第18課 神の審判

はじめに

キリスト教は、いうまでもなく救いを説く宗教です。しかし、聖書はそれと同時に、審判についても語っています。救いと審判とは、密接な関連性をもっているのです。
したがって、われわれは審判について知ることなしに、救いについて真の理解と確信をもつことはできません。
裁きというと多くの人は、何か心にとがめや恐れを感じて、とかく敬遠しがちになります。われわれは、警察や裁判所などにも、おなじ感じを抱きがちですが、だからといってこれを否定したり、排除したりしたらどうなるでしょう。犯罪は激増し、善良な市民はとても安心して平穏に暮らすことはできなくなってしまうでしょう。社会の安寧秩序が保たれ、市民が安心して暮らしていけるようになるためには、警察も裁判所も絶対に必要です。
それとおなじように、宇宙の秩序が保たれ、人類が自然の法則や、道徳の規範によって、生存を守られるためには、善と悪、正義と不義、公正と不公正にたいするさばきは不可欠です。それは、善良で正しい者たちの生命と生活の安全を守るために、なくてはならないものなのです。
ですからわれわれは、神の裁きというものをいたずらに恐れたり、嫌悪したりするのでなしに、これを正しく理解し、賢明に対応することが必要と思います。

一、人による審判

人間の社会において、一定の秩序が保たれ、それによって庶民が安心してくらすことができるのも、じつのところ裁判制度と警察権のおかげなのです。これがなかったら、世の中は弱肉強食の修羅場と化し、その結果、人間は動物よりもっと始末におえない存在になってしまうにちがいありません。
人間が安全に、そして平和に暮らしていくためには、なによりも秩序が必要であり、かつそれが厳正に維持されることがたいせつです。それには、法と法の執行に伴うさばきが絶対不可欠です.

1、法律による裁き
さいわいなことに、人間は良知によって法律を制定し、裁判制度によって社会の秩序が維持されています。そして、それによって善良な人々の生命と財産がいちおう保護されています。
とはいえ、残念ながら、この法律はかならずしも厳正なものでもなければ、絶対に公平なものともいえません。

A、第一に、誤審というものがあります。
ついこのあいだも、婦女暴行の疑いで有罪となり、何年間も服役していた青年が、ほかに真犯人のいることがわかって、あらためて無罪判決が言い渡されたということがありました。

B、それに、証拠不十分という問題点などもあります。
これも最近あったことですが、検察も罪と認め、一審二審とも有罪の判決が下っていたのに、最高裁で無罪判決になったという事例がありました。だれがみても有罪は明らかと思われるのに、無罪になった理由は何かといえば、それは有罪にするための法的証拠が不十分だから、というものでした。「疑わしきは罰せず」という、裁判の原則に基づくものであったようです。
人のおこなうさばきには、この証拠不十分ということで、正しい判決を下すことが、心ならずも制約を受けるということさえ、ままあることなのです。

C、それに、何よりも審判の基準それじたいに、問題があります。
裁判の基準は法律です。この法律は、人間が造るものである以上、完全なものではありえません。だからこそ、法律改正も必要になってくるのです。国家の基本法である憲法でさえ、改正の必要が叫ばれているくらいですから、刑法・民法などはなおさら、完全でありうるわけがありません。

D、さらに、人間は他人の行為の動機を見通し、それを正しく判断する権限や能力を、神から与えられてはいないように思われます。しかも、これがなければ、正確で公平なさばきなど、できようはずがありません。
もちろん、 情状酌量ということはあります。これは、動機や事情を考慮しての判決ということでしょう。しかし、それもある程度、ということでしかないと思います。ですから、聖書にもこんなことが言われています。
「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている」(伝道の書八ノ一一)。
ここにある「すみやかに」を「正確に」という言葉に置き換えて読むなら、意味がいつそうはっきりすると思います。そして、このばあいその置き換えは許されないことではないと考えます。
このように、法律による裁きは必要であり、大切なものではありますが、それは目の粗い網のようなもので、その法の網をくぐって、いくらでも公然と悪事を行うことが可能であるという問題点もあります。

