第23課 安息日とはどんな戒めか

はじめに

前回は、神を信じ、罪を赦されて救われた者は、その後どういう生き方をすることになるのか、それは宇宙統治の憲法である神の律法・十戒を、生活や行動の原則とし基準とすべきであることを学びました。
罪とは、神の律法に違反することですから、その罪から救われた者は、人生の方向転換をして、こんどは神の律法に従う生活に戻るべきであるというのは当然の帰結です。
ところが、こんにち一般の人はもちろん、キリスト者のなかにさえ、これを無視し、無視しないまでも軽視して、これをキチンと守る人が少なくなっているのが実情です。殊に安息日の戒めにおいてはなおさらのことです。

これはどんな戒めなのか

では、安息日というのはどういう戒めなのかということですが、これは十戒の第四条で、そこにはつぎのように記されています。
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記二○ノ八〜一一)。
この戒めは、神の天地創造に由来します。すなわち、神はこの世界を六日間でお造りになり、第七日目に創造のみわざが完成したので、すべてのわざを休まれました。そこで、われら人類もこれにならって、第七日を休みの日とするよう、神によって定められた日なのです。
いったい、この七日を一めぐりとする週制度というのは、なにを基準とし、どこからきているものなのでしょうか。例えば、一日は地球が太陽にむかって一回自転する時間で、天体の運行に依っています。一年も同様、地球が太陽の周りを一周する期間なのですから、これも天体の運行と関係があります。
ところが七日の周期というのは、天体の運行とはまったく関係がありません。これは神の天地創造に由来するものであり、創造のみわざの完成を記念して、神ご自身が制定されたものなのです。

安息日の起源

この安息日の戒めは、いつどのようにしてはじまったのかということですが、この戒めを含む十戒は、モーセによってイスラエルの民に与えられたといわれていますので、そのためこの戒めの制定を今から三五○○年前と思っている人もいるようです。しかし、すでに触れましたように、これは天地創造が完成したときに、制定されたものなのです。
「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記二ノ一〜三)。
すなわち、神はこの世界をつくられたとき、人間のために二つの制度を設けられました。
一つは結婚の制度です。これは横の関係、すなわち人と人とを結び合わせるための制度です。
他の一つは、安息日の制度です。これは縦の関係、すなわち人を神につなぎとめるための制度です。
注意すべきは、これはいずれも人間が堕落する以前に、神のみ旨が完全におこなわれているエデンの園において制定されたものなのです。したがってこれは、エデンから持ち出されたものであるところから、いわば天国の性質や雰囲気をこんにちに伝える制度であるということもできるわけです。
ことに安息日の戒めを含む十戒は、いまから三五○○年前に、それを再確認する意味で、改めて神がモーセを通して人類にお授けになったのでした。

安息日はどういう日なのか?

安息日の制定に関するこの創世記の記録のなかに、注意すべきいくつかの点があります。

一、神はこの日に休まれた
神は六日間で創造のみわざを終えられ、七日目に休まれたとあります。これを見ると、神が六日の労働でお疲れになり、そのため七日目に休息を取られたかのように思われがちですが、はたしてそうでしょうか。
神は労働によって疲れるということはありえないことです。もちろん聖書には休まれたとありますが、しかしこれは、休息を意味するとはかぎりません。神にはその必要はないからです。これはむしろ、創造のわざが完成したためにそれを休止された、という意味と思われます。休息と休止とはちがいます。休息は疲れをいやすためですが、休止は創造のわざが完成したため、働きが終ったということを意味することになります。
実をいうと、創造のわざは六日目にすでに終わっているのです。にもかかわらず、七日目に作業を終えられたとあるところをみますと、七日目も創造の作業がおこなわれていたことになります。どういう作業かというと、これは安息日を制定するという作業以外には考えられません。すなわち、神は七日目に安息日を制定し、それを最後として創造のみわざを完成されたということになるわけだと思います。
ここで注意したいのは、さきにも触れましたように、安息日に神が休まれたというのは、たんに休息したというだけではなく、それ以上の意味があるということです。すなわち、それは休止ということであって、創造のみわざが完成したための休止ということなのです。したがって、この世界が最初神によって造られたときには、それは完全であったことを意味することにもなるわけです。
しかしながら、安息日というのは、神の創造のみわざにおいて、六日の働きに次いで、七日目はそれを総仕上げするための最後の働きということになるわけですので、これには何か、特別の意味と目的があってのことにちがいありません。それはどんなことかといいますと、安息日は神の日であり、神のための日であると同時に、それはまた人間のために定め置かれた日でもあるということです。
では、これが人間のためであるというのは、どうしてでしょうか。

