第20課 救いの条件 その2—信仰による義

はじめに

人間はみな罪人であって、だれもが救いを必要としています。
では、われわれが救われるためには何が必要でしょうか。それは、罪のない状態になること、すなわち義が必要です。その義をえるためにはどうしたらよいでしょうか。
それについて、二つの考え方があります。それは、「行ないによる義」と、「信仰による義」です。
前回は「行ないによる義」について考えましたが、この方法によって救いをえることは不可能であることを学びました。今回は、もう一つの考え方、「信仰による義」について学んでみたいと思います。
信仰による義とはなんでしょうか。、これはわれわれが罪人であるにもかかわらず、神がこれを罪のない者、すなわち義人と認め、そのように処遇してくださることなのですが、略してこれを「義認」といいます。

義認の必要

救いの資格また条件としての義の必要については、前回詳しく説明していますので、繰り返すまでもないと思いますが、それを要約しますと、つぎのようになります。天国は罪のない世界であり、義によって支配される世界です。したがって、そこに住む者はとうぜん罪のない義人でなければなりません。これは、誰も否定できない神の国の公理といってもよいでしょう。
しかし、われわれ生来の人間は、この義を持っていません。聖書は明らかに、この地上には「義人はひとりもいない」と宣言しています。しかも、人間はこれから努力して義人になろうと思っても、それは不可能です。それは前回学んだとおりです。
では、ほかに何か方法があるのでしょうか。残念ながらわれわれ人間の側には、もうすでに万策尽きて、まったくお手上げの状態なのです。

義認の備え

しかしながら、この義認にかんして、聖書の告げるところによれば、神ご自身が、人間の行ないによる方法とは別の方法で、われわれが義人として神の前に立つことができるようにしてくださっている、というのです。それはどんな方法でしょうか。
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわちすべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ人への手紙三ノ二一〜二四)。
この聖句によれば、人間が救われるために、神はわれわれがこれまで試みてきた方法とはまったく異なった別の方法によって、神の前に義人として立つことができるよう、特別の手立てを構じてくださったというのです。それは、キリストの犠牲によって備えられたもので、われわれがそれを得るための方法は、行ないではなく信仰によるというのです。
そのことわりについては、「救いの計画」というテーマで、すでに学んだはずですが、この地上において、神の前に義と認められるにふさわしい方があるとすれば、それはただひとり、神が人となられたおかた、すなわちイエス・キリストだけなのです。
ところが、キリストはご自身のものであるその義を、われら罪人のために用意し、提供してくださっているというのです。そして、そのことをある象徴によって示しているのが、次の出来事やたとえ話などです。

一、いちじくの衣と皮衣
まず、創世記の三章にこんなことが記録されています。アダムとエバは、サタンの惑わしによって、神から禁じられていた木の実を食べた結果、光の衣が消え失せ、裸の姿がさらけ出されました。心に恥じらいをおぼえた二人は、いちじくの葉をつづり合わせて衣をつくり、腰に巻いたとあります。
ところが、神はそれを脱がせ、神ご自身が用意された皮の衣を、彼らに着せてくださったというのです。この場合の衣というのは、義を象徴的に示しています。すなわち、ふたりが自分たちでこしらえたいちじくの葉の衣は、行ないによる義を象徴し、神が用意し着せてくださった皮の衣は、信仰による義を象徴しています。
われわれ人間は、行ないによっては、義人として神の前に立つにふさわしい者とはなりえない。神への信仰によって、はじめて義人として認められ、神に受け入れていただくことが可能になる、ということをこれは、象徴的に示しているのです。
なお、皮の衣は子羊を殺してつくった衣であり、これは十字架の上で屠られるキリストを象徴していたのでした。
このことは、つぎのことによって裏付けられているといってよいでしょう。イエスは三○歳のとき、公生涯にはいられたのですが、彼は荒れ野において四○日間断食をされ、サタンの誘惑と戦って勝利されました。その上で、いよいよ救い主としての働きを開始されたのですが、それに先立って、イエスはヨルダン川にやってこられ、イエスの先駆者として神から遣わされていたバプテスマのヨハネから、バプテスマをお受けになっています。
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」(ヨハネによる福音書一ノ二九)。
これによって、神がアダムのために用意してくださった皮の衣は、小羊の犠牲によるものであり、これはのちに人類の身代わりとなって、十字架上で死なれたキリストを指し示していたことがわかります。そして、皮衣はいうまでもなく、さきに述べたようにキリストの義の衣の象徴であったのです。

