第21課 悔い改め

はじめに

前回、救いの条件について学びました。救いは人間の行いによってはえられない。救いは神の側からの贈り物として与えられるものである。人間の側の為すべき分としては、この神の提供してくださる救いを、信じて受け取ること、ただそれであるというのです。言いかえれば、救いは神の恵みによる賜物ということになります。
ではその恵みの中身はどのようなものかといえば、それは贖罪といわれるものです。贖罪とはなにか、それは罪の奴隷となっている者を、代価を払って買い戻すこと、いいかえれば身請けすることですが、神は罪を犯してサタンの奴隷となっているわれわれ人間を救うために、キリストをこの世にお与えになりました。
この神なるキリストは、肉体と人性を身にまとい、われわれの罪を負い、われわれの身代わりとなって十字架刑に処せられました。すなわちわれわれの罪に対する刑罰を、われわれに代わって受けてくださった。こうして神は、われわれの罪を合法的に処理し、取り除いてくださったのです。
その結果、われわれはサタンと罪と死の奴隷状態から解放され、ふたたび神の子とされる。いいかえれば、われわれ罪人は、キリストの命を代価として神に身請けされ、神の家族に復帰することになったということなのです。これが贖罪ということであり、救いはこれを贈り物として、いわば恵みの賜物として神から提供されるものであるということなのです。

悔い改めとは何か

この贖罪のことがわかると、当然われわれのうちにある変化が起こります。
「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バヌプテスマを受けなさい』」(使徒行伝二ノ三七、三八)。
神のなされた贖罪のわざに対して、これを信じた人の対応は、悔い改めという形で表明されることになります。
では、悔い改めとは何でしょうか。それは、まず心の変化を意味します。それと同時にあらゆる考え方や生き方にも変化が起こります。すなわちそれは、人生の方向転換ということです。

聖書にみられる具体的実例

1、ふたりの息子のたとえ
「ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた」(マタイによる福音書二一ノ二八〜三○)。
はじめ「行きたくない」と答えた弟息子は、あとで思い直して出ていった、とありますが、この思い直しての行動が悔い改めということです。

2、放蕩息子のたとえ
父に背いて家を出、父から分け与えられた財産を、放蕩によって散らしてしまった弟息子は、豚飼いという仕事をするまでに落ちぶれてしまい、飢えて死を待つばかりとなった。そのときになってやっと、彼は「本心に立ちかえ」り、そして言った、「立って、父のところへ帰ろう…」(ルカによる福音書一五ノ一七、一八)。
こうして彼は、心を変えて父の家に帰って行ったとあります。
これら二つの物語が、共通して示していることは、あとで心を変えて、これまでとは逆の方向に向かって行動していることです。これが悔い改めということなのです。

悔い改めを構成する要素

悔い改めには、次の三つの要素が含まれています。

1、罪を認めること
われわれは十字架の意味を知るまでは、真の罪認識をもっていません。それまでの罪認識は、国法を犯すこと、または道徳を蹂躙する行為といったものでしょう。しかし十字架によって罪とは何かがわかり、はっきりとした罪の自覚をもつようになります。

A、自己に対して
われわれは、生まれながらの罪人であり、自己欺瞞に陥っています。
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ書一七ノ九)。
「だれも自分を欺いてはならない」(コリント人への第一の手紙三ノ一八)。
「もし罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。(ヨハネ第一の手紙一ノ八)。
しかし、神の聖霊が注がれることによって善悪の判断基準が、人の基準から神の基準に変わる。その神の基準を鏡とすることによって、自己の罪を正しく認識できるようになるのです。
「それ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネによる福音書一六ノ八)。
いったい、われわれ人間にとって最大の価値、最大の関心事は何でしょうか。それは自己自身ということではないでしょうか。この自己を中心とし、自己に最大の価値を置く考え方について、聖書はいうのです。
「あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である」(ヤコブ書四ノ一六)。
この自己尊大の心や態度、これがわれわれ人間にとっての、根本的で最大の罪であるというのです。なぜなら、これは神を無視し、自己を神の立場に置こうとすることだからです。しかも、もろもろの悪は、そこから自然発生的に生じてくるのです。
さらに、聖書の言う罪とは、悪をなすことだけではないというのです。次のように記されています。
「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である」(同四ノ一七)。
すなわち、たんに悪事を行うことだけではなく、善と知りながら、それを行わないことも罪であるというのです。

