第22課 神の律法―十戒

はじめに

神の救いを信じて受け入れた者は、悔い改めて、人生の方向転換をします。これまで神に背いていた者が、こんどは神のほうに向き直って新しい歩みをはじめます。その新しい歩みとは、どのようなものなのでしょうか。
これまでの歩みが、神に背を向け、神のみ旨に反する生活でした。言い換えますと、それは罪の生活であり、神の律法に違反する歩みでした。
新しい生活とは、罪とは正反対の生活、すなわち神の律法に従う生活ということになります。これが、救われて悔い改め、生まれ変わって人生の再出発をした者の新しい生き方なのです。

神の律法の権威と位置づけ

では、神の律法というものは、われわれにとってどういう意味を持ち、われわれの生活においてどういう位置を占め、われわれ人間に対してどのような権威をもつものなのでしょうか。
世にはいろいろな規則や定めというものがあります。家訓があり、校則があり、社則があり、団体規約などがあります。また県や都の条例というものがあります。これは、家族や学校また会社や団体が、その集団を秩序立て、みながうまくまとまって生活し、また、仕事を進めて行くうえに必要なルールを定めたものです。これがなければ、集団はたんなる烏合の衆にすぎず、それぞれの組織や集団の形体も営みも機能しなくなり、その結果、各々の目的を達成し実現することができなくなるからです。
しかし、このような家訓や規約や条例は、それに所属する者だけに関わるものであって、きわめて限定的なものにすぎません。もっとも普遍的なものとしては、国の憲法があり、法律があります。
ところが、この国法も、時間的には時代の流れによってたえず変更がありますし、空間的には国ごとに法律が違うという問題があります。もちろん一国家を超えた国際法というものもあるにはありますが、これは国家間の限られた問題の処理にとどまるもので、われわれ一人一人に直接関わるものとは言えないように思われます。
そこで、時間的には永久不変、空間的には共通普遍の規約、また律法となるものがなければならないはずです。ここまで考えを突き詰めてきますと、それは何であり、それをどこに求めるべきかといえば、宇宙の創造者また世界の統治者なる神の定めた憲法、ということになるのではないかと思います。
いったいこの神の律法というものは、いつどのようにして定められたものなのでしょうか。神はこの世界を創造されたとき、これを保持するために法則を制定されました。それは家には家訓、学校には校則、会社や団体には社則、規約があるように、宇宙また世界にもそれが必要であるからです。
神が制定された法則に、ふたつの側面があります。物理的面と精神的面のそれです。すなわち、形而下の領域には、物理的法則、形而上の領域には、精神的法則すなわち道徳律法といわれるものが定められています。
「空のこうのとりでもその時を知り、山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。しかしわが民は主のおきてを知らない」(エレミヤ書八ノ七)。
神がお造りになったこの世界には、物理的法則があって、生物も動物もこの法則に従って生活し、行動しています。しかし、同じ生物でも、神の像にかたどって造られた人間には、この物理的法則また生物学的法則とともに、精神的・道徳的法則というものがあり、その支配を受けて生活し、行動しているわけです。ここに「主のおきて」とあるのがそれです。
ところが、この聖句によれば、人間はこれを忘れてしまい、これに従ってもいないと指摘されています。これが聖書の言う罪であり、この罪が人間を神から遠ざけ、神の守りと導き、また神からのもろもろの祝福を妨げているということなのです。

