第19課 救いの条件 その1—行ないによる義

はじめに

神の目的は、いうまでもなく人類の救済にあります。ただし、この世界をそのまま救うことは不可能です。
罪によって損なわれ、ゆがめられているからです。そのため神は、この世界を再創造される。すなわち、かつてのエデンの園の再現としての新天新地を備えて、救われた人びとをそこへ住まわせてくださるのです。
ただし、そこへはいるためには、関所をとおらなければなりません。それが審判です。
では、どういう人がその関所を無事に通り抜けて新しい聖国に入ることができるのでしょう。そこへ入れる者の資格、また条件はなんでしょうか。世にはあまたの宗教がありますが、いずれの宗教も究極の目的は、われわれが救われるためには何が必要か、どうすれば救われるのか、を説き示すことにあるといってよいでしょう。そして、それについての考え方や説き方によって、いろいろな宗派・教派の別があるといってよいと思います。
したがって、各宗派また各教派によって、その説くところの救いの内容も、救われるための条件もまちまちで一様ではないわけですが、それを次の二つに大別することができようかと思います。すなわちそれは、「行ないによる救い」と「信仰による救い」ということです。日本人のなじみ深い言い方では、「自力と他力」ということになりましょう。
これから、この二つの教えは、その内容においてどういう違いがあるのかを、見てみたいと思います。今回は前者、すなわち「行ないによる救い」について考えてみることにいたします。

天国に入るための条件

新しい世界、すなわち天国にはいるための基本的条件は、正しいこと、聖書の用語でいえば「義」ということです。このことについて、聖書はつぎのように述べています。
「わたしたちは、神の約束にしたがって、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」(ペテロ第二の手紙三ノ一三)。
「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない」(コリント人への第一の手紙六ノ九)。
天国は、正すなわち義によって成り立ち、また治められる国であって、そこに住む者も、とうぜん正しく義なる者でなければならない、というのですが、これに異義を唱える人は、おそらく一人もいないでしょう。
天国は、澄んだ水にたとえることができようと思います。きれいな水のコップに汚れた滴が混入するなら、汚れた滴が浄化されるどころか、逆にせっかく澄んでいるコップの水全体がにごってしまうでありましょう。
そこで問題は、われわれがはたして、天国にふさわしい正しい者であるかどうかにあります。聖書はつぎのように記しています。

「義人はいない、ひとりもいない。・・・
すべての人は迷い出て、
ことごとく無益なものになっている。
善を行なう者はいない、
ひとりもいない」(ローマ人への手紙三ノ一○,一二)。

われわれは、神に背いたアダムの子孫であり、生まれながらの罪人なのです。アダムの統治下にあったこの地上には、義人は一人もいないと告げられています。そうすると、このような人間が救いにあずかるためには、まずもって罪の処理、あるいは罪の除去が絶対の必要条件ということになります。
そこで、どうしたらその罪を取り除いて、神の前に正しい者となることができるかということについて、ある宗教、というより大多数の宗教は、これまで「自力による救いの道」を説いてきたわけです。

罪の除去また解決の方法

宗教の中には、救いを達成するために、種々様々な難行苦行をこころみるものもあります。インドなどには、いまもそのような行者を多くみかけるようです。これは肉体に苦しみを課することによって、魂の浄化を得ようとするわけですが、それとは別に、善い行いに励むことで、道徳的に正しい善なる者になろうとし、それによって救いをえようと精進する人も少なくありません。しかし、そうすることによって、はたして罪や汚れが浄化され、天国にふさわしい者となることができるものでしょうか。
われわれは、自分の意思や努力によって罪を除去しようとするばあい、おぼえなければならないのは、罪を完全に解決するためには、過去の罪、現在の罪、将来の罪、以上三つの面における処理が必要であることです。