B、他人に対して
われわれは自己自身の罪を認めないにもかかわらず、他人の罪には敏感で過酷です。そのため、常に他人を批判的な目で見、また非難します。しかし使徒パウロはこう言っています。
「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれられると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔い改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである」(ローマ人への手紙二ノ一〜五)。
「人をさばくな、そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう」(ルカによる福音書六ノ三七)。
「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない」(ヨハネ第一の手紙三ノ一五)。
すなわち、他人に対して愛のない心、排他的ふるまいのすべてが罪であるというのです。
C、神に対して
「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(詩篇五一ノ四)。
われわれの罪は、自己自身の罪も、他人に対する罪も、すべては神に対して犯されている罪なのです。なぜなら、人間の最初の罪はアダムとエバがエデンの園で、神に禁じられた禁断の木の実を食したことに始まっているからです。これは、神への不信頼ならびに不服従という罪でした。これによって、神と人とのつながりが切れてしまったこと、これが罪の根本なのです。
しかし、より具体的には、神の律法を犯したことが罪なのです。
神の律法は、十戒です。これは神がご自身の指で二枚の石の板に刻んで、人間にお授けになったものです。前の一枚には、一条から四条までが記されており、これは神に対して守るべき戒めが記されていました。後の一枚には五条から一○条まで記されており、これは隣人に対して守るべき戒めです。
ところで、いま仮にわたしたちが、人への戒めを守ったとしましょう。しかしながら、それだけでは罪がないことにはなりません。なぜなら、神への戒めを守っているかどうかという、もう一つ別の面の罪があるからです。じつはこの神に対する戒めにおいて、われわれは一人残らず、明白な律法違反者なのです。
「イスラエルの人々よ、主に帰れ。あなたがたは、はなはだしく主にそむいた」(イザヤ書三一ノ六)。
ここに、神に対する背きが罪であると指摘されています。われわれは神の律法を鏡として、これに自分の姿を写してみることにより、はじめて自分の罪深さに気づかされるのです。
さらに、われわれは十字架にかけられたキリストを仰ぐとき、人間の罪に対する神の怒りと神の刑罰とを見ることによって、徹底的な罪認識に導かれるのです。

2、罪を悲しみ厭うこと
「わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます」(詩篇三八ノ一八:18)。
これは、イスラエルの王ダビデの言葉です。ダビデは殺人と姦淫の罪を犯したのですが、それを預言者ナタンに指摘されて、その罪を認め、そしてそれを深く反省し、かつ心からその罪を悲しんだことが、この言葉によってわかります。
またイエスは、次のようなたとえ話をお語りになりました。ある日のこと、ふたりの人が神を礼拝するために宮にやってきました。ひとりはパリサイ人であり、他のひとりは取税人でした。パリサイ人は神の前に、自分の正しいことを並べ立てて誇っていますが、取税人はどうしたでしょうか。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と」(ルカによる福音書一八ノ一三)。
このように話されてのち、イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」(ルカによる福音書一八ノ一三、一四)。
この譬え話が示していますように、真の悔い改めは、罪を罪として認めるだけではなく、それを心から悲しみ、かつ厭う気持ちがなければなりません。
罪を悲しむと言っても、それには二種類の悲しみかたがあります。
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(コリント人への第二の手紙七ノ一○)。
この二つの悲しみとは、どのような違いを持つものなのでしょうか。聖書の中から、それぞれの実例を挙げてみてみたいと思います。
まず前者ですが、イエスの弟子ペテロの経験がそれをよく物語っています。マタイによる福音書二六ノ三一からあとに、こんなことが記されています。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた、『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。《わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう》と、書いてあるからである』…すると、ペテロはイエスに答えて言った、『たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』。イエスは言われた、『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』。ペテロは言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』』。
ところが、実際にイエスが捕まると弟子たちは、イエスの予告どおりみな散ってしまったのです。けれどもペテロは、さすがにイエスの身の上が案じられたのでしょう。裁判の開かれている大祭司の庭に忍び込んで、裁判の成り行きを見守っていました。これを見つけた女中がペテロにむかって『あなたもあのガリラヤ人と一緒だった』と声をかけたのです。ペテロがこれを否定すると、ほかの女中や他の人々までが、同じように言い出しました。慌てたペテロはそれをも打ち消して、『わたしはあの人とは何の関係もない』と、三度も否定しています。
「するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた」とあります。
その結果、ペテロはイエスを裏切った罪を認め、悔い改めてイエスに立ち帰ることにより、罪を許され、使徒の務めに生涯をささげています。
これに対して後者の場合に最も当てはまるのは、やはりイエスの弟子の一人ユダです。彼はイエスを敵の手に売り渡したのですが、その彼はどうしたでしょうか。
「そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪の定められたのを見て後悔し、銀貨三十を祭司長、長老たちに返して言った。『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして罪を犯しました』しかし彼らは言った。『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首を吊って死んだ」(マタイによる福音書二七ノ三〜一○)。
このように、彼はイエスを売ったことを死ぬほどに悲しんでいながら、悔い改めて神に帰ることをしませんでした。そのため、結局は自分の身を破滅に陥れる結果となってしまったのです。
以上は、神にある悲しみと、世の悲しみとの違いはどこにあるのかをよく示しています。