1、安息日は肉体と精神の休息に必要である
安息日は、人間の生理的面からの必要上、すなわち肉体の健康維持のために定められたものであることが、こんにち医学的にもだんだん明らかにされてきています。
スイスのヒーグラー博士は、血管の中にある酸素を調べ、酸素が一日中はたらいて失われると、夜の睡眠によっては十分回復されないことがわかり、毎日酸素の欠乏が重なるにつれ、疲れが出て労働能力が低下してくることを明らかにしました。しかし、六日働いて七日目に休息を取ると、正常な酸素の量が組織に十分回復され、新しい週の仕事がフルにできるようになると発表しています。
これは、人間の活動の経験からして、六日以上の働きは、肉体的にむりであることを示しているといえます。そして、これはまた精神面の健全さを保持するためにも、必要なものであるのはいうまでもないことです。
それは、つぎのことによっても裏付けられていると言えましょう。
古代のエジプト人やカルデヤ人は七日を一週間としていました。ギリシャ人は始め一○日であったものを七日に切り替えており、ローマ人は八日であったものを、やはり七日に手直ししています。フランスでは、理性が謳歌されていた時代に、九日働いて一日休むという、いわば一○日を一週とするカレンダーを作ってみたものの、人々には通用しなかったので、一週七日制に戻ったということがあったようです。
聖書注解者として著名なウイリァム・バークレー博士は、次のように言っています。
「それでは、その特別の日の目的は何であろうか。まず第一に休息の日はやはり必要である。古いギリシャの諺に「常に曲げられている弓は(すなわち常にピンと張っている弓は)やがて矢がまっすぐに飛ばなくなる」というのがある。フランス革命の際に、革命家たちは宗教に関係のある凡ての事を廃止した。彼らは主の日を廃止してみて、結局はもう一度もとに戻さねばならないと分かった。というのも休息の日が一日もないのでは、国民の健康が保たれないと知ったからである。労働者が一生けんめい働いたなら、彼の力は週の終りに向かうほど、減退してゆき、休日に依って回復するということは、研究者によって確認されている事実である。休息の日は社会的、企業的に必要である。それがなければ、必然的に健康がうまく保たれないことは証明済みである」。
けっきょく、人間の肉体は生理的に六日働いたら、七日目は休みを必要とするように、できていることをこれは示しているように思われます。
人間をお造りになった神は、このことをすべてご存知で、人間の生理的必要に応えるかたちで、週一日の休みを、安息日の戒めとして制定されたということなのです。

2、安息日は経済的面の損失とはならないのか
他方、安息日を守ろうとすれば、経済的な面で非常な不利や損失を蒙ることにならないかどうかという懸念を抱かれる方があるかも知れません。この点はどう考えたらよいのかという問題です。
日本の生んだ偉大な宗教家内村鑑三氏は、こういっています。
「七日に一日業を休みたればとて、この世の競争に負ける憂いは少しもない。否、その正反対が事実である。絶えず働く者は悪しく働く者である。休むべきは善く休みてのみ、人は善く働くことが出来るのである。余輩は未だかつて安息日の休業を断行して、この世の事業において失敗した者のあるを知らない。七日に一日心を洗い身を休めてこそ、人は常にその心身の新鮮さを保つことが出来るのである。安息日の聖守は信仰のためにのみ必要でない。衛生のために、また事業のために必要である。
英国大政治家ビーコンスフイールド公が曰うたことがある。即ち『神が人類に賜いし恩恵の中に、安息日制度の如きはない』と、実に能くこれを解して能くこれを行なえば、彼の曰いし如くであると思う」。
これについて、「自由を与える律法」の著者ビル・ハイベルス氏も、次のように述べています。
「神は経済アナリストが、つい最近結論づけたことを、創造の初めに私たちに語られたのです。即ちゆったりと間隔を開け、注意深く仕事の休みを取ると明らかに生産性が増加するというのです。だいたい一日仕事をした後では、集中率が低下し、間違いが増え、士気が降下します。健康にさえ影響します。
医者はワーク・ホーリック(仕事中毒)神のご計画をあざける週七日間労働者は、高血圧や若年性心臓発作のような、仕事に関連した軽い病気にかかると言っています。もし毎日している仕事から休みをとろうとしないのなら、私たちは必ず、自然に現れる衰弱の逃避を経験するようになるでしょう。
神はそのことを初めからご存知でした。ですから、規則の中に仕事を休む権利―一日の小さな休み、いわゆる私たちの肉体を回復させるための時間―を作られたのです」。
週一日を休むということは、それだけ収入が減ると考えるのが自然の理かもしれませんが、しかしこれは、旧約時代のユダヤ民族をみても、またこんにちのクリスチャンの生活をみても、そのために生活が窮迫したり、行き詰まったりということがないばかりか、むしろ不思議に守られるということを、だれもが体験的に実感しているところでもあります。