1、現在の罪の解決法
このために、これまでいろいろな方法が考えられ、試みられてきました。

A、知識・思索による方法
昔、ギリシャの哲学者たちは、罪とは無知にほかならないと考えました。仏教にも似た考え方があります。
すなわち、罪とは迷いであり、無明であるというのです。無明とは明らかでないこと、いいかえれば無知ということです。ですから、光が明るく照り輝けば、闇は自然に消え失せる。それと同じように、教育が普及し、知識が増せば、罪はおのずと消えてなくなると考えるわけです。
しかし、はたしてそうでしょうか。たとえば、文明の進んだ国には罪がないといえるでしょうか。
実のところ、教育が遅れ、文明が進んでいない国の犯罪は、どちらかというと単純で、それがもたらす影響や、その範囲も限られますが、他方、教育が普及し、文明の進んだ国においては、犯罪も巧妙になり、それが及ぼす影響も、おそろしいほど凶悪で、しかも広い範囲に及んでいます。核兵器や公害など最も顕著な例といえましょう。
これで見ても、知識や学問的思索が罪を解決する方法とはとうてい考えられません。

B、道徳・修養による方法
罪とは不道徳のことであるという、これはだれもが考えることに違いありません。そこから、罪の解決は道徳の向上や修養の研鑽に努めることにある、という人も出てくるわけです。
しかし聖書には、パウロの経験として、つぎのようなことが記されています。
「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行なわず、かえって自分の憎むことを行なっているからである。・・・なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。・・・そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る。・・・そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙七ノ一五〜二四)。
罪というものは、くもの巣やハエ取り紙と同じようなもので、それから逃れようともがけばもがくほど、かえってその中に取り込まれて、ますます身動きできないようになってしまうだけなのです。
われわれ人間はとかく、道徳的に、徳が低ければ救いに遠く、徳が高ければ救いに近いと考えがちです。しかし、道徳には果たして、罪に勝利を得させる力があるのでしょうか。
むかしの話になりますが、徳の高いことで尊敬されている某高等学校の校長先生が、ある日のこと、突然、教会に訪ねてきました。そして「わたしをなんとか救っていただきたい」と、悲痛な面持ちで牧師に助けを求めたというのです。話を聞くと、事情というのはつぎのようなものでした。

この高等学校の生徒間に、しだいに喫煙の風習が広まるようになったのです。責任を感じたこの校長先生が、ある日の朝礼で「校長であるこのわたしも、きょうかぎりタバコをやめる。だから君たちも決心して喫煙をやめてほしい」と訴えたというのです。そしたら、学生たちは、校長先生の言葉にすっかり感動して、ピタリと喫煙の悪習が改まりました。
問題はヘビースモーカーの校長先生のほうです。はじめの一日、二日はなんとか我慢できたものの、三日目ごろには、もうどうにも我慢しきれなくなり、やむなくトイレに入って、隠れてこっそり吸っていました。ところが、それがついに生徒に見つかってしまったというのです。
全校生徒の前で、あのように禁煙を誓ったにもかかわらず、自分の意志や努力によっては、タバコに勝利することがどうしてもできないとさとった校長先生は、ついに宗教に助けを求めるほかはなかったということなのです。
このことが示していますように、人間は道徳や修養によって罪に勝利することは、ほとんど不可能といってよいように思います。