2、道徳による裁き

しかし、たとい法の網をうまくくぐりぬけることができたとしても、それで事がすむわけではありません。
A、世には、道徳的規範というものがあって、われわれの行動は、行為のみか、動機をもさばかれることになるからです。これは、ある意味では法律による裁きより、もっときびしいということもいえます。
B、すなわち法は見逃しても、世間の目はこれを許さないという事実があります。むかしよくあったといわれる村八分など、もっとも顕著な例といえましょう。
最近の自殺者の中には、世間のうたがいの目や批判の言葉にたえられず、そのため身の置き所がなくなって、みずから命を断った人もいるわけです。つい先頃の某大臣の自殺などは、まさにこれにあたるといえましょう。
C、しかし、これとても絶対とは言えません。聖書にこんな言葉があります。
「またわたしは悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である」(伝道の書八ノ一〇)。
選挙違反で有罪となったにもかかわらず、次の選挙ではトップ当選し、大臣になった人さえあるというありさまです。これでみると、道徳による裁きも、ずいぶんいい加減なところがあるという現実を、否定することはできません。
以上によって、世の善悪に関しては、人間による裁判だけでは不十分であることがあきらかです。やはりどうしても、人間以上の絶対的な権威による審判というものが必要であり、それを心から願わずにはいられません。

二、神による審判

感謝すべきことに、聖書は人による裁きの、さらにその上に、神による裁きのあることを告げています。ただし、これにはふたつの側面があるように思います。

1、現世的審判

A、人間の行いには、法律や道徳を超えた別の次元において、かならず報いが伴う、という事実があります。このことは、仏教の「因果応報」という言葉によっても知られており、これまで多くの人によって認められてきたところです。そしてこれは、聖書にもはっきり教えられています。
「まちがつてはいけない、神はあなどられるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。・・・わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」(ガラテヤ人への手紙六ノ七、九、一〇)。
ひとびとは、これを本能的に認めまた信じて、そのように振る舞ってきているのではないでしょうか。

B、しかしこれも、絶対的なものではないように思います。聖書もこのように述べています。
「地の上に空な事が行われている。すなわち、義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。わたしは言った、これもまた空である」(伝道の書八ノ一四)。
ですから、この世に、善には善の報い、悪には悪の報いがあるとはいえ、それは部分的であり、そのうえかならずしも絶対的なものではないように思います。しかも、それはたんに予表的、象徴的なものにすぎないようにさえ思われるのです。
このことについて、世界的に著名な神学者エミール・ブルンナー博士も次のように指摘しています。
「しかしながら、この種の世界の審判が審判の全部ではありません。わたしどもは未だ最後の世界の審判を経験してはいません。歴史の中にすでに実現されたこれらすべての審判は、それとくらべればほんの譬喩にすぎません。それはせいぜい世界の審判の様子をおぼろげに予感させる先駆にすぎません」。
「世界史のなかには、神の審判があるということ、それは真理であり、今日わたしたちの体験しているところであります。しかし、これら地上でわたしたちの経験している裁きとは、時の終わりにわたしたちすべてに来るところの裁き、この地上の舞台から退場し、永遠の敷居をまたごうとする時誰もが受けとらねばならないところの大審判の序曲にすぎないのです」。
これは、歴史の終わりにおこなわれる審判ですから、あるいは終末的審判といってもよいかもしれません。いいかえれば、現世から来世に移行する、その境界線の地点での審判なので、やはり来世的審判ということもできるわけです。これをもっとわかりやすくいうなら、この審判は、一面においてはこの世の卒業試験、他面においては来世への入学試験のようなものともいえましょう。

2、来世的審判
そんなわけで、神の裁きは現世においてもみられますが、それは警告的な意味にとどまるものであり、ほんとうの裁きは、これを来世に期待し、そのときを待つほかはないということになるわけです。
その理由について、元東京神学大学々長・桑田秀延博士は、彼の学位論文である『基督教神学概論』の中で、次のように説明しています。
「かくしてこの世と歴史のうちにあっては、なお覆われ、種々なる矛盾のうちにおかれている個々の運命が、終末におけるキリストの現実的な介入により、ここに最後的に決定される。これが最後の審判である。このことは、歴史内における矛盾が極めて深刻であり、神が無視せられて悪が栄え、白が苦しんで黒が繁栄しているかのごとき感じさえ与えられ、神の送りたもうた十字架の主を抜きにしては、到底考えられないような世界の実状にあっては、必然また当然の信仰といわねばならない」。
これによって、われわれはなぜ、神の審判を来世に期待するのか、また期待しなければならないのか、その理由がかなり明確になったのではないかと思います.