二、汚れた衣と清い祭服
また、ゼカリヤ書の三章には、預言者が神から見せられた異象の記録があります。大祭司ヨシュアが汚れた衣を着て主の使の前に立っています。その右にサタンがいて、ヨシュアを訴えています。
「このヨシュアの身なりはどうですか。彼はとても神の前に出られるような者ではありません。彼は罰せられ、滅ぼされてとうぜんです」。
ところがみ使は、そばにいる者たちに命じて、その汚れた衣を脱がせ、祭服を彼に着せ、また清い帽子をかぶらせてくれました。そして「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた」と宣言されました。(このみ使というのは、どうやら受肉以前のキリストご自身のように思われます)。こうして、サタンは口を封じられ、ヨシュアは憚ることなく、主の前に立っていることができたのでした。
この場合、ヨシュアが着ていた汚れた衣は、行ないによる義を象徴しており、み使が着せてくれた祭服は、信仰による義を象徴的に示しています。

三、婚宴の礼服
さらに新約聖書の中にも、これに類することがいくつかあります。そのひとつはマタイによる福音書二二章に記されている物語です。これはイエスのお語りになった譬え話なのですが、婚宴の譬えとして有名です。
ひとりの王が婚宴を催し、大勢の者たちを招待しました。しかし、彼らはそれぞれ、さまざまな口実を設けて、招待を断っています。これは、世の多くの人が、神の救いの招きを容易に受け入れようとはしないことをたとえています。
そこで王は、そこらにいる人を、だれでもいいからみな連れてくるように命じました。こうしてどうにか客席は満たされたのですが、その中に礼服をつけていない者がいました。それと知った王はたいへん怒って、この者の手足をしばり、外の暗闇に放り出したというのです。この譬え話は何を語っているのでしょうか。
婚宴に招かれた者たちというのは、みな貧しい人たちで、礼服など持っているわけがありません。しかし、これはじつは、会場の入り口に用意されていたものだったようです。客人はそこで差し出されたものを羽織って中に入れば、招待客としての扱いを受けるようになっていたのです。
ですから、礼服をつけていなかった人というのは、横着でわざとそれを受け取ることを拒んで、普段着のむさくるしい姿で列席をしたわけです。いわば、ひどく礼を失する振る舞いをしているのです。これではとても、婚宴にふさわしい客人とはいえません。そこから追い出されてとうぜんというべきでしょう。
この場合の普段着は、行ないによる義を象徴するものであり、礼服は、信仰による義を象徴的に示しています。
以上によって、われわれが天国に入るための資格また条件である義の衣は、神が用意し、提供されるものであることがわかります。それ以外のものは、天国に入る資格また条件としてはふさわしくないということなのです。この礼服、すなわち義の衣、これはキリストの犠牲によって用意され、愛と恩恵によって提供されるものである点に、とくに注目する必要があります。
キリスト降世の約八百年前、預言者エレミヤはつぎのように預言していました。
「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」(エレミヤ書二三ノ五、六)。
神がここに名指しておられるダビデは、紀元前千年頃の人です。彼はイスラエルの名君でしたが、世の救い主となられる方は、このダビデの子孫から世に出るという預言です。この預言のとおり、キリストはダビデの子孫としてお生まれになっています。そして、このキリストは「われわれの義」ととなえられる、と告げられていたのです。
しかも、この義について、使徒パウロはつぎのようにすすめています。
「あなた方は、主イエス・キリストを着なさい」{ローマ人への手紙一三ノ一四}。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」(ガラテヤ人への手紙三ノ二八)。
このように、キリストご自身がわれらの義となられるという。この義を衣として身にまとうことによって、はじめて、どんな罪深い者も神の前に罪のない者として、義人として立たせていただくことができるというのです。

義認の方法

ではいったい、キリストの義がどうしてわれらの義となりうるのか、そのようなことがどういった理由によって可能とされるのか、その秘義についてこれからできるだけの説明をしてみたいと思います。