3、罪の告白
「主はまたモーセに言われた、『イスラエルの人々に告げなさい、[男または女がもし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、…そのとがをことごとく償わなければならない]』」(民数記五ノ五〜七)。
罪が公に関係する場合は公に対して、ただし対象が特定個人の場合にはその人に対して、その罪を具体的にあげて告白することが求められています。
それと同時に、これらすべてを神に対して告白し、ゆるしを求めなければなりません。聖書に次のように記されています。
「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言二八ノ一三)。
また民数記には、償いについても言及されていますが、相手に損害を与えた場合には、可能なかぎりそれに相当する償いをするのは、当然のことです。
これについても、模範的なよい例が聖書に記されています。それは、イエスによって罪をゆるされ、悔い改めたザアカイの話ですが、彼は次のように宣言しています。
「ザアカイは立って主に言った。『主よ、わたしは誓って…もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します』イエスは彼に言われた、『きょう、救いがこの家にきた…』」(ルカによる福音書一九ノ八、九)。
もちろん、償いは四倍と定められているわけではありませんが、ザアカイは救われた感謝の気持ちに溢れていたため、それをこのような形で表そうとしたのです。

4、罪を捨て去ること
罪は告白して赦しを求めることが必要であると同時に、それを棄てることが求められます。
「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ書五五ノ七)。
また姦淫の罪を犯した女が、イエスのもとに連れてこられたとき、悔いくずおれるこの女にたいして、イエスは「わたしもあなたを罰しない」と言われました。が、それと同時に「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」とお諭しになっています。(ヨハネによる福音書八ノ一一)。
救いは、罪からの解放なのですから、罪を赦された者は、罪を棄て罪から離れることが必要です。

5、神に立ち帰ること
さきに引用したイザヤの言葉にも見られたように、罪を赦されたものは、罪を捨てると同時に、神に立ち返ることが必要です。
パウロの伝道の目的は、異邦人をして、「彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとに帰らせ」ることにありました。(使徒行伝二六ノ一八)。
またイエスの譬え話にでてくる、あの放蕩息子は「本心に立ち帰って」父のところに帰って行ったとあります。
どんなに罪を認め、それを悲しみ、また罪を捨てたとしても、最後に神のもとにくるのでなければ、結果として赦しは無意味となり、それは救いにつながらないことになってしまいます。
このことは、はげしく後悔しながら、しかしイエスのもとに帰ることをしなかったユダをみれば、なるほどとだれもが頷けるのではないかと思います。