A、すなわち、本格的神の審判は現世ではなく、死後において行われるということなのです。
このことは、聖書の次の言葉によって明確に示されています。
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」(ヘブル人への手紙九ノ二七)。
これを述べたのは、使徒パウロですが、このパウロはアテネ人に対して、次のように告げています。
「神は、義をもってこの世界を裁くためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝一七ノ三一)。
ここでパウロが言及しているさばきは、明らかに終末的審判であり、しかも彼は、神がその確証をお与えになっているとのべています。その確証とは、イエス・キリストの復活であるというのです。どうしてそれが確証になるのかといえば、次の聖句がその理由を説明してくれています。
「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」(ヨハネによる福音書五ノ二二)。
「わたしを裁く方は、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても先走りしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てていることを、あらわにされるであろう」(コリント人への第一の手紙四ノ四、五)。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けなければならないからである」(コリント人への第二の手紙五ノ一○)。
世の終わりにおける審判は、天の神によってイエス・キリストが裁き主に定められているというのです。そのキリストが十字架の死後生きかえられたことによって、このさばきは確実なものになった、というのです。なぜなら、このさばきはキリストの再臨のときに行われるものであるからです。
元東京神学大学の桑田学長は、前掲書の中でこう述べています。
「キリストの再来の信仰と共に、またその内容の一面として、聖書に教示せられている今一つの終末の信仰に、審判がある。これは世界と歴史に対する神の経綸の業の最後的決定、またその総決算を意味する。福音書の記事は、キリストの再来との関係で、かかる審判を叙述している」。

B、しかも、この来世における審判は、徹底的かつ絶対的なものです。聖書はこう告げています。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と、骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」(ヘブル人への手紙四ノ一二、一三)。
この裁きは、瑕疵も遺漏もない、徹底的で完璧なものにちがいありません。これによって、神の義と宇宙の法と秩序とは、永遠に確立することになるのです。
われわれは、この世の権威によるさばきを尊重し、恐れなければならないのは当然ですが、しかしそのために、自己の思想信条について節を曲げ、世俗の権威に屈服し、妥協を余儀なくされるということもないではありません。これに対してイエスは次のように警告しておられます。
「だから彼らを恐れるな.・・・また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイによる福音書一○ノ二六、二八)。
イエスはここで、この世の権威によるさばきの上に、さらに高い権威によるさばき、すなわち神のさばきがあることを告げ、それをこそ恐れなければならないことを警告しておられます。

三、神の審判に対する備えの必要

このように、神のさばきがあり、来世的審判があるとするなら、それに対して当然備えが必要であるということになります。ある意味では、これは天国への入学試験、または入社試験といってもよいわけです。しかもこれは、永遠の生死にかかわるものである以上、それこそ必死の思いで、これに備えなければならないのはとうぜんでしょう。
この審判に対する備えとして、覚えるべき大切なことは次の三点です。

1、審判の対象はだれかということです。
A、もちろん、悪人が対象になるべきは当然でしょう。聖書に次のように記されています。
「悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネによる福音書五ノ二九)。
B、ところが、神のさばきを恐れる人がある一方で、これを他人ごとのように考えて問題にしない人もいます。
しかし、聖書には次のように記されています。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙四ノ一〇)。
もちろん、善人は裁かれてもなんら怖れる必要はないという人もいます。なぜなら、善人は裁かれても罪に定められるいわれはないからだというわけです。善良な市民は、警官を怖れる必要などどこにもない。それとおなじに考えるからでしょう。
しかし、はたしてそのように安心していて大丈夫なのでしょうか。問題は次の点にあります。

2、審判の基準は何かということです。
これが法律や道徳なら、なにも心配する必要はないのかもしれません。しかし、神の裁きの基準は、それとはまったく異なったものによっておこなわれるのです。それは何なのか。
「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令(注・共同訳は「戒め」)を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」(伝道の書一二ノ一三、一四)。