ローマ書の五章一二節から二一節に次のようなことが記されています。

1、この世に、罪と死が入ってきたのは、ひとりの人アダムによる。すなわち、人類の最初の先祖アダムというひとりの人によって、罪と死がこの世にはいり、それが全人類におよんだというのです。これに対してキリストは、このアダムに代わり、いわば第二のアダムとなってこの世にお現れになり、義と命を全人類に及ぶようにされたということなのです。
それはどのようにして可能となったのかということですが、まずキリストは、神であられるのに人性肉性を身にまとって、この世にお降りになりました。そして、第一のアダムとおなじように、サタンの誘惑にお遭いになり、これに見事に勝利されました。しかも、キリストは全生涯をつうじて罪のない完全な生活を送られたのです。聖書に、こう記されています。
「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足のあとを踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、くるしめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、ひつじのようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」(ペテロの第一の手紙二ノ二一ノ二五)。
ここで言われていることの要点は、キリストはこの地上において、罪のない完全な生涯を送られたということです。しかもそのキリストが、われわれ罪人の身代わりとなり、罪にたいする刑罰を受けて十字架上で死なれた。こうしてキリストはわれらの罪をその身に負い、ご自身の義をわれわれ罪人に提供されるというのです。

2、さらに使徒パウロはこう言っています。
「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ人への手紙四ノ二五)。
すなわち、キリストはわれわれ罪人の身代わりとなって死なれた。このキリストの死によって、われわれの罪はきれいに始末されたわけです。しかも、キリストは死を滅ぼしてよみがえられたわけですが、キリストがわれわれの身代わりに死なれたというだけならば、それによってほんとうにわれわれの罪が除去されたのかどうか定かではない。
しかし、彼が復活することによって、たしかに彼の死が、われわれのための身代わりの死として、父なる神に認められ、受け入れられたことが、実証されたことになるわけです。すなわち、あがないの有効性が証明されたということなのです。

3、つづいてパウロはこのように説明しています。
「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらにイエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ人への手紙三ノ二五ノ二六)。
こうして、キリストの義をわれわれの義とすることによって、神は罪人なるわれわれを義と認め、また受け入れても、それは不正でもなければ、不義でもない。むしろそれは合法的なことであり、しかもそれによって、神の義が、かえって全宇宙に宣揚され、立証されることになったと、パウロは告げています。

義認の条件

以上によって、天国に入るための資格また条件としての義の衣は、イエス・キリストによって備えられていることが明らかとなりました。
では、われわれがその義を所有するためにはどうしたらよいのでしょうか。われわれが義なる者と認められるために、人間の側のなすべき分はなんでしょうか。
このことを考えるにあたって、忘れてならないのは、つぎのことです。
「あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペソ人への手紙二ノ八)。
これがまず、神の救いを理解するための大前提として、しっかりと据えられていなければなりません。すなわち、われわれが救いに預かるために必要とされる義は、われわれ自身のうちにはなく、神から出たものであるということです。いわば、神の一方的な恩寵によるということ、これをわれわれの信仰における動かすべからざる礎石として、しっかりと据えておかなければならないのです。言い換えれば、救いはわれわれ人間の行いや功績によって得ることは絶対にできないということなのです。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ人への手紙三ノ二三)。
この義を所有する方法はただ一つ、神が提供なさるものを信じて受け取ることだけです。
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。それにはなんらの差別もない。・・・
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ人への手紙三ノ二二、二八)。
この神の恩寵の性質また内容について、パウロは次のように説明しています。
「いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ローマ人への手紙四ノ四)。
救いが、おのが行ないによるなら、それは正当な報酬にほかならない。とうぜんの権利ということになる。だが、はたらきも功績もないのに与えられる救いなら、それは神の一方的な恩寵によるのであって、こんなありがたい話はない。人間の側には誇るべきものは何もない。ただ感謝があるのみ、これがわれわれに提供されている救いであるというのです。

救いが信仰による理由

それにしても、救いが善い行いや人間の努力によってではなく、信仰によるというのはなぜなのか、それがどうにも納得いかないというひともいます。あまりにも虫がよすぎる話のように思われてならないということのようです。
ある教会学校の先生が、この信仰による救いという聖書の教えを、なんとかこどもたちにわからせたいと思い、いろいろ説明したのですが、なかなか理解できない様子でした。そこで先生は、こどもたちを年齢順に横並びに先生の前に立たせ、何思ったか万年筆を取り出して、それを生徒に見せ、こうもうしました。
「私は、自分のこの万年筆をだれかにあげることにする。ほしいひとは受け取るように」
そういって、先生はまず最年長のこどもに、それを差し出しました。
ところが、その生徒は受け取ろうとしません。そのこどもは、万年筆が貴重品であり、それをただで下さるなど、あり得るわけがないと思ったのでしょう。そこで、先生は自分たちをからかっているに違いないと考え、手を出して万年筆を受け取ろうとはしませんでした。

