった証拠、またしるしとなるのです。すなわち、この人はわたしのものであると、神は主張される、その主張の理由また根拠となるものなのです。
聖書には、神の民が聖徒とよばれています。聖徒というのは、何も聖人や君子のことではありません。罪がまったくなくなることでもありません。それは、神によって聖別され、神のものとなった人のことをいうのです。
それとおなじように、安息日の遵守は、その人が真に神に献身し、神に受け入れられ、聖別されて神のものとなった人であることを示す証拠、またしるしとなっているのです。

六、契約のしるし
「ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである」(出エジプト記三一ノ一六)。
ながいあいだ、エジプトの奴隷となり、神から遠く離れ、神が先祖にお与えになった救いの約束をも忘れてしまっていたイスラエルの民に、ふたたびそれを思いおこさせ、再認識させるために、神はいまから三五○○年前、シナイ山において、改めてこの救いの契約をかれらと結ばれたのでした。
では、この救いの契約と安息日の戒めとは、どういう関係にあるのでしょうか。安息日は、一方においてこの救いの契約を結ばれる神がどういう神かを示す印となります。というのは、契約書は十戒ですが、第四条を除くほかの九つの戒めは、これを定めた神がどんな神か、必ずしも定かではありません。
ところが第四条によって、この神は天地を創造されたお方であることがはっきりします。したがって、この神と他の神とを区別する唯一の根拠、また印となるものが、この安息日の戒めなのです。
他方、人間の側においても同様、これはいったい、どういう神と契約を結ぶのかを示す印となるのです。
その意味で、契約書が十戒なら、第四条はまさに印鑑に相当する戒めということができます。契約書の条文がどんなに正確で手落ちがなくても、捺印がないなら、その契約は無効です。
安息日の戒めこそは、神が人間とむすばれた契約を有効なものとする、印鑑に相当するものともいえます。したがって、安息日の蹂躙は、救いの契約の拒否また破棄にほかならないということにもなるわけです。

七、再創造の記念日
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する」(イザヤ書六五ノ一七)。
「『わたしが造ろうとする新しい天と新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる』と主は言われる。『新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前にきて礼拝する』と主は言われる」(イザヤ書六六ノ二二、二三)。
この世界は、神の創造になるものであるにもかかわらず、不幸にも人間はサタンの惑わしによって神に背き、いまもサタンの支配に服しています。その結果、この地は罪のために呪われ、荒廃し、人間には争いがあり、生活難があり、病があり、死があるのです。
しかし、神はキリストの十字架によるあがないによって、この世界を堕落以前の状態に回復してくださることになっています。とはいえ、この堕落した世界を元の状態に回復できるのは、この世界を始めに創造された方以外には不可能なことです。したがって、その意味でもこの安息日の戒めは、創造の記念日であると同時に、また神がその回復を約束しておられる再創造の記念日ともなっているわけなのです。
「立って去れ、これはあなたがたの休みの場所ではない。これは汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨な滅びだ」(ミカ書二ノ一○)。
真の安息、永遠の安息は、この地上では達成されません。それが十全に達成されるのは、新天新地においてです。その意味で安息日は、神がその新天新地を約束し保証する、たしかなしるしともなっているのです。

1、安息日は、新天新地の永遠の安息を信じて、これを待ち望む人々の信仰のしるしとなるものである。
2、地上における七日目ごとの安息日は、新天新地の大安息の前味、保証、また入場券のようなものともいえる。
3、さらに、七日目ごとの安息日は、永遠の安息の地である新天新地への一里塚ということもできる。あるいは、ヤコブの梯子の各ステップと考えることもできよう。毎週安息日を覚えるということは、ヤコブの梯子を一段一段と上がるようなもので、時が来れば、自動的に天国に到達するということにもなるのである。
ところで、これはわれわれの信仰生活に、どういう意味をもつことになるのでしょうか。
われわれは、神を信じてのちも、この世には苦難があり、不幸があります。人間は依然として罪を犯し、失敗を重ね、悩みや戦いの重荷を負って労し喘いでいます。そのため多くの人は、打ちのめされた状態で滅入りそうになり、中にはその場に座り込んでしまい、立ち上がる勇気さえ失いかけている人もいます。
もちろん、われわれは七日目ごとに、仕事を離れ、教会に出席して神を礼拝するようになったからといって、いまただちに生活がらくになるわけでもなければ、病気がなおるわけでもない。それどころか、むしろ信仰を持ったための苦しみや悩みというものが、よけいに増し加わるということさえなしとはしないのです。
けれども、これはもうしばらくの辛抱だ。近い将来、主イエスがわれらを迎えに来てくださる。そのときがくれば、われわれはこの世の一切の労苦から解放されて、身も心も軽くなり、自由になれる。新天新地にはもはや苦しみも悩みもないからだ。と、それを思うことによって、神からの慰めと励ましが与えられ、新しい勇気と力に満たされて、再び立ち上がることもできる。
こうしてわれわれは、あらたな希望を持って、次の一週間に立ち向かって行くことができるようになるのです。
そのために神は、罪のこの世にあるわれらに、天国を思わせ、それを望みかつ慕わせ、しかもそこに入る備えをさせるために、天国の休みの型である安息日を制定し、これをわれわれ人間に与えてくださっているのです。