A、これによると、さばきの基準は神の律法であることが示されています。
では、神の律法に照らして裁かれた場合、われわれはどうなるのでしょう。

B、この神の律法は、すべての人を罪に定めます。聖書に、次のように記されています。
「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある。
『義人はいない、ひとりもいない。
悟りのある人はいない、
神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、
ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、
ひとりもいない。』」(ローマ人への手紙三ノ九〜一二)。
義人はいないという。しかも、ひとりもいないというのです。なぜでしょうか。世には、これまで義人と呼ばれ万人から敬われ、仰がれた人が何人もいたはずではないでしょうか。また、その人自身、「自分は俯仰天地に恥じず」と、自分の身の潔白や正しさを主張して憚らない人もいます。そして、それは必ずしも嘘いつわりとはいえず、周りの人もみな認めていることかもしれません。しかしそれは「人の前に」という前提においてのはなしです。ここでいわれているのは「神の前に」を前提としてのはなしなのです。
なるほど、人間同士のあいだでは、善人も義人もいるのはたしかです。だが、聖なる神の前に、罪のない者として立つことのできる人は一人もいないと、聖書はいうのです。なぜか、つづいてこう記されています。
「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」(ローマ人への手紙三ノ一九、二○)。
「神の前に」とは「律法によって」ということにほかなりません。律法は神のご品性の表示であり、神のご意志、神のみ旨の要約、また神の宇宙統治の原則でもあるからです。神の律法は、まったく曇りのない鏡にたとえることもできます。この鏡に自分の顔や容姿を映すならば、人はもはやみずからの義や正しさを主張することはできなくなる。ここに「すべての口がふさがれ」とあるように「全世界が神のさばきに服する」ほかはなくなるというのです。
聖書は「義人はひとりもいない」という。さばくのは神であり、裁きの基準が神の律法であるかぎり、これはあまりにも当然と言わねばならないでしょう。

3、審判の結果はどうなるのかということです。
これは、われわれの勝手な想像や憶測によって、答えの出せる問題ではありません。神の裁きの結果は、神の言葉なる聖書に聞く以外にはないわけです。
では、その聖書は裁きの結果について、どのように述べているのでしょうか。
神の裁きによる有罪の結果は、第二の死に遭うというのです。
「それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」(ヨハネの黙示録二○ノ一四)。
この第二の死とはなんでしょうか。アダムとエバにとり罪の結果は死でした。これが第一の死です。この第一の死は肉体の死であって、人間の全的死、永遠の死ではありませんでした。暫定的なものということもできます。
これにたいして、第二の死は全人格的死、魂の死ということになろうと思います。これは徹底的な死、永遠の死ともいうべきものです。あとがないほんとうの死ということになりましょう。
これがどのようなものかをよく知るためには、イエス・キリストの十字架上の死を熟考する必要があります。
「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイによる福音書二七ノ四五,四六)。
この十字架上のキリストについて、あるひとは、これまでキリスト以外にも、迫害によって殉教した人がすくなくない。これらのひとびとは泰然と、しかも従容として死についた。これにくらべて、彼はあまりにも意気地がなく、弱虫で、見苦しい、というのです。
しかしこれは、キリストの十字架の死について、あまりにも皮相的で浅薄な理解というほかはありません。
このときのキリストの死は、ご自分の死というより、われわれ罪人のための身代わりの死であったのです。しかもそれは、死刑などにみられる肉体の死の苦痛や恐怖にとどまるものではありませんでした。罪に対する神の怒りによって、神から見捨てられ、断絶され、底知れない暗闇の中に突き落とされて、永遠に滅び行く者の驚愕と絶望の叫びであったのです。
これはほんらい、われわれが受けるはずの刑罰を、キリストはわれわれに代わって受けられたのでした。ですから、われわれが神の裁きによって有罪を宣告された場合、遭わなければならない刑罰はどのようなものかは、このキリストの十字架の死が示していることになるのです。
キリストの十字架の死には、そういう意味があることを知っている人が、日本人の中にどれだけいるでしょうか。この機会に、それを正しく理解し、またしっかりと受け止め、肝に銘じていただきたいと切に願っています。