C、信心・功徳による方法
前者は平面的手段とすれば、これは立体的手段といえるかも知れません。が、信心と言ってもこれは、神にすがるというより、神を利用してある目的の達成を図るというものです。ですから、これはやはり自力に変わりはないわけです。それはどういう方法か、具体的には、念仏、唱題、加持祈祷、巡礼、喜捨などがそれでしょう。
こうした信心というものは、善良な人びとの敬虔な真心の表明として、一般に好意的に見られていると思います。しかし、これには妄信や迷信のたぐいのものもないわけではなく、これを嫌悪し遠ざけようとする人もあります。
救世軍の山室軍平氏の著書の中に、こんな例話が紹介されています。
ある婦人が難産で苦しんでいました。このとき、夫が何思ったのか、やにわに着物を脱いで裸になり、つるべ井戸のそばに走っていって身をかがめ、井戸水を頭からじゃぶじゃぶかけながら、水垢離をとって何やら祈りのようなことを唱え出したというのです。
「南無大権現様!いまお産で苦しんでいる家内をお助けください。もし無事出産できましたら、あなた様に金の鳥居を建てて差し上げますから・・・」。
床の中でこれを耳にした奥さんが、たいへん驚き叫んでもうしました。
「あなた!何をおっしゃるんですか。いくらなんでも、貧乏のわが家が、金の鳥居など建てられるわけがないじゃありませんか」。
ところが、この主人が奥さんを叱りつけて、こういったというのです。
「なにをぐずぐずしてるんだ。俺がこういって権現様を言いくるめている間に、お前はさっさと産んじまえばいいんだ」。
これはずいぶん極端な話のようですが、とかく信心といわれるものには、似たような特質が共通してみられるように思います。
聖書にも、この種の信心についての言及があります。聖書はこれについて、どのように言っているでしょうか。
「もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心は空しいものである」(ヤコブの手紙一ノ二六)。
「また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしないいがみ合いが起こるのである」(テモテ第一の手紙六ノ五)。
信心は自己の利益獲得や擁護・保全が目的ですから、それに反するものを拒み、これを排除しようとします。場合によっては、神のおしえである真理に対しても敵対的となり、迫害することさえあることを、聖書は告げています。
「ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロやバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた」(使徒行伝一三ノ五○)。
もちろん中には、難行苦行や慈善行為など、真面目に信心につとめている人もいるでしょう。だが、どうでしょうか。かつてイエスは、弟子たちに対して、つぎのような譬え話をされました。
ふたりのひとが祈るために宮にやってきました。ひとりはパリサイ人、もうひとりは取税人でした。パリサイ人はこう祈っています。「神よ、わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」と。
このパリサイ人の断食は、「苦行」であり、収入の十分の一は、宮の奉仕と慈善にも用いられる捧げものでした。これに対して、イエスは弟子たちに、つぎのように説明しておられます。
「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であってあのパリサイ人ではなかった」(ルカによる福音書一八ノ一二、一三)と。
これでみても、信心はとかく人間本位、自己称揚的であって、神はかならずしも、これを加納されるとはかぎらないことが示されています。ことに末の世における信心について、次のように警告されています。
「しかし、このことは知っておかねばならない。終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は・・・信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」(テモテ第二の手紙三ノ一、二、五)。
以上によって、われわれは、知的思索・道徳修養・信心功徳等によっても、現在の罪に勝利し、これを完全に除去することは不可能であることがあきらかです。
たとい、いま仮に現在の罪を完全に処理できたとしても、それで万事OKとはなりません。なぜなら、これから先、失敗すれば、すべてがご破算になってしまうからです。ですから問題は、これから先も罪を犯さないことが、はたして可能かどうかにあります。

2、将来の罪の除去
将来の罪については、つぎのことを念頭におく必要があります。

A、現在の罪に勝利できても、将来罪を犯せば元の木阿弥になってしまう。
たとえば、一万メートル競争で、トップを切って走ったとしても、ゴールの一メートル手前で、転んだらどうなるでしょう。勝利の栄冠は得られないことになります。それと同じように、これまで罪を犯さないでくることができたとしても、この先いつか罪を犯せば、義人とはなれず、天国に入ることもおぼつかなくなります。