クリスチャンは二重人格・二重国籍

人間は、神に背いて罪人となった結果、神の支配の外に立って生活する者となりました。これを聖書は世俗の生活とよんでいます。しかし、神よりのおとずれである福音を聞いて、キリストを信じ、神に献身する者は、ふたたび神の支配に入ることになるわけです。
聖書は、世俗の生活者を「肉なる人間」と呼び、神の支配のもとにある人間を「霊なる人間」と呼びます。この意味でクリスチャンは二重人格者ということにもなるわけです。クリスチャンは、よく世人から偽善者とみられたり、そういわれたりすることがありますが、その理由はここに起因するということもできます。
これはしかし、罪人の避けがたい宿命というほかはありません。
こうして、生まれながらの肉なる人間は、世俗の国(サタンの支配)の国籍を持つ者であり、生まれ変わった霊なる人間は、神の国(神の支配)の国籍を持つ者となります。いわば、二重の国籍を持って生きる者となるわけです。聖書にこうあります。
「しかし、わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ人への手紙三ノ二)。
そういうわけで、クリスチャンは、世俗の人間としては国法に従いますが、神の国の民としては、神の律法に従って生活することになります。
もちろんクリスチャンにとって、神の律法は第一義的なものであり、国の法律は第二義的なものにすぎませんから、この二つが両立できない場合には、第一義的な神の律法が優先することになります。なぜなら、世俗国家の律法は、神に背き神の支配を拒む人々を治めるために、やむなく、神が便宜的、また暫定的にお認めになったものにすぎないからです。
こうして、クリスチャンとなった者は、神の律法をレールとして、それに則って歩みを進めてゆくことになるわけです。

神の律法の由来

神の律法は、人間の生活や行動の基本原則であり、それは神のみ旨、あるいは神のご品性・ご意思そのものにほかなりません。これをつめて一言でいえば、「愛」ということになりましょう。
しかし、ただ愛というだけでは抽象的で、具体的にどうすることかが、かならずしも明確ではありません。そこで愛の具体的行動や実践のあり方を指し示すものが、神がモーセにお与えになった十戒なのです。
しかもこの十戒は、罪を犯した人間に適用する形で示された戒めです。これが与えられた経緯はつぎのようなものです。
この戒めが最初に与えられたのはいうまでもなく、人祖アダムとエバですが、それは肉の心(言い換えれば良心)の中に刻まれていたものと思われます。しかし、彼の子孫たちは時代の推移とともに、いよいよますます神から遠ざかって行くようになりました。それとともに、神の律法は彼らの良心からしだいに薄らいで行ったのです。
ノアの洪水の後、人々はシナルの地に平野を発見し、バベルの塔を築くことをはじめました。これは、神の主権にたいする反逆行為でありましたので、神は人々の言語をみだすことによって、この企てを阻止されました。その結果、彼らはこの企てを断念し、その地を去って、地の全面に散っていきました。それと同時に、彼らはやがて神への信仰を失い、偶像礼拝がそれに取って代わるようになりました。
そうした中にあって、神への信仰と、神の律法とを、かろうじて保っていたのは、のちにイスラエル民族の先祖となったアブラハムという人でした。
しかし、彼らがもし、他民族の影響によって、せっかくの彼らの信仰、真の神に対する正しい信仰が損なわれるようなことにでもなれば、それこそ神と人間とのつながりは完全に切れて、両者の関係は完全に絶縁してしまうことになります。その結果はどうなるのか。人類は腐敗と堕落の一途をたどり、永遠に滅びてしまうことになりましょう。
そこで神は、アブラハムの信仰を保護する必要から、彼と彼の一族とを、その地から呼び出され、カナンの地へと導かれたのでした。これは、いまから約四千年前のことです。この一族が後にイスラエル民族とよばれています。
ところが、その地にやがて大飢饉が襲います。そのため、アブラハムの子孫たちは飢えに迫られ、それを契機に、彼らはエジプトの地に移り住むことになりました。しかも、その後いろいろないきさつがあって、やがて彼らは、このエジプトで奴隷としてこき使われるようになりました。そうした苦役がつづいている間に、彼らはいつの間にか神への信仰を失い、神の律法を忘れてしまっていたようです。
しかし、彼らの奴隷としての苦しみのうめきが、神の耳にもとどくようになり、これに応えて神は、モーセをエジプトに送り、彼らをエジプトから救い出されたのでした。
こうして神は、彼らを約束の地カナンへと導かれたのですが、その途中、彼らがシナイ山の麓に露営していたとき、神はモーセを山の上に召し寄せ、神自らがみ手をもって石の板に刻み込まれた十戒を、彼にお授けになったのです。
すなわち人類は、神の選民であるイスラエルを介して、間接的ながら、ここにあらためて神から律法を与えられたのでした。
とはいえ、この律法は神の国の憲法なのですから、神から遠く離れてしまった世人にとっては、直接かかわりのないものになってしまっているわけです。しかし、神を信じてその神に従うようになった者にとっては、国の法律以上に、これは権威のあるものであり、人間のあらゆる生活と行動の絶対的な基準となるものなのです。