先生は、次のこどもに万年筆を差し出し、「これを君にあげよう」というと、その子はニヤリとわらって、やはり受け取ろうとしません。なにかこの話には裏があるに違いないと勘ぐって、だまされてなるものかと思ったためです。
先生は、三番目のこどもにたいして、「ほかの人が入らないというから、あなたにあげる」ともうしますと、その子は手を後ろに引っ込めて、やはり受け取ろうとしないのです。下手に手を出して「それはうそだよ」と言われ、恥をかかされたら大変だと思った様子です。
最後に先生が、最年少のこどもに「君はどうかね、もらってくれる?」と万年筆を差し出すと、そのこどもは「ほんとうですか。それならわたしがもらいます」といって、差し出された万年筆を受け取り、自分の鞄にそれをしまいこんだというのです。
これを見たほかのこどもたちが、騒ぎ出しました。
「先生!あいつはほんとにもらったとおもっているよ。返さないかもしれないよ」。
それにたいして先生は「いいよ返さなくて・・・だってほんとにあげたんだから」というと「なあんだ、ほんとうだったのか。そんなら自分がもらっておけばよかった」とみんなとても悔しがったというはなしです。
この話が示しているように、われわれ人間は、それが価値あるものであればあるほど、ただで手に入るということを、容易に信じることができないという、本来的傾向があります。そうした恩恵的贈り物を、ただで受け取ることを、不誠実な行為のように見なす人さえあるのです。そのため、たといそれに相当する対価とはならないまでも、それらしいものを相手に受けとってもらおうとします。慶弔の金品に対する「お返し」などに、それが象徴的にみられるように思います。
たぶんそれは、「いくらなんでも、ただでいただくというわけにはいかない」という「恩義に対する当然の返礼」といった日本人特有の、儀礼的気持ちのあらわれなのでしょう。しかし、聖書にはつぎのように記されています。
「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。もしアブラハムが、その行ないによって義とされたのであれば、彼は誇ることが出来よう。しかし、神のみまえでは、出来ない。なぜなら、聖書になんと言ってあるか『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きがなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている。

「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、
さいわいである。
罪を主に認められない人は、幸いである」(ローマ人への手紙四ノ一〜八)。

すなわち、イスラエルの先祖アブラハムが神に義と認められたのは、何によるのか。聖書には、それは行いではなく信仰によると書いてあるではないか。もし救いが行ないによるということになれば、それはその人の働きに対する当然の支払いということになってしまい、それは恩恵ではなくなってしまうではないか、というわけです。
だが、ダビデも言っているように、救いが幸いであるのは行いではなく信仰によるからである、というのです。もしわれわれが、救いを得るためには行いが必要であると考えて、行ないにつとめるなら、それによって、せっかくの恩恵による神の救いを割り引いてしまうか、台無しにしてしまうことになりかねない。なぜなら、神の救いは、それ自体が完璧で十全なものであるからです。それにもかかわらず、人間の側の行いをそれに加えなければならないかのように振る舞うなら、そのことによって、じつは神の救いの完全性を否定し、破壊することにもなりかねないのです。
これについて、わたしは格好の例話となるおもしろい一つの経験があります。わたしは北支で終戦を迎えました。現地ではまだ戦いに負けてはおらず、武装解除もされていませんでしたが、本土が敗戦になったということで、兵隊はすっかり虚無的になってしまいました。わたしも、なにもかも空しくなり、持ち物までが、無価値で無意味なものに思えてしまったのです。そのため、持っていた時計を腕から外し、ある初年兵に「これを欲しければ、君に上げる」と言ってそれを差し出したのです。その兵隊は、すこし顔を紅潮させながら「本当ですか」と叫んで、それを受け取りました。しばらくしてのち、彼はわたしのところにやってきて、何かを差し出したのです。見るとそれは、一足の靴下でした。
わたしはそのとき、なんともいえない複雑な気持ちにさせられたことを思い出します。一面においては、その兵隊の誠実で実直な気持ちをほほえましく思う反面、貴重品である時計が一足の靴下同然に扱われてしまったような感じがして、ちょっぴりさびしい気持ちにさせられたのも否定できない事実でした。どうせもらってくれるのなら、「お返し」などしないで受け取ってくれたほうが、時計の価値が百パーセントそのままの形で相手に渡ったことになり、同じ上げるにしてもそのほうがすっきりした気持ちになりえたはずなのに、というのがそのときのわたしの正直な気持ちでした。