悔い改めが必要な理由

1、悔い改めは、人生の方向転換であり、生涯の変革です。サタンに従う罪の生活から、神にしたがう義の生活への変化が見られなければなりません。言い換えれば、罪と悪習慣を改め、矯正されなければならないわけです。
その場合、著しい変化が見られる人もあると思いますが、表面的には人柄や生活になんの変化もみられない人もいるでしょう。しかし、人生の意味目的が変わり、人生の価値観にも変化が起こって、人生の生き方それ自体に方向転換が見られるなら、それはその人が悔い改めた何よりの証拠なのです。
もちろんなかには、どこからみてもりっばで悔い改めの必要などないように見える人もいるかと思います。生まれながらにして、遺伝的に善良な人がおり、そのうえ恵まれた環境で育った人なら、りっぱであるのは当然でしょう。
では、そういう人は悔い改めの必要はないのでしょうか。たしかに生活や行動に、道徳的改善や矯正は必要ないかも知れません。しかしやはり悔い改めは必要です。なぜなら、ある神学者がこう言っています。
「すべての人が非常に不道徳であるのではないが、すべての人は罪人なのである」。
人間はすべて罪人であり、罪人はたしかに、これまで神に背を向けていたのですから、神を信じたら当然神に向き直らなければならないはずです。ですから、生きる姿勢において、すなわち人生の方向を変える意味において、やはり悔い改めが必要なのです。
悔い改めとは、われわれ人間が、罪から義に、死の道から命の道に、サタンの支配から脱して神の支配のもとに立ち帰ること、そして、そのために神の呼びかけに対する反応、救いへの招きに対する応答など、そうした人間の生き方にみられる変化をいうのです。

2、ある人は、神の愛は絶対であり、神のゆるしは無条件のはずではないのか。救いのわざが神において完結しているというのなら、このままゆるしてくれてもよさそうなものを、どうして悔い改めを条件として求める必要があるのか、と言います。
しかし、もし罪を犯した人が罪を認めず、悪に気づいていない場合、それをゆるしてやることに、はたして何か意味があるでしょうか。
たとい本人が悪事を認めはしても、それを少しも悪いと思ってはおらず、反省もしなければ、良心のとがめも感じていないのに、それを赦すなら、どういうことになるでしょうか。
また本人が罪を認め、悪いと思ってはいても、それを正直に告白してお詫びをしようとはしない。にもかかわらずそれを見逃すなら、それはその人のためになるでしょうか。
あるいはまた、仮にお詫びをしてゆるしを求めたとしても、本人自身に悪事を改める気持ちがないのに、それをゆるしてやることは、はたしてその人のためになるでしょうか。
たとい当座は謹慎して、行い済ましていても、こないだはやり方がまずく失敗したが、こんどだれにも見つからずに、うまくやれそうな時が来たら、こんどこそ成功させてみせると、密かに心に期しているとします。そのような人をゆるしてやることは、却ってその人の悪を是認し、その人を罪の中に放置することにならないでしょうか。
もしそのようなかたちで、罪を赦すなら、その結果は、相手を罪から救うことにならないばかりか、かえってその人を罪のなかにとどまらせ、結局は罪と共に滅びていくのを見逃すことにならないでしょうか。
神がわれわれの罪をゆるす条件として、悔い改めを求められる理由は、まさにそこにあるのです。

 

悔い改めの結果

では、われわれが悔い改めた場合、どういうことが起こり、その結果、何が得られるというのでしょうか。

1、天に喜びがある
ルカによる福音書の一五章に、イエスのお語りになった譬ばなしがあります。
失われた一匹の羊が谷間で見つけ出され、檻に連れ帰られた話と、持っていた十枚の銀貨のうちの一枚が失われたとき、その女が暗闇の中を探し回った結果、やっと見つけ出した話、さらには家出をして死んだと思っていた息子が生きて帰ってきた話、そのいずれも神から失われていた罪人が、神によって救われた場合のことを例えたものです。その話の一つ一つが、次のような言葉で結ばれています。
「よく聞きなさい。…罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」(ルカに依る福音書一五ノ七)。
「よく聞きなさい。それと同じように、罪人のひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」(同右一五ノ一○)。
「このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(同右一五ノ三二)。
以上のように、一人の罪人が悔い改めて神に立ち帰るなら、全天に大いなる喜びがあるというのです。

2、罪のゆるしが与えられる
「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ書五五ノ七)。
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ち返りなさい」(使途行伝三ノ一九)。
罪人であるわれわれにとって、逃れの道は神のゆるし以外にはありません。
しかし、そのゆるしをえるためには、なにが必要でしょうか。それは、いかなる犠牲、いかなる宗教的儀式も役には立ちません。たとい最良の善行であっても、ゆるしを得るための償いにはならないのです。
ゆるしに必要なものはただ一つ、それは悔い改めだけです。ただし、それは悔い改めの功徳や功績によるのではありません。
悔い改めは、ゆるしの条件であるとはいえ、悔い改めは人にゆるされる資格を与えるだけで、ゆるしの権利や権限を与えるものではありません。神のゆるしは、一方的な神の恵みの賜物であることに変わりはないのです。