B、また、現在罪に勝利できたとしても、それは必ずしも、将来も罪を犯さないという保証にはならない。
これについて、聖書には多くの実例が示されています。聖書にはイスラエルの偉大な指導者モーセについてつぎのような記録があります。
「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記一二ノ三)。
神は、ながいことエジプトにおいて奴隷となっていたイスラエルを救い出すために、モーセをエジプトにお遣わしになりました。そして、イスラエルをエジプトから救い出し、カナンの地に導かれたのでした。神は荒れ野の旅の間、かずかずの奇蹟をもって、イスラエルの民を養い、守り、導かれたのでした。それにもかかわらず、会衆は水が得られなかったことから、モーセとアロンに食ってかかったのです。
「なぜ、あなたがたは・・・この荒野に導いて、われわれをここで死なせようとするのですか。ここには食物もなく、また飲む水もありません」。
このイスラエルの民の、神に対する不信とつぶやきに業を煮やしたモーセは、ついに怒りを爆発させています。
「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
こう叫んで、神が「岩に命じて水を出させなさい」と言われたのに、彼は杖を振り上げ、岩を二度も打ったのでした。その結果、水が流れ出て会衆は渇きをいやすことができたものの、モーセ自身は神のご不興を買ったのでした。それは、なぜでしょう。
「そのとき主は、モーセとアロンに言われた、『あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしがかれらにあたえた地に導き入れることができないであろう』」(民数記二○ノ一二)。
こうしてモーセは、生涯における唯一最大の願望であった神の約束の地カナンに入ることができなくなったのでした。「この地上でもっとも柔和な人」と聖書に記されているモーセでさえ、このような失敗をしているのですから、ましてわれわれのだれが、これから先、罪を犯さないと約束し、誓うことなどできましょうか。
これは、イエスの弟子たちについてもいえることです。イエスは、十字架の死を覚悟し、それを弟子たちにお告げになったときのことです。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた、『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである・・・するとペテロはイエスに答えて言った、『たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』。イエスは言われた、『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう』ペテロは言った、『たといあなたと一緒に死なねばならないとしても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。弟子たちもみな同じように言った」(マタイによる福音書二六ノ三一〜三五)。
弟子たちは、イエスに対し、命にかけて誓ったことばさえも守ることができず、裏切りの罪をおかしています。とするなら、いったいわれわれのうちだれが、将来絶対罪を犯さないなどと断言することができるでしょうか。ですから、使徒パウロは次のように警告しています。
「だから、立っている者は、倒れないように気をつけるがよい」(コリント人への第一の手紙一○ノ一二)。

C、まして、現に罪に敗北しつつあるわれわれが、どうして将来の罪に勝利することなどできようか。
現在罪に勝利できても、それは将来も罪を犯さないという保証にはならないというのなら、まして、いま現に罪の奴隷となっている者が、将来絶対に罪を犯さないという可能性はまったくないというべきでしょう。
ところで、いま仮に現在の罪も、将来の罪も共に処理できたとしても、それで万々歳とはならないのです。なぜなら、過去の罪がまだ未解決のまま残されているはずだからです。これが解決されないかぎり、われわれは依然として、神の前に義人として立つことはできないのです。

3、過去の罪の解決法
われわれが天国に入る者となるために、解決しなければならない最後の難題は、過去の罪の処理ということになります。この問題のために、人間はこれまでいろいろな方法を考えたり試みたりしてきました。

A、償いによる方法
ある人は、これまでの罪は、これから良い行いに励むことによって埋め合わせれば、なんとか帳消しにしてもらえるかのように考えているようです。しかし、はたしてそれは可能でしょうか。
ある子供が、家庭大工をしている父親のそばで、木工のままごとをしていました。ところが、彼は打つべきでない所に釘を打ってしまったのです。そこで彼は父親に助けをもとめました。
「お父さん!この釘を抜いて頂戴」。
父親は「どれどれ」といって、その釘を抜いてあげました。ところが、こどもはそれに満足せず、
「お父さん、釘だけでなく、この釘痕も抜いて頂戴よ」。
と、言ったというのです。これはいかに万能の父親といえども、どうしようもない無理難題というものです。
それとおなじく、われわれも、今犯している罪を改めることはできても、過去に犯した罪を除き去ることまでは、だれにもできはしません。また、これを埋め合わせるということもできないでしょう。それは、釘痕を除くことができないのとおなじ理屈です。