神の律法の具体的内容

では、その律法とは具体的にどのようなものなのでしょうか。これは出エジプト記の二○章三節から一七節に記されています。わかりやすく番号をつけて列記してみましょう。

第一条、あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
第二条、あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
第三条、あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
第四条、安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、僕、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで、主は安息日を祝福して聖とされた。
第五条、あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
第六条、あなたは殺してはならない。
第七条、あなたは姦淫してはならない。
第八条、あなたは盗んではならない。
第九条、あなたは隣人について偽証してはならない。
第十条、あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。

神の律法の性格と構成

この戒めについて、聖書に次のように記されています。
「主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト記三一ノ一八)。
すなわち、この戒めは、二枚の石の板に記されていました。一枚目には、一条から四条まで、二枚目には、五条から十条までが記されていたものと思われます。これは、この戒めが二つの部分からなっていることと関係があります。一条から四条までは、対神関係の戒め、五条から十条までは、対人関係の戒めです。

まず、対神関係の戒め、(神への義務を定めたもの)
第一条は、礼拝の対象、すなわち何を、だれを神とすべきかを定めた戒め
第二条は、礼拝の方法、すなわちどんな方法で神を礼拝すべきかを定めた戒め
第三条は、神に対する畏敬の念を重んじるべきことを教える戒め
第四条は、礼拝の日を定めた戒め、そしてこれは、この十戒を定めて、これを守ることを命じておら      れる神は、天地の創造主であることを示す印となる戒め

つぎは、対人関係の戒め、(人への義務を定めたもの)
第五条は、親は子に対して、天の父なる神の権威を代表する存在であることを示す戒め
第六条は、人間の生命を保護するための戒め
第七条は、人間の家庭を保護するための戒め
第八条は、人間の所有物を保護するための戒め
第九条は、人間の人格と名誉を保護するための戒め
第十条は、あらゆる罪の動機となる利己的欲心を制御すべきことを教える戒め

神の律法は善悪の絶対的判断基準

以上は、われわれが人間として、いかにあるべきか、どのように行動すべきかを定めたもので、道徳の基本ともいうべき戒めです。すなわち、人間としての生活や行動において、何が善であり、何が悪であるかを示す、いわば道徳的価値基準となる戒めなのです。
宗教改革者マルチン・ルターは、「善行論」という本を書いていますが、これは神の律法・十戒を解説したものです。その中で彼はつぎのようにいっています。
「ただ神の禁じたもうたこと以外に罪の存しないと同様に、ただ神の命じたもうこと以外に善行はないということである。それゆえ善行の何たるかを知り、またそれを行なわんと欲する者は、ただ神の戒め以外の何ものをも知るに及ばない。この意味においてキリストは、マタイによる福音書一九章に、かく言いたもうた。『 汝生命に入らんと思わば、戒めを守れ』と。
また弟子が生命に入らんために何をなすべきかと問うたとき、彼は十戒以外の何ものをも提示したまわなかったのである。このゆえに、われわれは善行の識別を神の戒めに学ぶべきであって、決して行為そのものの見栄、大きさ、また量に依るべきではない。さらに人間的判断、法規ないし慣習に依るべきではない。かかるものによる識別は、われわれの知るごとく、いつの世にも神の戒めを甚だしく蔑視するわれわれの愚かさの然らしむるところである」。
善とは何か、それは神のみ旨である律法、すなわち十戒にしたがう生き方にほかならないというのです。