3、聖霊が与えられる
「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりひとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝二ノ三八)。
では、ここでいわれている聖霊を受けるとどうなるのでしょう。イエスは次のように約束しておられます。
「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネの福音書一六ノ一三)。
しかも、聖霊はキリストの名代(代理者)なので、聖霊を受けることはキリストの内住を意味します。その結果、われわれのうちに何がおこるのでしょうか。
「神が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、…」(ヨハネの第一の手紙五ノ一一、一二)。
キリストを信じた者は、いますでに永遠のいのちをもち、その命を生きる者となるのです。

4、神の子となる
悔い改めの結果、もたらされるものの中で根本的、究極的なものは、人間としての完成された人格的理想像ともいうべき神の子の回復ということでありましょう。これについて、使徒パウロは次のように述べています。
「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ人への手紙八ノ一四〜一七)。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。
わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子なのである。しかし、わたしたちはどうなるのか、まだ明らかではない。彼が顕われる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(ヨハネの第一の手紙三ノ一、二)。
われわれが神の子となるということが、どういう意味をもつものであるのかが、ここにあますところなく言いつくされています。神の子は新しい身分であり、キリストと共同相続人となることであるという。なんという特権でありましょう。
しかし、それはまだ隠されていて世の人には見えない。周りの人となんら変わったところがないように思われるかもしれない。だがそれは、時の問題である。時が来れば、青虫が蝶に変身するように、神の似姿に変貌するときがくるというのです。そのときの光栄と歓喜、充足とさいわいはどんなでありましょうか。

悔い改めへの招き

神は旧約の預言者エゼキエルに、このように仰せになっています。
「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる。わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル書三三ノ一一)。
ここでいわれている悪人とはだれのことでしょうか。これは強盗や殺人など犯罪人のことではありません。神に背を向けている人のことです。悪しき道とはどんな道でしょうか。神への不服従のことです。
が、神はこのような罪人に対して、さばくのが目的でもなければ、滅ぼすのがみ旨でもない。むしろ、背反と滅びの道を離れて生きることを強く望んでおられるのです。
しかも神は、われわれ罪人のために、すでに救いの道を構じてくださっています。だれも滅びる必要はないのです。だれでも生きることができるのです。それなのに、「どうして死んでよかろうか」と、神は悲痛な思いをこめてわれらに訴えておられます。
「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。…ある人々がおそいと思っているように主は約束の実行を遅くしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(ペテロの第二の手紙三ノ八、九)。

