第16課 新天新地―エデンの回復

はじめに

地上歴史の終焉、キリストの再臨、それにつづく新天新地の出現、これは神の救いの計画の中に組み込まれているシナリオです。そしてこれは、われわれ人間もアダム以来のすべての人々の理想、また願望として、これを追い求めてきたものではなかったでしょうか。
もちろんこれは、人間の企てや努力によってきたらせうるものではなく、たといそれを試みても実現の可能性は皆無といってよいでしょう。にもかかわらず、人間は己が知恵と力に頼り、これを実現しようと努力し、神の前に尊大に振る舞ってきたのです。われわれは、この辺でその僭越と愚かさに気づき、これまでの野望や努力の誤りを謙虚に認めるべきではではなぃでしょぅか。
でも、なかにはそれを認めたら、人類の前途は絶望と暗黒以外に何もなくなってしまうではないか、と言われる方があるかも知れません。けれどもそうではないのです。なぜなら、人間にできなぃことも神にできなぃことはないからです。神はかならずこれを実現してくださると、聖書に約束されているのです。

この新天新地については、旧約の預言者イザヤ、新約の預言者ヨハネなどが、神から異象によって見せられ、すでにそれを啓示されています。
現代は、天国というと何か時代遅れの幼稚な思想と考える人がほとんどかと思います。では、そういう人びとは、この世がこのままの状態でよいと考えているのでしょうか。おそらく今の状態に満足している人は一人もいないでしょう。しかし、それはやはり、われわれ人間のこれからの努力によって、いまよりもっと住みよい世界にすべきであって、天国を夢想することなど無責任であり、無意味なことだといわれるのかも知れません。しかしながら、人間はこれまでそのために努力してきたはずではないでしょうか。そして、その結果はどうなのでしょう。
たしかに、科学の進歩によって物的には豊かになり、生活も快適になり、便利になっていることは否定できない事実です。とはいえ、その反面、逆の結果もみられます。公害や環境破壊は、この地球を人間の住めない状態に変えつつあります。何よりも、物的豊かさとは裏腹に、精神的・道徳的面はどうでしょう。貧困と窮乏の一途をたどり、その結果、いままさに飢餓状態に貧するありさま、この世界はよくなるどころか悪くなるいっぽうなのです。
こんな状態でも、われわれ人間にとっては、この地上の世界だけがたしかな住処であって、来世とか天国とか、そんなものがあるわけはないし、必要もないというのでしょうか。
たしかに、ひとびとの中には、どうせ天国などというのは、たんなる空想にすぎない、そんな世界など現実の世界、実在する世界とは思われない、という人もいます。しかし、天国は決して非現実的な架空の世界などではありません。なぜなら、それは遠い昔のこととはいえ、かつてこの地球上に現実に存在した世界であったからです。聖書に記されているエデンの園がそれです。
不幸にして先祖アダムとエバが、サタンにだまされ、神に背いたためそこから追放され、その結果として喪失した世界なのです。われわれが、天国を信じまた慕うのは、じつは魂の故国への郷愁にほかならないのです。
現在われわれが生活しているこの地上は、罪のために呪われ、損なわれた世界なのです、しかも人間は罪を犯すことによってエデンから追放されたのですから、この地上はわれわれにとって、もともとの住家ではなく、よその国であり、寄留地なのです。とするなら、われわれがこの地上の生活に満足できず、魂の故郷である天国をあこがれ、慕い求めるのは自然なことであり、当然というべきではないでしょうか。
天国というのは、非現実的世界どころか、かつて実在したエデンの園への復帰であり、回復にほかならないのです。戦後海外在留邦人が、家財の一切を放棄し、着の身着のままで故国に引き揚げてきたあのときのように、やがてこの地上を引き揚げなければならないときがやってきます。
そのとき、あなたは故国を否定して、どこへ行かれるつもりなのでしょうか。もちろん、引き揚げてきた故国は天国ではなく、地上の国であったのですから、せっかく故国に戻ったとはいえ、しばらくは餓死寸前の状態を堪え忍ばねばなりませんでした。しかし、われわれがこの地上を引き揚げて帰っていく天国は、もはや寄留の地ではないのです。永遠の神の国なのです。
預言者イザヤは、いまから二七〇〇年以上も前に、新天新地に関する神の約束の言葉を次のように記しています。

見よ、わたしは新しい天と新しい地とを創造する。
さきの事はおぼえられることなく、
心に思い起こすことはない。
しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、
とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、
その民を楽しみとする。…
泣く声と叫ぶ声はふたたびその中に聞こえることはない。(イザヤ書六五ノ一七〜一九)

またイザヤは、こうも告げています。

「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、
あなたの子孫と、あなたの名は
ながくとどまる」と主は言われる。
「新月ごとに、安息日ごとに、
すべての人はわが前に来て礼拝する」と
主は言われる(イザヤ書六六ノ二二、二三)。