B、忘却による方法
たいていの人は、過去の罪など忘れてしまい、忘れた罪は消えた罪のように、気にもかけず振る舞っているのではないでしょうか。
ある警察官が道を歩いていると、何かにつまずいて転びそうになり、前のめりに数歩前方に飛び出しました。ところが、すぐ前を歩いていた男が突然横から姿をあらわした警官におどろいて、脱兎のように駈けだしたというのです。これをみて怪しんだ警官が、即座に後を追いかけてその男を捕まえ、警察に連行して取り調べたところ、なんとそれはお尋ね者の犯罪者であったというのです。
彼の犯罪というのは、一五年前のもので、長いこと捕まらなかったため、本人も普段は罪のことなどすっかり忘れ、普通の市民としての生活を送っていたのでした。ところが、まったく思いもかけない状態で、横脇に突如現れた警官を見て、良心が火事を知らせる半鐘のように、彼の心に警鐘を乱打したということのようです。
すなわち、時間の経過とともに、いつしか忘れていた罪の意識が、急によみがえって彼を責め立てたのでした。このように、罪を忘れることは、罪がなくなることでは決してないのです。

C、否定による方法
交通違反は、法的に明白な罪です。しかし、「みんなで渡ればこわくない」ということばが、一時人びとのあいだに流行したように、自分では罪だと思っていたことも、周りのみんながそれにならうようになると、罪を罪とも思わなくなるものなのです。いわば多数決による罪の否定とでもいえるようなことが、こんにち世界的な傾向となっています。しかしそれは、はたしてほんとうに罪が罪でなくなることなのでしょうか。そうではないことが、交通事故の激増によって証明されています。みんなで渡ってもダメなことはダメなのです。
生長の家という宗教は、「罪はない」「罪がないと観ずれば、不幸も病気も消えてなくなる」と教えます。これに対して、ある人が言いました。「そんなら、引力の法則など、ない!ない!と観じ、また念じてデパートの屋上から飛び降りてみろ」と。
その結果はどうなるか。頭をコンクリートにぶっつけて死ぬのは必定でしょう。どんなに観じたり、念じたりしても、それによって引力の法則を無にすることはできません。使徒パウロは「罪の法則」ということばをつかっています。罪も法則です。法則とは「定め」のことです。「罪の定め」は死です。いくら、罪はない、ない、と言って否定してみても、死は厳然として存在します。この死こそは、否定によって罪がなくなることはありえない何よりの証拠です。
かつて預言者エレミヤはこう告げています。
「『たといソーダをもって自ら洗い、また多くの灰汁を用いても、あなたの悪の汚れは、なおわたしの前にある』と主なる神は言われる」(エレミヤ書二ノ二二)。
たとい人間がどんな方法で、罪を処理し解消しようとしても、過去の罪は厳然として神の前に憶えられ、記録されていて消えることはない、というのです。
世に、「馬鹿は死ななきゃなおらない」という名セリフがあります。しかし、「罪は死んでも消え去ることはない」というのが、人間の定めであり、人生の鉄則です。

行ないによる救いは不可能の道

ところで、いま仮に過去・現在・未来に渡って、罪を除去し解消することができたとしましょう。しかし、それによってもなお、ことが足りるということにはならないのです。なぜなら、それは負債の弁済にすぎないからです。その人は、まだ無一文であって、乞食同然の状態と変わりはないからです。
天国に入れるための資格条件は、マイナスの解消にとどまらず、プラスの蓄積が必要なのです。なぜなら、マイナスの解消はゼロにすぎず、ゼロにはなんの価値もないからです。価値を持つ者となるためには、プラスの人間となる必要があります。マイナスが罪なら、プラスは義です。
われわれが救いをえるためには、神の前に義人として立つことができなければなりません。義の標準は神の律法です。神の律法は、われわれが義人かどうかを判定する基準です。ところが、聖書はこのように告げています。
「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、この律法を行う者はひとりもない」(ヨハネによる福音書七ノ一九)。
「なぜなら、肉の思いは、神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」ローマ人への手紙八ノ七)。
「義人はいない、ひとりもいない。・・・善を行う者はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙三ノ一○、一二)。
「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」(ローマ人への手紙三ノ二○)。
以上の聖句によってもあきらかなように、生まれながらの罪人であるわれわれ人間は、だれひとり神の律法を完全に守れる者はいません。したがって、行いによって神の前に義人として立ちうる者はひとりもいないのです。
「人の義とされるのは律法の行いによるのではな(い)・・・なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」(ガラテヤ人への手紙二ノ一六)。
それにもかかわらず、世の宗教はこれまで救われるための方法として、この「行いによる救い」の道を説いてきました。そしてほとんどの人が、その方法に依り頼み、その道行きにひたすら精進してきたといってよいと思います。
しかしこの道には、極端に相反する二つの落とし穴があります。われわれがこの道を追求する結果として、その両極端のどちらかに転落する可能性があります。