むすび

われわれの人生は、死をもっていっさいが終わり、というものではない。バウロがヘブル人への手紙で述べているように、人間は一度かならず死ななければならない。それと同じように、死んだ後神の裁きを受けることも定められており、だれひとりこれを逃れうる者はないというのです。
そうだとすると、これはただごとではないことに気づかされるわけですが、この問題を考えるにあたって、われわれが心に留めるべき課題がいくつかあります。

1、まず、悪人の裁きについてですが、これはわれわれにとってどういう意味をもつことになるのかということです。
いうまでもなく、当人は大いに恐れなければならないことになるわけですが、この悪人に対するわれわれの考え方としては、聖書の次のすすめに耳を傾ける必要があります。

「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
彼らはやがて草のように衰え、
青菜のようにしおれるからである。
主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。
おのが道を歩んで栄える者のゆえに、
悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。・・・
悪を行う者は断ち滅ぼされ、
主を待ち望む者は国を継ぐからである」(詩篇三七ノ一〜九)。

この世は、サタンの支配する世界ですから、われらの人生には、不正や不義、矛盾や不合理が多く見られます。正しい者は悪しき者から虐待され、思想や信条に忠実に生きようとする者は、世俗の権力による迫害や弾圧を受ける。その結果、殉教を余儀なくされた者もいました。このような状態は、いつまでも放置されていてよいわけはありません。使徒ヨハネは、神から示された異象のなかで、これらの人々が神に叫んでいる光景を見せられています。

「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか』。」
ここで断わっておかねばならないのは、ヨハネが見たのは、象徴的な表現の光景であって、現実の光景ではないということです。ですからこれは、聖書が霊魂の存在を認めていることを示すものでは決してありませんので、誤解のないよう注意が必要です。
ところで、ヨハネが幻の中で見たこの殉教者たちのように、正しい者が悪人や不当な圧迫者に対して報復を求めるのは当然といわねばなりません。それは正義や人道の自然的要請です。
ですからわれわれも、悪人に対して当然のことながら、憎しみや恨みを持ち、復讐をも考えます。しかしながら、事実はそれを果たすための知恵も能力もなく、これについては泣き寝入りするほかはないというのが実情です。これにたいして聖書は、神の裁きについて語り、それにすべてをゆだねるようすすめています。われわれはそうすることによって、悪人のために心を悩ます必要はなくなるわけです。

2、さらに、他人のこともさりながら、われわれは自分自身にたいして、みずからの悪をゆるすことができない、ということがあります。しかも、己の罪や弱さにどうしても勝つことはできないということで、深刻な悩みの中で苦しみ続けている人もいます。なかには、このように自己をきびしく裁く結果として、みずから命を断つひとさえもあります。
それとは反対に、自己の正しさを確信し、神のさばきにたいして、何の恐れも感じないという人もあるかと思います。しかも、自分の正しさを確信し、それによってみずから安んじている人もないではありません。
しかしわれわれ人間には、他人はもちろん、ほんとうは自分をさばく権利も与えられてはいないはず。これをさばくことのできるかたは神のみ。ですからわれわれは、自己に対するさばきをも、神のみ手に委ねるほかはない、ということなのです。これについても、聖書に次のように記されています。

「わたしは自ら省みて、なんのやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをして裁いてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」(コリント人への第一の手紙四ノ四,五)。
われわれはここにいわれているように、みずからの生き方を、自分で勝手に裁定することはしないで、何もかも神の前にさらけだすかたちで表白し、神の裁定を待つ以外にはないわけです。
とはいえ、生まれながらの罪人であるわれわれは、みずから罪に勝利することもできない以上、有罪の宣告を逃れることはできません。ではいったい、どうすればよいのでしょうか。
「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである』」(使徒行伝二ノ三七〜三九)。
このペテロの説教に対する群衆の問いと叫びは、こんにちのわれわれの叫びでもあるわけです。これにたいするペテロの答えは、「悔い改めなさい」ということでした。悔い改めとは、「やり直し」ということであり、「人生の方向転換」ということにほかなりません。しかし、たといやり直すにしても、方向転換をするにしても、その前に処理しなければならないものがあるはずです。それは、罪という負債です。この人生の負債を処理しない限り、やり直しといい、人生の方向転換といっても、そこから一歩も前に進むことはできないでありましょう。