わたしのこの経験は、そのときは何の意味もないつまらない出来事にすぎなかったのですが、わたしがキリスト教に入信することによって、俄然、それがとても深い意味を持つ経験として、思い起こされるようになりました。すなわち、わたしが兵隊にあげた時計は、恩恵によって与えられる神の救いの譬えとなり、兵隊がわたしにもってきた靴下は、人間の善意や良い行いの格好のたとえとなったからです。
神の救いは百パーセントの恩恵です。これに対して人間の行いは、神の恩恵による完璧で十全な救いを割り引いたり、台無しにしたりする以外のなにものでもないということなのです。神の救いは、まるまるそのままを神の恩恵として受け取るべきであり、人間の行いはたとい善意とはいえ、それを神の救いに加えようとするとき、結果的には神の救いを軽視し、無視し、これを不十分なものとして退けることにもなりかねないということなのです。
それにしても、信じるだけで罪がゆるされ、神の子と認められて天国に救われるというのでは、あまりにも安易にすぎないか、そんなことで果たして永遠の命の救いがほんとうに得られるものなのだろうか、と首を傾げる人がすくなくありません。
では、次のたとえによる説明ならどうでしょう。聖書は罪を負債にたとえています。ある婦人が、自分の勤めている会社から、親譲りの負債でもあるのかどうか、それは一生かかっても返済しきれないほどの莫大な借金をかかえて苦しんでいるとします。彼女は、まじめに働いてそれを少しずつ返してはいますが、おそらく死ぬまで自由になれず、自分の人生は、借金返済のための働きで一生を終わってしまうのかと思うと、ともすれば絶望に打ちひしがれてしまうのでした。
ところが、彼女の勤めている会社の社長が、彼女の誠実な人柄と真面目な働きぶりに目を留め、跡取り息子の嫁にしたいとつよく望みました。もちろん、彼女の家庭の事情は何もかも承知の上のことでした。
ところで、彼女は社長の息子と結婚することによって何が起こったでしょうか。ふたりの男女が結婚することによって一体となる。一体となることによって、苦楽を共にすることになります。そのうえ、地位も名誉もそして財産も共有することになる。その結果はどうか。一生働いても返済しきれなかったはずの借金が、たちまち消えてしまいます。なぜなら、夫がその負債を引き取ってくれることによって、貸借関係それ自体が、自然消滅のかたちで、解消されてしまったからです。
その上、彼女は一躍たいへんな資産家になってしまいました。なぜなら、結婚することによって、夫の財産を共有する身となったからです。
この場合、彼女は結婚によって、自分の品性や人格、才能や力量が変わったというわけではありません。それは前のままであったでしょう。しかし、彼女の境遇や立場が変わったのです。境遇や立場が変わることによって、彼女の身の上のすべてが一新したのです。

それと同じように、わたしたちが神を信じるということは、神と一体になることにほかなりません。神と一体になるとき、われらはそのおかれる立場も変わります。その結果、われらのものは神のものとなり、神のものはわれらのものとなるのです。すなわち、罪と死という負い目は消えてなくなり、義と命という資産を神と共有することになるわけです。(もちろんそれは、人間が神になることを意味するものではありませんが、しかし人間は、神に在ってすべてを所有し、支配する者となるのです)。
この場合、問題はただ一つ、神が提供される救いへの招きを、信仰をもって受け入れるか、それとも不信仰によって拒みしりぞけるか、その選択いかんにかかっているということなのです。
以上、救いはどうしたらえられるのか。それは人間の行ないによってはえられない。なぜなら、人間は生まれながらの罪人であり、罪人の行いは、どんなに骨折って努力しても完全にはなりえないからです。
人間として完全といえる方は、神が人となられたイエス・キリストお一人だけなのです。このキリストがご自身の完全な義を、わたしどもに提供してくださっているのです。これを、わたし共のものとするために必要なものは、信じて受け取るということだけなのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書三ノ一六)。