悔い改めた者の新しい生き方

罪とは、神に対す無関心、神の言葉に耳を貸そうとしないこと、いいかえれば神への背きを言います。したがって、悔い改めた者は、当然神の方に向き直り、神に従う生活になります。しかも、その服従はおざなりの中途半端なものであってはならず、全的服従でなければなりません。なぜなら、神を信じるということは、神と一体になることだからです。
聖書は神と人との新しい関係を主人と奴隷との関係にたとえています。ところが、奴隷というとわれわれはとかく、自由の喪失、人格の否定、を連想しがちです。人の奴隷や罪の奴隷、サタンの奴隷ならその通りですが、神の奴隷はそれとはまったく異なります。なぜなら、神が人間をお造りになるときに、本質的に重要なものとしてお与えくださったのが、この自由意思であったからです。それのみか、神が人間を救おうとされるのも、サタンと罪と死の奴隷となっているわれわれ人間を、それから解放して自由を与えるためでした。
それにしても、せっかく救われて自由の身となったはずなのに、その結果、こんどは神の奴隷となるというのなら、おなじことではないのかと思われる方があるかも知れません。しかしそれは同じではないのです。なぜなら、同じ奴隷でも一方は、自由意思の否定と、強制による服従であるのに対して、他方は自分で自発的に選びとった服従であるからです。
これについて、思い出す一つの物語があります。わが教団の神学校アンドリゥス大学の実践神学の教授、R・A・アンダーソン氏が日本に来られたとき、教授が説教の中で語られた例話を、わたしは永久に忘れることができません。それを聞いて、わたし自身が、自分と神との関係について、それまでの考え方に大きな変化を経験させられているからです。
その例話というのは、つぎのようなものでした。
昔、米国で奴隷売買が行われていたときのことです。立派な体格をした一人の黒人が、奴隷市場の競りに懸けられていました。ところが、彼は大きな声で「おれはもう働かないぞ、殺されても働かないぞ」とわめきつづけていました。見れば背中のあたりに虐待によって受けたと思われる深い傷跡があります。
たまたま馬車でそこを通りかかった老紳士がありました。彼はそれを見ると急に馬車を止め、人をかき分けるようにして競り台に近づいていき、突然「千ドル!」と叫びました。あまりの高値にあっけにとられた奴隷商人たちは、だれひとりそれ以上の値を付ける者はいませんでした。
こうして、その奴隷は老紳士の家に連れて行かれることになりましたが、彼は途々「おれを買っても無駄だぞ。おれは殺されても働かないことに決め込んだんだから・・・」と叫びつづけていました。
ところが、老紳士の家に着くと、どうでしょう。彼に与えられた住いは、小屋ではなく、主人の家の中の綺麗な一室でした。食事も主人と一緒でした。しかも食べ物も家族と同じものでした。奴隷は、不思議な感じがしていましたが、そのうちどんな過酷な労働を課せられるのかと、不安な毎日をすごしていました。しかし、何日経っても働けといわれないのです。不審に思った奴隷は、ある日主人に尋ねてみました。
「あなたはどうして、おれを働かせないのか。いったいなんのためにおれを買ってきたのか?」。
ところが主人はこう答えたというのです。
「わしはお前を働かせるために連れてきたのではない。わしは奴隷売買を非人道的なこととして、むかしから反対している。あの日わしが奴隷市場を通りかかったとき、お前が「おれは働かないぞ!」と叫んでいるのを聞いて、前の主人から、よほどひどい扱いを受けたに違いないと気の毒に思い、お前を自由にしてあげるために身請けしてきたのだ。見ればお前ももう若くはなさそうだ、これからは気楽に、自分のしたいことをして過ごすがよい」。
これを聞いた奴隷の心に、突如として大きな変化が生じました。これまでの主人に対する態度ががらりと変わったのです。それからというもの、彼はやらなくともよいというのに、自分から進んで仕事をみつけて働くようになり、命にかけて主人のために忠勤を励んだということです。
神に救われた者は、神に買い取られたものであり、その意味では、たしかに神の奴隷となった者にはちがいありません。しかし、同じ奴隷でも主なる神との関係は、親子また夫婦の関係となんら異なるところがない。それによく似た関係となるのです。ですから、自由が奪われるどころか、真の自由人となり、神に仕えるのもけっして強制ではなく、自分から進んで喜んで従い仕えるようになるのです。

要点の確認

  1. われわれが救われるのは、行いではなく信仰によるのであるが、信仰によって救われた者には変化がみられるようになる。それを悔い改めという。
  2. 悔い改めとは、神に背いている人間が本心に立ち返ることであり、考え方生き方の変化、すなわちそれは、人生の方向転換をおこなうことにほかならない。
  3. 具体的には、自分が罪人であることを認め、その罪を嫌悪し、その罪から離れて、神に従うようになることである。
  4. 悔い改めはなぜ必要か。神が愛であるというのなら、なぜ無条件で罪を赦してはくれないのか。それは、本人が自分が罪人であることを認めず、認めても反省せず、反省しても詫びようとせず、口で詫びても、生き方を改めようとせず、仮にこれらすべてを果たしたとしても、いっかな神に帰ろうとはしないなら、その人を赦すことにどんな意味があるというのか。そのような赦しは、相手の罪を是認し、放任することになるだけではないのか。相手が悔い改めないのに赦すことは、相手を罪から救うことにはならないばかりか、相手が罪の中に滅び行くのを黙認することにほかならない。悔い改めのない救いは、それ自体何の意味もないものなってしまうばかりか、その人を滅びの定めに固着させるだけであろう。
  5. では、悔い改めることによって何が得られるというのか。罪が赦され、永遠の命が与えられ、神の子とせられる。そのゆえに、神は今日もわれらが、悔い改めて神に立ち返るのを待ちわびておられるのである。