対神関係の律法と対人関係の律法

ところで、神から失われた状態にある人間にとって、五条から十条まで、すなわち対人関係の戒めは、これを道徳律法として認めることに、だれも異論はないにちがいありません。しかし、一条から四条すなわち、対神関係の戒めを道徳律法と認めることには、戸惑いを感じ、疑念をいだく人が少なくないのではないかと思われます。神観念が失われた人にとって、神への義務感など持ち得ようはずがないからです。
ですから、世のほとんどの人は、これまで一条から四条までの戒めをまったく無視して、これを守ってはこなかったのです。もちろん、良心の呵責を感じるということもなかったわけです。しかし、神を信じ、神のみ旨を知るようになった者にとっては、これは対人関係以上の重みをもって、われわれ人間の生活と行動を律するようになるのです。
そして、この対神関係の戒めは、縦の関係の在り方を示し、対人関係の戒めは、横の関係の在り方を示すものであるのですが、この両者は互いに、相互検証の役割を担うものでもあるわけです。というのは、十戒はわれわれに生活と行動の在り方を指し示すものなのですが、しかしそれは、国の法律のように、外側の目に見える行為において、これに適っていればそれでよいというものではありません。神が最も重視されるのは、むしろ内面的動機なのです。それはどのようにして測ることができるのかといえば、対神関係の戒めは、対人関係の戒めによって、逆に対人関係の戒めは、対神関係の戒めによって検証されることになります。
たとえば、対神関係の戒めは、対象である神は目に見えない存在ですから、その人が本心から神を信じて従っているのかどうか、これはだれにもわからないわけです。しかし、この人の信仰が本物かどうかは、対人関係の戒めに対する在り方によって、それが立証されることになります。もし対人関係の戒めに不忠実であるならば、その人の神への信仰は、口先だけの偽りの信仰にすぎないことが露呈されることになります。
さらに対人関係の戒めも同様です。その人が対人関係の戒めに忠実に従って生活している場合、周りの人が見たら、それこそ文句のつけようのない立派な人とみなされることでしょう。しかし、内面的動機においては、名誉心、自己満足、あるいは利己的打算などが動機となっていないとは言えません。それよりも何よりも、神を認めず、神を畏れる心のない人の道徳に、はたして善としての価値が存在しうるものかどうかはなはだ疑問です。といってもなんのことかわかりにくい方もありましょうから、今譬え話を用いて説明させていただきましょう。
ここに一人の青年がいます。彼は真面目で正直な男です。責任感も強く、人のいやがる仕事も率先して陰日向なく、忠実に働いています。これだけを見れば、申し分のない模範青年といわねばなりません。しかしこの青年は、何処でどんな仕事をしているかが問題です。彼がもし海賊船の乗組員であるとしたらどうでしょう。彼が真面目であればあるほど、それだけよけいに大悪党であるということになってしまいます。
この世界は、神に背き、神の支配の外にある世界なのです。そういう世界にあって、道徳的であることが本当の意味で正であり、義でありうるものかどうか、たいへん疑問です。ですから、人間の道徳が価値あるものとなるためには、まずもって神との関係が正しくあることが前提となっていなければならないわけです。その上でなされる道徳行為だけが、真に価値あるものとなりうるのです。