3、安息日は、人間が人間らしい生き方をするために必要不可欠のものである
安息日は、たんに肉体や精神を健全な状態に保持するために必要であるというだけではありません。人間を構成する要素に、次の三つがあります。
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」(テサロニケ人への第一の手紙五ノ二、三)。
ここに霊と心とからだとありますが、人間はこの三つの要素によって成り立っていると言えます。そのうち肉体(からだ)と心(精神)については、すでに説明していますが、もう一つの霊(霊性)についても考える必要があるわけです。これは、神との関わりなり交わりなりを可能にする特性です。
したがって、これは人間を構成する要素の中でも中枢的なものであり、いわば人間を人間たらしめている本質的特性といってもよいと思います。
では、人間らしい生き方とはどのようなものか。これは一言で説明することは困難ですが、わかりやすくいえば、文化的生活、とくにその中心的部分を占める信仰生活を、いつも充実した状態に保つことでしょう。これは人間らしい生きかたに、不可欠のものなのです。
では、人間の霊性をもっとも満たされた状態にするためには、何が必要でしょうか。
このことについて注目すべきは、教父アウグスチヌスの次の言葉です。
「神よ、われわれ人間は、あなたの懐に憩うようになるまでは真の休みはえられません」。
この言葉が示していますように、人間にとってもっとも必要とするものは、霊性の充足であり、平安・安息ということだと思います。にもかかわらず、実際はこれがもっともなおざりにされているというのが実態ではないでしょうか。
これに対して、安息日の戒めこそは、この霊性の必要を満たしてくれるものであり、そのための最良最善の環境を提供してくれるものなのです。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書一一ノ二八〜三○)。
すなわち、安息日に仕事を休み、神を礼拝します。それによって、キリストとともに過ごし、キリストのうちにやすらうことによって、霊性が天からの命によって充電されるのです。
これこそわれわれが、真に人間らしい生き方をするために、絶対不可欠のものなのです。

二、神はこの日を祝福された
神は安息日を祝福されたとある。この日は神によって祝福された特別の日であるというのです。
いったいこの祝福とはなんでしょうか。これについての説明は簡単ではありませんが、もともとは「幸福を祈る」という意味を持つ言葉のようです。「祝」は祝うことであり、祝うとは、神に仕え、神に祈ることを意味します。あるいは神を崇めること、またほめたたえるという意味もあるかもしれません。
神がこの日を祝福されたということは、神がこの日に恵みと幸いとを豊かに注いでくださっているということだと思います。
これについて、ジョージ・エリオットは、たいへん味わい深い説明をしています。
「人間の祝福は祈りであるが、神の祝福は行動である。神だけが語られた祝福を実際にお与えになることができる」。
人間は幸いを祈ることしかできませんが、神はその幸いを与えてくださるお方なのです。この祝福ということを、もっと分かり易くいえば、この日を祭日というふうに考えてみてはどうかと思います。われわれは毎日を何かに追われるように忙しく生活しています。「貧乏暇なし」というのが、われわれ罪人のこの世の生活ではないでしょうか。このような者にとって、年に一度巡ってくる村祭り、あるいは自治体祭り、さらには国が定める祭日などは、どなたにとっても非常に待ち遠しい、楽しみの日とされているのではないでしょうか。安息日が祝福の日であるというのは、まさにそのような日であるということなのです。
日本におけるお祭り、これは「 魂を振い起たせる」という意味もあるようですが、神は安息日をそのような日としてわれわれにお与えくださっているということなのです。
神が、わたしどものためにお立てになった霊的指導者E・Gホワイトは、この安息日について
「主が祝福し、聖別された日に、主はその民に特別に近づかれる」
といっていますが、確かに安息日は、神が人間に祝福をおあたえになるというだけでなく、神ご自身が人間に近づいてこられ、人間と共にすごしてくださる日なのです。
われら人類はいま、罪によって神から失われた状態にありますが、神はこの日に、わざわざ天から降りてこられて、人間と交わり、共に過ごしてくださるという。これは、なんという幸い、また特権でしょうか。われら人間にとって、神と共に在る生活、これ以上の祝福また喜びと満足がほかにあるでしょうか。
旧約時代には、七日目ごとの安息日のほかに、「諸安息日」といわれるものがありました。すなわち、週ごとの安息日のほかに、年ごとの安息日というものが定められていたのです。そうした定めの中でも、大いなる喜びの日として人々が待ち焦がれていたのは、七年ごとに一年間耕作を休止し、土地を休ませるという制度があり、これを安息年と言いました。さらに、その七年を七回繰り返すと四九年、その翌年の第五○年目をヨベルの年と呼び、この年は自由解放のときとされ、借金は帳消しになり、奴隷は解放されて自由の身となり、わが家に戻ることができたのでした。イスラエルの人々にとり、これ以上の喜びの日、幸いの日はなかったのでした。
これはまさに、神の祝福の最たるものであったといってよいでしょう。こんにちのわれわれにとっても同様です。神は七日目ごとにめぐってくる安息日によって、このような祝福を与えてくださるのです。
安息日はいわば生活のオアシスともいうべきものであり、命の水で心の渇きをいやし、魂を潤す日でもあるのです。