1、霊的不遜と傲慢
これについて、イエスは弟子たちにつぎのような譬えをお語りになりました。これは前にも一部引用しましたが、ルカによる福音書一八ノ九〜一四の物語です。
ふたりの人が祈るために宮にのぼってきました。ひとりはパリサイ人であり、他の一人は取税人でした。取税人のほうは、どうしたでしょうか。
「取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』」と。
これに対してパリサイ人のほうは、どうであったでしょうか。
「パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』」。
このパリサイ人は、神の前に己を誇っています。それと同時に、かたわらの取税人を見下げています。これは、鼻持ちならない傲慢な態度で、神がもっとも嫌われ、憎まれる不遜な態度です。彼は自己の義を誇ることによって、自己を欺き、他人を欺き、神をも欺いています。
われわれも行いによって、義とされようとするとき、同じように高慢な気持ちをいだいたり、そうした態度を取ったりするようになりがちです。これは、自力による救いの道を説く宗教家によく見られる態度です。

2、霊的悲歎と絶望
これに対して、非常に良心的でまじめなタイプの人は、これとは逆に、一生懸命よい行いにはげむのですが、どんなに努力しても、罪に勝利できず、強くも正しくもなれない。ということで、自己の弱さ、罪深さを深く歎き悲しみます。ついには、そうした自己に絶望し、いつになっても救いの確信を持つことができない。かといって、信仰を棄て教会から離れ去るということもできない。裁きと滅びが怖いからです。そのため、喜びも慰めもない状態で、うめきと嘆息の中に明け暮れるありさま、こうして、まるで灰色につつまれたような信仰にとどまりつづけ、そこから抜け出すことができないでいる人たちがいるわけです。
こうした人びとは、せっかく救いを願い求めながらも、その救いをえるための方法を誤ったために、二つの両極端のまちがった道のいずれかに迷い込み、あてどもなく彷徨いつづけているわけなのです。
これについて、わたしは戦時中のある経験を思い起こします。わたしは現役兵として北支に出征していました。汾河の川辺における軍事教練中のできごとでした。そこは少し濡れているようには見えましたが、綺麗な砂浜地帯でした。ところが、兵隊のひとりが砂中に脚をとられて、だんだん沈んでいくのです。その砂浜は、地面の下に固い地盤のないような、いわば底なしの沼地だったのです。
彼は、沈み込んだ脚を引き抜こうとして、他方の脚に体重をかけるようにして踏ん張ると、その脚が逆にもっと深く沈んでしまうのです。これは大変と、その兵隊を助け上げようとして、そばへ寄ったわたしまでが、同じように沈み出し、ふたりとも腰の辺りまで沈んでしまいました。それと知ったほかの兵隊も、なんとか助け上げようと、手を差し伸べるのですが、助けようとする者自身が、底なし沼の砂中に脚を吸い取られてつぎつぎと沈んでいきます。
しかたなし一同腹這いになり、泳ぐようにしてもがきつづけた結果、かろうじて砂底の固い地盤を探り当て、そのときはひとりの犠牲者もなく、全員無事助かったということがありました。
あとで、付近の住民から聞いた話によると、これまで同じように遭難し、腰から胸と沈み込み、誰も助けることができないで、そのまま生き埋めになった者もいたとのことでした。
わたしは行いによる救いを考えたり話したりするたびに、決まってこの経験を思い起こすのです。行いによる救いの道は、まさに底なしの砂地に脚をとられて沈み行く人のようなものだ、ということができます。
このような人の経験について、使徒パウロは次のように言っています。
「わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」(ローマ人への手紙七ノ一○)。
これによれば、行いによって義となろうとすることは、死の道を行進することにほかならないということです。そのことに気づくとき、われらはパウロの次の叫びが、自分の叫びであることを実感せざるをえなくなるのです。
「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙七ノ二四)。
しかしパウロは、つづいてこう叫んでいます。
「わたしたちの主イエス・キリストによって、神に感謝すべきかな」(同右二五節)。
パウロの絶望のうめきが、突如として感謝の叫びに変わっています。それはなぜなのでしょう。
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」(ローマ人への手紙三ノ二一、二二)。
われわれが目指す天国は、義によって支配される世界です。この国に入るためには、とうぜん神の前に義人として立ちうる者でなければなりません。しかし、われわれは生まれながらの罪人であり、義をもちあわせておらず、これから義を行う力もありません。したがって、天国への救いについては絶望のほかはないのです。
しかし、愛の神はこのようなわれわれをお見捨てにはならず、まったく思いもよらない不思議な方法で、われらを義と認め受け入れてくださるというのです。それはどんな方法かを次回に学びます。