神の律法の原理また根本精神は愛

さて、この神の戒めは、われわれの行為を規定するものであるのはもちろんですが、しかしそれは、外形的行為だけでは、かならずしも善とはならないということです。動機において正しいときに、初めてそれは、善としての価値をもつものとなるのです。では、その動機とはいったい何なのでしょうか。マタイによる福音書一九ノ一六〜二二に、つぎのようなことが記されています。あるとき、富める青年がイエスのもとにやってきて、つぎのように質問しました。
「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらよいでしょうか」。
イエスは言われました。
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
すると、この青年はもうしました。
「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
これに対してイエスは言われたのです。
「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」。
ところが、これを聞いた青年は、悲しみながらそこを立ち去った、と記されています。
いったいこれは、何を意味し、どういうことを言っているのでしょうか。イエスは、青年に対して、人間として正しくあるためには、神の戒めを守ることが必要であるといっています。これに対して青年は「自分はそれを守っています」と答えています。しかし、それだけでは十分ではないとイエスは言われます。「では、ほかに何が必要か」という青年の問いに対してイエスは、「持ち物を全部売り払って貧しい人々に施しなさい」と言っています。それを聞いて青年は、悲しみながら立ち去ったとあります。
これをみると、この青年は神の戒めを全部守っていると言ってはいますが、それはあくまでも外面的な行為においてであって、内面的な動機においては必ずしも、心から喜んで守っていたわけではなかったことがわかります。イエスはそれをはっきり見抜いておられ、それを彼に気づかせ、悟らせる目的で、図星を指す言い方をされたのでした。すなわち、この青年は外面的には神の戒めを守っていたとはいえ、戒めの精神である愛の動機からではなかったのです。彼は神よりも富、隣人よりも自己が大事ということで、この自己を守るためには、神に背を向け、隣人の必要を後回しにすることを意に介しないという生き方であったわけです。
このことは、次の話によっていっそうはっきりすると思います。あるとき、ひとりの律法学者が、ィエスをためそうとして質問しました。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。(マタイによる福音書二二ノ三六)。
これにたいしてイエスは、神を愛することが第一の戒めであり、隣人を愛することが第二の戒めである、と答えています。そして、「これらの二つの戒めに、律法全体がかかっている」と説明しています。
以上であきらかなことは、神の律法の精神また目的は愛であること、すなわち神を愛するとは、具体的には一条から四条までの対神関係の戒めを守ることであり、隣人を愛するとは、具体的には五条から十条を守り行なうことであるということになるわけです。もちろん愛なくしての行為もありうるわけですが、そのような行為は、戒めを守ったことにはならず、道徳的価値も認められないということになります。