三、神はこの日を聖とされた
神は安息日を聖とされたという。これは何を意味するのでしょうか。それは、神がこの日をご自身のものとして他の日と区別されたということです。
いちばん大事なことは、神がこれによってご自身の主権を主張し、宣揚しておられることです。すなわち、神は創造者であり、人間をはじめ生き物のすべては被造物であること、被造物は、その存在も、命も、さいわいも、すべてこの神に依存する者であることをわれわれに認識させ、それを覚えさせるために、神はこの安息日の戒めを制定されたのです。
これを具体的な面でもうしますと、神は一週間のうち六日間をわたしどもにお与えになり、これをあなたがたの働きと生活のために用いなさいといわれるのです。しかし神は、第七日目をご自身のためにとっておかれ、この日はわれわれ人間が、自分のために用いることをしてはならない。すなわち、一切の世俗的なことから離れて、聖なる日にふさわしく、この日を神のために清く過ごすようにということなのです。
しかも、この日には単に仕事を休むだけではなく、神のためにこの日を用いることを求めておられるのです。
聖書を読み、祈りを捧げ、神を礼拝し、救霊のためにこの日を用いるようにしなさいというのです。
その目的はなにかといえば、天地創造のみわざを記念し、創造主を覚えること
この創造主と交わることによって神との結びつきを確かにすること
周りの多くの人々に神を知らせ、神のもとに連れて来るようにつとめること
神が備えてくださる永遠の安息の地、天国を待ち望む日として、この日をすごすようにということなのです。
旧約時代には、神が人間と出会い、われらと接見してくださるために、聖所というものが設けられていました。
「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型に従って、これを造らなければならない」(出エジプト記二五ノ八,九)。
神は、この聖所に臨在し、民と接見し、民の礼拝をお受けになり、また民との交わりをもたれたのでした。この聖所は救い主イエス・キリストのはたらきを模型の形で表したものでしたので、キリストの降誕以後は、地上からこの聖所はなくなっています。
新約時代のこんにちは、かつての空間的聖域(聖所・神殿)のかわりに、時間的聖域(第七日)として、安息日にわれらのところにご臨在くださり、われらと接見し、われらと交わりをもってくださるのです。
イスラエルの指導者モーセがミデアンの野で羊を飼っていたとき、神の山ホレブにやって来ると、前方に芝が燃えているのを見ました。ところが火は燃えているのに、芝がなくならないので不思議に思い、それを見定めようとして、そばに寄っていこうとしたとき、神の声を聞いたのでした。

「ここに近づいてはいけない、足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出三ノ五)。
こんにちのわれらにとっても同様、安息日は神の日であり、聖なる日なのです。土足のまま(世俗的に)この日をすごしてはならないのです。
モーセはまた、神から十戒を授けられるとき、このような指示を与えられました。
「山のまわりに境を設け、それをきよめよ」(出エジプト記一九ノ二三)。
こんにちも同様、安息日は神の日であり、聖なる日なのですから、これを汚すことのないように、世俗との間に境界を設ける必要があるのです。
この安息日は、人間生活の背骨となるべきもので、これは他の宗教、すなわち偶像の神に仕える異教と、真の神にたいする信仰とを区別する印となる戒めなのです。しかも、この信仰が他の偶像の神々の影響から守られて、健全に成長発展していくために、唯一の防壁となる大事な戒めなのです。
われらは六日の歩みで汗と埃(ほこり)にまみれている。それを洗い流す日、労働服を来客用の衣服に着替える日、この日に神をわれらのところにお迎えし、われらが神を歓待するだけでなく、神がわれらを霊的にもてなしてくださる日であるというのです。
この日は神の主権のシンボルともいうべき聖なる日であり、
天地創造の神と他の神々とを区別する唯一のしるしとなる日であり、
神と人との関係を清く、しかも豊かなものとするための日であり、
そのために、設けられた特別の日なのです。