要点の確認

  1. これまで、神の救いの経綸について学んできた。ではわれわれが救われるために必要な条件は何か。天国は義の住む世界であるから、そこに入るためには、義人でなければならない。
  2. われわれが義人となるための方法として、二つの道が考えられている。一つは自力による方法、他の一つは、他力による方法である。世にある宗教のほとんどは、自力による救いの道を説く。だが、これは果たして可能であろうか。  生まれながらの罪人であるわれわれが、義人となるためには、罪を三つの面において処理を考えなければならない。それは、過去の罪と、現在の罪と、将来の罪である。
  3. まず現在の罪に、いかにして勝利するかである。これには、知識・思索による方法、道徳・修養による方法、信心・功徳による方法、などが考えられ、かつ試みられてきたが、いずれも失敗におわっている。
  4. 仮に現在の罪に勝利できても、将来いつか敗北するなら義人とは言えなくなる。将来の罪については、次の三つの点を念頭におく必要がある。  仮に現在の罪に勝利できても、将来罪を犯せば烏有に帰する。現在罪に勝利できても、将来も勝利できるとはかぎらない。まして、現在勝利できないのに将来勝利できるとは考えられない。
  5. たとい、現在の罪に勝利でき、将来罪を犯さないとしても、過去の罪が残されており、これが処理されなければ、やはり義人とはなりえない。  過去の罪の処理方法としては次の三つ、償いによる方法、忘却による方法、否定による方法等が考えられ、試みられてもきた。だが、これらの方法によって罪が消し去られるとは、とうてい考えられない。
  6. そうすると、われわれ人間が、行いによって神の前に立つことは、所詮無理であるといわざるをえない。生まれながらの罪人であるわれわれが、自分の努力で義を得ることは、到底不可能であることが明白である。  にもかかわらず、行いによる救いの道を進もうとする者は、次のような二つの極端な誤りのどちらかに転落することになりかねない。ひとつは霊的傲慢・不遜、他のひとつは霊的絶望・悲歎である。
  7. 行いによる義の道は、死の道であり、この道を歩む者は罪の除去など不可能であり、罪の報いである滅びから逃れることはできない。  では、どうしたらよいのか。人間の側すなわち自分自身には、何の方法もありはしない。したがって、われわれ罪人は、自分の救いについてはまったく絶望のほかはない。
  8. だが、感謝すべきかな。神はこのようなわれらを、なおもお見捨てにはならず、神ご自身の構じられた方法によって、罪を除去し、われらを義なる者として認め、これを受け入れてくださることを可能にされた。  それは、「信仰による義」という方法である。神はこの方法によって、われわれ罪人のために、救いの道を開いてくださったのである。