義認の結果

さて、生まれながらの罪人であるわれわれは、イエス・キリストと彼の十字架の死による犠牲、すなわち、あがない(価をはらって身受けする)によって義とされるという。それによって、罪人のわれらが、なんの怖れもなく聖なる神の前に立つことができるようになるというのです。
なんという恵みまたさいわいでしょうか。このことは、具体的にどういう意味をもつものであるかを、聖書の聖句によって検証し、確認してみたいと思います。

1、神が義と認めた者を、だれも罪に定めることはできない。
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(ローマ人への手紙八ノ三三、三四)。

2、神の怒り、すなわち刑罰から逃れることができる。
「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう」(ローマ人への手紙五ノ九)。

3、神とのあいだに、平和が成立している。
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ人への手紙五ノ一)。

4、御国を受け継ぐ者となる。
「これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」(テトスへの手紙三ノ七)。

5、栄光が与えられる。
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ人への手紙八ノ三○)。

すなわち、われわれがキリストを信じるとき、神がわれわれを義と認め、そのように処遇してくださる。とするなら、この神以外のだれがいったい、われわれを罪に定めることができるというのか。われわれがこれまで、犯してきた過ちも、われわれを誘惑して罪を犯させたサタンも、その他いかなる者もこれを罪に定めることなどできはしないというのです。
パウロは、「わたしたちはみな・・・ほかの人々と同じく生まれながらの怒りの子であった」(エペソ書二ノ三)。
と述べていますが、この怒りの子というのは、人間は生来怒りっぽいという意味ではなく、神の怒りの下に在るという意味なのです。しかし、神に義とされた者はもはや、神の怒りの下にはなく、したがって刑罰を受けるということもないというのです。
それどころか、われわれは神との間で和解が成立し(敵対関係の解消)、平和が確立したのであるから、これまでのように戦々恐々とした生き方をする必要はもはやなくなるというのです。
しかも、アダムの罪によって失われた永遠の命がふたたび与えられ、天の嗣業、言い換えれば神の支配下に還ったこの世の所有権・支配権が、ふたたびアダムやわれわれ人間に回復されるというのです。そしてそのうえ、あがなわれた者はすべて栄化されるというのですが、これはアダムとエバが禁断の木の実を食べたとき、裸となったとある。これは光の衣が消えた結果でしたが、その消えた光の衣をふたたび身に纏うようになるというのです。
こうして栄化された人間は、時間・空間の制約を受けない自由の体、すなわち、天使のような存在になるということなのです。
このように、義とされ栄化された人間の姿について、紀元前八世紀の預言者イザヤは次のように記しています。彼はまず、義とされ栄化される前の人間をこのように描写しています。
「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る」(イザヤ書六四ノ六)。
では、義とされ、栄化された人間は、神の目にどのように映じているのでしょうか。

わたしは主を大いに喜び、
わが魂はわが神を楽しむ。
主がわたしに救いの衣を着せ、
義の上衣をまとわせて、
花婿が冠をいただき、
花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。(イザヤ書六一ノ一○)。

要点の確認

  1. 人間が救われるために必要なものは、罪のない状態すなわち義である。聖書はこの義を白い衣に例えている。
  2. この義の衣は、行ないによって作り出すことはできない。なぜなら、生まれながらの罪人であるわれわれ人間は、完全な行いなどできるわけがないからである。
  3. けれども、人間に不可能なことを神は可能にしてくださった。神がその義を用意し、これをわれわれ人間に提供してくださっているのである。
  4. それはイエス・キリストのあがないによる。すなわち、神なるキリストが人間の姿でこの世にあらわれ、罪のない完全な義の生涯をおくられた。これはわれわれにその義を提供するためであった。しかも、このキリストは十字架につけられ、人間の罪に対する刑罰を、われわれに代わって受けてくださったのである。
  5. われわれがキリストを信じて、彼と一体になることによって、キリストはわれわれの罪の負い目を一切引き受けて処理し、その上ご自分の義をわれわれに提供してくださるのである。
  6. この義認の恩恵は、どうしたらそれに預かることができるのか。それはキリストを救い主と認め、彼の提供される救いを信じて受け取ることである。
  7. 信じるだけで救われるという、このことに首をかしげる人がすくなくない。そのような救いはあまりに安易にすぎるというのである。しかし、これはふたりの男女の結婚を例にとって考えるなら、容易に理解できるのではないだろうか。ふたりは一体となることによって、苦楽を共にし、あらゆるものを共有するようになる。その結果、負債は清算され、資産は共有となる。神を信じるとき、それとまったく同じことが、われらの身の上に現実となるのである。