ところがここには、「罪のゆるし」ということが語られています。このゆるしは、十字架の上で死なれた神の子キリストによって提供されているものです。「ではどうしたらよいのか」というわれわれの問いに対して「罪の赦しを受けよ」という。神のさばきという、この驚愕的な事実に対してわれわれのなすべきこと、われわれのできる唯一のことは、キリストによって提供されているこの「罪の赦し」を受けるということです。
これは大変大事な点ですので、その理由と消息について、神学の世界でもっとも権威ある方の一人カール・バルト博士の言葉を引用させていただきましょう.
「ハイデルベルク信仰問答第五十二問には、次のように記されている。『生ける者と死ねる者とを審くために、キリストが再臨したもうということは、君にどういう慰めをあたえるか』答え『あらゆる災厄と迫害の中にありながらも、わたしは先に神の審きに対して、わたしのために御自身を提供し、わたしからすべての呪いを取り除きたもうたあの審き主が、天より来たりたもうのを、頭を挙げて待ち望んでいる』。ここには、一つの別の響きが鳴り響いている。生ける者と死ねる者とを審くためのイエス・キリストの再臨は、一つの喜びの音信なのである。キリスト者はー教会は、このような将来を、『頭を挙げて』望み見ることを許されている。また、望み見るべきなのである。なぜかといえば、いまここに来たりたもう方は、かつて自ら神の審きに服したもうたのと同じ方であるからである。このような方の再臨を、われわれは待ち望んでいるのである」。
このようにみてきますと、神の審判は恐ろしいという面だけでなく、われわれ罪人にとってきわめて願わしい側面のあることを忘れてはならないと思います。すなわち、キリストの十字架によって罪を赦されている者にとってそれは、罪の赦しの結果としての救いが、名実共に具体化するときにほかならないからです。さばきの日は、罪の赦しが現実の救いとなる輝かしい日なのです。

要点の確認

  1. 聖書の中心的教理は、いうまでもなく救いということである。しかし、聖書はそれとともに、神の審判についても語っている。神の救いは、じつはこの審判の結果なのである。さばきを切り離しての救いはありえないのである。神の救いはこのさばきを前提とする。
  2. ところが、神の審判というと、とかくわれわれは、こころにとがめと恐れを感じ、敬遠しがちになる。だがこの世はサタンの支配下にあり、罪や悪、不正不義、矛盾や理不尽なことが多く存在する。これらは当然正されなくてはならない。
  3. もちろんこの世には、警察権や裁判制度というものがあって、個人の罪、社会の悪、不正不義をさばいて、悪を是正している。これに法律によるさばきと、道徳規範によるさばきとがあるが、これらはかならずしも正確公平なものではない。さばきの基準が粗い網の目のようで、それをくぐりぬけて多くの悪事が公然とおこなわれている。
  4. したがって、人の権威による裁判の上に、さらに高い権威のさばき、すなわち神のさばきというものがなければならない。この神のさばきにも、現世におけるそれと来世におけるそれとがある。現世における神のさばきは部分的なもので、絶対的なものではなく完全を期しえない。これは本格的な審判の象徴的、また、まえぶれ的な意味をもつものにすぎない。
  5. 神の本格的な審判は、歴史の終末に行われるものであり、来世的なものである。このさばきの基準は何か、これは人の法律ではなく、道徳規範でもない。それは神の律法である。この神の律法を基準にさばかれるとき、われわれはすべて断罪の下にあると聖書は告げる。
  6. 聖書にはまた、父なる神は子なるキリストにさばきを委ねられたとある。このキリストは二千年前、十字架刑に処せられたが、これはわれわれの身代わりとしての死であった。こうしてわれわれの罪を処理されたキリストは、彼を信じる者に、罪の赦しを提供しておられる。神の審判の目的は、悪をさばき悪人を滅ぼすことにあると同時に、罪を赦され、神に従う者に救いを与えることにある。キリストはこのさばきをおこなうためにまもなく再臨される。
  7. そのとき人類は、裁き主なるキリストの前に集められ、右と左に二分される。それによって救いか滅びかの永遠運命が決定される。その選択権は、われわれ人間の側にあるのである。