神の律法は十字架によって廃されたのか

ところで、この神の律法に関して、キリスト教会の中にたいへんな誤解が見られます。神の使命者ホワイトは、こう指摘しています。
「多くの宗教教師たちは、キリストはご自分の死によって律法を廃された、それゆえに人はその要求から解放されている、と主張する。なかには、律法を重苦しいくびきであると言い、律法の束縛とは対照的に、福音の下において自由が享受できると主張する人々もいる」。
このような人たちは、神の律法というのは、モーセによって定められたものであって、これはユダヤ人のための律法にすぎない。したがって、これをわれわれクリスチャンに適用するのは間違いだ、というのです。なぜなら、聖書によれば、キリストは十字架にかかって死なれたとき、この律法は廃されているからだという主張です。
彼らが、その主張の根拠とする聖句は、ローマ人への手紙一○ノ四のことばです。
「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」。
しかしこれは、キリストが律法の終わりとなったというのであって、律法が終わりとなったというのではありません。では、キリストが律法の終わりとなったとは、何を意味するのでしょう。
これは、アダム以来すべての人間は神の律法を犯した結果、死を宣告されています。神の律法は、罪を犯した人間に、死を要求します。イエスがわれわれ罪人に代わって十字架にかけられて死んだとき、律法の要求は満たされ、それ以後は、原理的に、律法は人間に死を求めることをしなくなった。その必要がなくなった、ということなのです。しかしそれは、律法が廃止されて存在しなくなった、ということではありません。その証拠に、イエスはこのように仰せになっています。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイによる福音書五ノ一七、一八)。
また使徒パウロもつぎのように言っています。
「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるのである」
「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙三ノ二八、三一)。
すなわち、救いは律法を守ることによってではなく、信仰によって与えられる。とすると、律法は無用になったのかといえば断じてそうではない、とパウロは強く否定しています。それどころか、ますます律法を確立する、と言っています。この点に関しても、神の使命者ホワイトは次のように述べています。
「キリストがその死によって天父の律法を廃したという主張には、なんの根拠もない。もし律法を変えたり、廃止したりすることができるのであれば、人間を罪の刑罰から救うためにキリストが死なれる必要はなかった。キリストの死は、律法を廃止するどころか、それが不変のものだということを証明しているのである」(『各時代の大争闘』下巻一九三ページ)。
そもそも、十戒が石の板に、しかも神の指で刻まれて付与されたということは、この律法の絶対性と共に不変性をそれは象徴しているのです。神の律法が不変であるのは、これが法則であるからなのです。
ですから、神学者たちの中でも、聖書を正しく読み、かつ理解している人たちは、神の律法の不変性を認め、それを強く主張しています。その中の一人、世界的に著名な神学者エミール・ブルンナー博士の言葉を次に引用させていただくことにいたします。
「聖書の中で律法といわれるのは、絶対に人間の手によってつくられたものではなくて、わたしども人間にたいして『定め置かれた』ところのものであります」。
このように述べて、博士はこれを理解するためには、自然界の法則といわれるものを考えてみるとよい、と、つぎのように説明しています。
地球が太陽の周囲を運行するのに三六五日かかる。これは人民の一般投票に依って決めたというものではない。二に二を加えれば四になる。これも世界学務局の世界全国民の満場一致の決議に依っても変更することはできない。なぜならこの世界をお造りになった神が、そのように定められたからそうなっているのである。人間は、その定められた法則に単純にしたがうほかはないのである。神の律法も同様だ、というのです。
「神が定めたもうた自然の諸法則と同じように、人間の生活に対して神の定め与えたもうた律法は、破ることのできないものであります。これは絶対に値切れません。神の意志、これが律法なのです。律法とは、神がわたしどもに要求されるところのことなのです」。
「神はわたしども自身の生命に役立つこと以外は何も要求されないのですから。神の律法は恣意的なものではありません。その律法のなかで神がわたしどもに語られるものは、正しい人間的生活の自然法則にほかなりません。もし生活が人間的生活であるべきものならば、お前たちは、かくかくの事を為さなければならない、と神はいわれるだけであります。それは医者が、もし健康でいたいなら、あなたたちはかくかくの生活をしなければならない、というのとおなじです」(以上は『我等の信仰』よりの引用)。
なんとわかりやすい、しかも明快な説明でしょう。神の律法は、人間の精神面また霊性面の健康原則にほかならないのです。

神の律法の具体的実践の問題

以上によって、神の律法の権威とその位置づけが、かなりはっきりしたのではないかと思います。そこで、われわれがこれを神のご意思と認めて、これを守って行こうとする場合、現実問題として何をどのようにすればよいのか。少し具体的な説明をさせていただきましょう。
まず第一条ですが、これは、神はただひとりである。その神というのは、この律法を定めて、これを守るように命じておられるお方のことであって、それ以外の者を神としてはならない、ということです。
第二条は、神を礼拝するにあたって、偶像を用いてはならないということです。神は無限絶対者なのですから、人間の肉眼でこれをみることはできない。とすれば、見えない神を見える形にあらわすことなどできるわけがない。したがって、神を礼拝するにあたっては、目に見える形に刻んだものを用いることをしてはならないという。言い換えれば、いかなる偶像をも礼拝の対象としてはならないということなのです。
第三条は、神のみ名は神の本質を代表するものである。したがって、軽率に、不謹慎な態度で、神に対してはならないと同時に、ふざけ半分に神の名を口にするようなことのないようにという戒告です。
第四条は、基本的にまず、神はこの世界の創造者であり、したがって、われわれの時間も命も、これは神がお造りになったものであり、神ご自身がこれを支配しておられる。われわれはこれを、神から与えられて生きているのであって、そのことをわれわれにおぼえさせるための戒めです。
神はこの世界をお造りになったさい、一週七日の区切りを定め、そのうちの六日間を、われわれ人間にお与えになり、われわれがこれを、自分の生活のために自由に用いることができるように定めてくださったのです。
しかし、週の最後の日は、神がこれを聖別することによって、ご自分のものとしてとっておかれた日なのです。
しかも、その目的は、神がわれわれの礼拝を受け、神とわれわれとが親密な交わりを持つための日とすることにありました。その意味で、この日はわれわれ人間にとって、特別に祝福された日なのです。
この日は、われわれが造り主なる神とのつながりを失わないようにするために、なくてはならない大事な絆となる日なのです。
ところで、これは週の中のどの日かと言えば、聖書には第七日とありますから、これはじつは土曜日なのです。
これが、こんにちは日曜日に変わっていますが、それはなぜなのか。これには、歴史的に深い疑問となぞが秘められています。この問題は、多くの時間を用いて学ばなければならない課題なので、別の機会にとりあげることにしたいと思います。
以上は対神関係の戒めですが、対人関係の戒めは、どんな人でも容易に理解し、納得できることがらと思いますので、あらためて説明を加えるまでもないでしょう。