安息日の今日的意味

この安息日の戒めは、旧約的律法であって、新約時代のわれわれは、かならずしもこれに拘束される必要はないと、考える人もあるようです。
しかし、安息日は天地創造を想起する記念日であると同時に、再創造を待望する記念日でもあります。したがって、これを遠いむかしの遺物かなにかのようにみなすのは、当を得たこととはもうせません。
むしろ、週ごとの安息日は、永遠の安息の地である新天新地の予型でもある以上、こんにちこれを守ることは、われわれ人間の当然の責務であるというべきではないでしょうか。
「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているからである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」(ヘブル人への手紙四ノ一、二)。
「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル人への手紙四ノ九〜一一)。
われわれが、キリストを信じて救われたとはいえ、それは「罪のこの世からの救い」ではあっても、まだ天国にはいったわけではない。これは、いわば「約束による救い」ということなのであって、途中で脱落する可能性はまだ、まったくなくなったわけではないのです。
かつてイスラエルの民がエジプトから救い出されて後、約束の地カナンにはいるまでの過程は、こんにちのわれわれの信仰生涯のひな型となっています。彼らの中には、神への不服従によって神の約束が無効となったひとたちもいたのです。そのように、こんにちのわれわれも、聞いた福音の言葉が、信仰によってわれらの心に結びついていないなら、せっかくの神の救いの約束も、無益となることだってありうるわけです。
そうならないようにするためには、どうしたらよいのか、それは安息日を聖別して、この日に神を礼拝し、神との交わりを密にすること、それによって、神とのつながりを失わないようにすることです。そのために絶対不可欠なものが安息日の遵守ということになるのです。
こんにち、型としての安息日を忠実に守る人は、やがての日にまちがいなく、実体としての真の安息、天における永遠の安息に入らせてもらうことができるのです。

安息日遵守者への祝福

「もし安息日にあなたの足をとどめ、
わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、
これを尊んで、おのが道を行なわず、
おのが楽しみを求めず、
むなしい言葉を語らないならば、
その時あなたは主によって喜びを得、
わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、
あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、
あなたを養う。
これは主の口から語られたものである。(イザヤ書五八ノ一三、一四)。

これはなんという恵み、また祝福であることでしょう。ただしこれは、救われるために守ろうとする者には経験できず、救われたがゆえに感謝と喜びをもって守る人にたいして、約束されている祝福であり、さいわいであるのです。
この安息日の戒めは、けっして人間を拘束するのが目的ではありませんでした。むしろ、人間がなんの妨げもなく、神とまじわり、神との関係をあるべき正しい状態に保って行くために、必要不可欠の条件として定められたものであったのです。
ところがこんにち、この安息日を守ることには、さまざまな困難や試練がつきまとうのも、否定できない事実です。
しかし、神がこの戒めを制定されたとき、はじめから守ることが困難な戒めを制定されたのではけっしてありません。これを守ることが困難なのは、神への敵対者であるサタンのしわざであり、妨害工作なのです。サタンは、人間を神から引き離すために、神と人とを結ぶきずなともいうべきこの安息日を、守ることをむずかしくすることによって、神と人との関係を断ち切ろうと画策しているのです。
ですから、われわれはそのこと念頭におき、その困難と戦うことによって、神への信仰と忠誠をあかししなければならないわけです。

要点の確認

十戒の第四条安息日の戒めは、この世界を創造された神を指し示す、しるしとなるものであるが、それと共に、この戒めには、つぎのような重要な意義が含まれている。

  1. 天地創造の記念日、われらはこの日に、創造主なる神を仰ぎ、われらのいのちとさいわいのすべては、この神に依存することを覚え、この神との関係を正しい状態に整える日なのである。
  2. 贖罪の記念日、かつてイスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から救い出されたことを記念して、この日を守ることを命じられた。こんにちのわれらは、キリストによって罪から解放されたことを記念してこの日を守る。
  3. 道徳の基礎、安息日は道徳的意味をもつ律法とは思われないという人がある。しかし、真の道徳は神との正しい関係から生じるものである。神との正しい関係は、安息日遵守によって保たれ、維持される。したがって、安息日の戒めは、道徳の基礎なのである。
  4. 服従の試金石、アダムは、禁断の木の実が、神に対する服従の試金石であった。イスラエルは、天からのマナを拾い集めることを、七日目にどうするかで神への服従を試された。こんにちのわれらも、安息日の戒めの守り方が、神への服従の試金石となっている。
  5. 聖化のしるし、キリストのあがないにより、信仰によって義とされた者は、聖化される必要がある。聖化とは、罪に勝利し成長する事であるが、道徳的完全を意味しない。むしろ、神のものとして聖別されることである。その人がどの程度神のものになっているかは、安息日の守り方にあらわれる。たしかに安息日遵守は聖化の印となる。
  6. 契約のしるし、神は、サタンの惑わしによって罪に陥った人類のために、救いの計画を立て、契約をむすばれた。契約書は十戒であり、第四条は印鑑に相当する。これは、救いの計画を立てた方がどなたであり、われわれはだれと契約を結ぶのかを明示するものが、安息日の戒めなのである。われわれは、この日を蹂躙するなら、それは救いの契約を否定し、無効にし、破棄することにもなる。
  7. 再創造の記念日、神は、人類救済のために、この世界を再創造される。それは、はじめにこの世界を創造された方だけに、可能とされるみわざである。しかも、七日目ごとの安息日はそのひな形であり、新天新地こそは永遠の真の安息の地となるのである。われらは、安息日ごとに神への礼拝をつづけることによって、階段を昇るように、やがての日に天国の門口に到達し、永遠の安息の家に迎え入れられることになるのである。