安息日を守る者に対する神の約束

神は、この安息日を守る者にたいして、つぎのような約束を与えておいでになります。

安息日を守って、これを汚さず、
その手をおさえて、悪しき事をせず、
このように行う人、
これを堅く守る人の子はさいわいである。・・・
「また主に連なり、主に仕え、
主の名を愛し、そのしもべとなり、
すべて安息日を守って、これを汚さず、
わが契約を堅く守る異邦人はー
わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、
わが祈りの家のうちで楽しませる、
彼らの燔祭と犠牲とは、
わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家はすべての民の
祈りの家ととなえられるからである」。(イザヤ書五六ノ二、六、七)。

「もし安息日にあなたの足をとどめ、
わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を貴ぶベき日ととなえ、
これを尊んで、おのが道を行なわず、
おのが楽しみを求めず、
むなしい言葉を語らないならば、
その時あなたは主によって喜びを得、
わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、
あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、
あなたを養う」。
これは主の口から語られたものである」(イザヤ五八ノ一三、一四)。

むすび

それにしても、日に関係するこの安息日の戒めが、どうしてそれほど大事であるのか、どうも合点がいかないという方がおられるかもしれませんので、最後にこの点についてご説明しておきたいと思います。
神は絶対者であり無限なるお方ですから、残念ながら有限の存在にすぎないわたしたちの目には見えません。その見えない神を認識し、この神を見失わないようにするためには、何か印となるものが必要です。
しかもそれは、空間的物的なものなら、偶像礼拝になってしまう危険があります。その印が偶像とならないためには霊的なものでなければならず、それには時間を聖別することがもっとも有効であり、最善の方法であったのです。
なぜなら、これは縦の関係ではいつの時代にも適用され、横の関係ではどんな民族また国民にも通用し、さらには、これはどんな人でも、どこにおいてでも覚えることができ、守ることのできるものであるからです。
ですから、これは何もセブンスデー・アドベンチストにかぎらず、聖書に忠実な信仰者はみなこの戒めの必要と不変性とを認めてきていることなのです。
英国リバプール教区主教ジョン・ライル博士の次の言葉は、まことに傾聴にあたいするといわねばなりません。
「今日クリスチャンと称するすべての人々が心して注意すべき問題がある。それはキリスト教の安息日、すなわち聖日に関してである。この問題は極めて重要な意味を持つものである。キリスト教の盛衰興亡は安息日の遵守にあると言っても決して過言ではない。
こんにち安息日の戒めを囲む垣根が破られたらどうなるか、主の日に世俗の欲心や放埒が洪水のように、これを防ぐものもなく自由に流れ込んできたらどうなるか。教会はたちまち堕落するであろう。安息日の神聖さを無視するなら、信仰は直ちに地を払うことに至るであろう。
主の日を無視することほど、この地上にサタンの王国を広めるものはほかにあるまい。それは、不信者を喜ばすことになるかも知れないが、神に対しては侮辱となり、また神に対する不敬にほかならないであろう」。
これは、クリスチャンでない方には、その真の意味を理解していただくことは無理なことかも知れません。しかし、これは教会、また教会員にとっては、たいへん重い意味を持つものとして真摯に傾聴すべき言葉と思います。それと同時に、週制度が今日すべての人の生活を律するようになっている以上、この週休の日(安息日)の起源またその真の意味を知り、かつ理解を深めることは、信仰のあるなしにかかわりなく、必要なことではないかと思います。

要点の確認

  1. 神は宇宙統治の憲法とも言うべき十戒の第四条に安息日の戒めを定めておられる。これは天地創造のみわざの完成を記念するために定められたものである。
  2. この安息日は、創造主なる神の主権のシンボルとも言うべきものであり、神と被造物とを区別する印となる日である。われわれは、この日を聖く守ることによって、神の主権を認め、その支配に服することを表明することになるのである。
  3. 神は人間に、週の六日を働きと生活のために与え、七日目は神ご自身のために聖別された。われわれ人間は、この日を自分のために用いるべきではなく、この日には一切の仕事を休み、思いをこの世のことから神に向け、神を礼拝し、聖書の学びや祈りによって神と交わり、神を崇める日としてすごすべきである。
  4. 神は、この日を守る者に対して恵みと祝福を約束しておられる。この日に仕事を休むことによって、経済的に不利益になることがないよう守ってくださる。
  5. 神は、人間と交わるために時間を聖別された。これは神を偶像化しないため、また神と霊的な交わりをなすために、最良の方法であり、また最善の環境でもあることを、だれもが知り、かつ覚えるべきである。