要点の確認

  1. 神がこの世界を創造されたとき、これを保持するために法則を制定された。その法則には、二つの側面がある。物理的法則・生物学的法則と精神的法則・道徳律法である。この律法の根本精神は愛であった。アダムとエバは、サタンに欺かれてこの律法に違反し、そのため死を宣告された。
  2. エデンから追放された人類は、神の律法を無視し、次第に神から遠ざかって行ったが、イスラエルの先祖となったアブラハム一族だけが、かろうじて創造主なる神への信仰と、神の律法とを保持していた。このイスラエルは、ある事情から、長いことエジプトの奴隷となっていたが、そのあいだに、彼らは神への信仰もうすれ、神の律法にたいする観念もほとんど失われた状態になってしまっていた。そこで神は、いまから三五○○年前、この民をエジプトから救い出し、カナンの地に導かれたが、その途中、神はシナイ山にモーセを招き、神ご自身の指で、石の板に刻んだ十戒を彼に授けられた。神の律法を、罪人に適合する形で、具体的に提示されたのが十か条の戒めなのである。
  3. アダム以来のすべての人間は、この律法によって死に定められていたが、いまから二○○○年前、神なるキリストが人となってこの世に降り、われわれ罪人の身代わりとして、十字架にかけられて死なれた。これによって、人類の罪は処理され、人類は罪に対する刑罰から解放され、自由の身となった。
  4. ある人たちは、神の律法はキリストの十字架によって廃されたと主張する。しかし、律法は法則であり、義の原則であって、神が永遠であるように律法も不変である。
  5. イエスも、「わたしが律法を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」と言っておられる。
  6. パウロも同様「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」と言っている。
  7. もし律法を廃止したり、変更したりできるものなら、なにもイエスは十字架にかかって死なれる必要はなかったはずである。律法は不変であるからこそ、キリストは罪人の身代わりに死なれなければならなかったのである。
  8. もちろん、われわれの救いはどこまでも、キリストの十字架の贖いによるのであって、律法を守ることによるのではない。しかし、神の恵みによって救われた者は、やはりこの律法を守らなければならない。なぜなら、罪と言う言葉のギリシャ語は「的外れ」という意味をもつという。すなわち、人生の方向を見失い、間違った方向に進みつつあるのが、われわれのこれまでの生き方であった。ゆえに、その罪を赦され、救われた者は、これまでのまちがった歩み方をあらため、正しい方向に向かって歩んで行くようにしなければならないわけである。
  9. そして、その人生の正しい方向を指し示してくれるのが、ほかならぬ神の律法なのである。この神の律法こそが、真理の道であり、命の道であり、救われた者の歩むべき道であり、それがそのまま天国に通じる道ともなるのである。