では、神が聖書によって啓示しておられる新世界、それはどんなところか、預言者の見せられた幻によってそれを展望してみたいと思います。

回復された自然界

この世界を創造された神は、人間の住まいとして自然界をお造りになりました。野原、山、川、草、木、などで、それは人間の食物ともなり、寝転んだり、伏して眠る天然の寝床にもなったわけです。草木は花を咲かせ、よい香りを放ち、実を結ばせる。それは人の目を楽しませる見事な芸術作品であり、香りは感覚的なよろこびと満足感を与え、実は食物となって健康と生命を支えるものとなったのです。
ところが、現在の自然界はどんな状態でしょうか。険しい山があり、深い薄暗い谷があり、濁流奔流の川があり、津波によって人も家畜も家も田畑も一瞬にして飲み込んでしまう海があります。草も木も生えない荒涼たる砂漠地帯があります。
いま自然界は人間にとって、まことに居心地の悪い住みにくいところとなっています。これはなぜなのでしょう。神がお造りになったはずのこの自然界が、どうしてこんな状態なのでしょうか。それは、聖書によると、人類の先祖アダムとエバがサタンに騙され、神に背いた結果であるというのです。次のように記されています。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、…地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ」(創世記三ノ一七、一八)
しかし、神のあがないによって、この自然界が回復されるとき、ふたたびエデンの園の状態が再現されることになるのです。それは単に元の状態の再現にとどまらず、それ以上の状態に造り変えられるのです。
預言者イザヤは、新しい世界の自然界の光景を神から見せられ、次のように描写しています。

荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。(イザヤ書三五ノ一、二)。

すなわち、罪の結果としてののろいが解かれ、いばらとあざみの生えていた荒野は、美しい花をもって装われるようになる。いま草も木も生えない乾いた砂漠も、やがては緑に覆われるようになるというのです。
それはなんと美しく、心地よい眺め、また楽しく住み心地のよい自然であることでしょう。それは、かつてのエデンの園にはるかにまさる居住環境であるにちがいありません。

回復された動物界

預言者イザヤは、回復された動物界の光景についても幻を見せられ、次のように描写しています。

おおかみは小羊と共にやどり、
ひょうは子やぎと共に伏し、
子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、
小さいわらべに導かれ、
雌牛と熊とは食い物を共にし、
牛の子と熊の子と共に伏し、
ししは牛のようにわらを食い、
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、
乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、
そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、
主を知る知識が地に満ちるからである。(イザヤ書一一ノ六〜九)。

これが、新しい世界の動物たちの姿であるというのですが、いくらなんでも、このような光景の実現がはたして可能なものであろうか、と疑われる人が少なくないことかと思います。
しかし、これは決して不可能ではないはずです。なぜなら、これはかつてこの地上に存在した状態であるのです。いうまでもなくそれは、人間が罪を犯す以前のエデンの園における動物たちの姿であったのだからです。
それにしても、これから先ここに描かれている状態が、現実にありうることなのでしょうか。もちろんありえないことではないはずです。
そもそもアダムとエバは、罪を犯す以前、神からこの世の支配権を与えられており、自然も動物も人間の支配に服し、従順に従っていたのでした。それが、人間が神の支配を拒んだ結果、人間の支配下にあった動物も、人間の支配を拒んで人間に背き、動物同士たがいに背きあうようになったのです。
だが、人間が救われて神の支配に服するようになれば、人間の支配に背いた動物も人間の支配に復帰するようになるのです。その結果イザヤが幻の中に見せられた光景が、現実の物となるわけなのです。
神のあがないがまだ完成していない現在においてさえ、人間が愛情をそそいで飼育するとき、犬猫だけでなく、猿やチンパンジー、象やライオンでさえ、犬猫同然に人間になつくことが実証されています。有名なのは、「エルザ物語」として知られる事実です。
わたしが属している教団のある米国人牧師の話です。ある日偶然会った知人に「私ライオンを飼っているが見にこないか」と誘われました。牧師は好奇心も手伝って行って見ることにしました。家に着くと、知人はまっすぐ家に入って行こうとします。牧師は、ライオンは鉄の檻に入れられ、裏庭の隅のほうにでも置かれているのだろうと、辺りを見回していると、知人は「さあ、こちらだよどうぞ」と家の中に牧師を招き入れました。牧師が家に入ると、驚いたことに、ライオンは家の中に放し飼いにされており、しかも居間に腹這いになってテレビを見ていたというのです。知人は、「何もこわがることはない。このライオンは生まれたときから可愛がって育ててきたので、人になついており、襲いかかったりはしないから心配はいらない。君もそばに寄って撫でてやってくれ。ただし、うしろから突然近づくと危険だから、前にまわってライオンにそれとわかる状態でそばに寄ってごらん。絶対に危害を加えたりはしないから」ということでしたので、そのようにしておっかなびっくりながらも、手をのばして撫でようとすると、ライオンはそれまで腹這いになっていたのに、急にごろんと寝返り、仰向けになって両方の前足で牧師の手をはさむようにし、舌をだして牧師の手をなめてくれたというのです。歓迎の挨拶、ライオン流のキスのつもりなのでしょうか。
罪のこの世においてさえ、愛情をもって接していれば、たとえ猛獣であっても、このように人間に慣れ親しむのであれば、罪がぬぐい去られた天国において、預言者イザヤが描写している光景は当然あるべき姿、また光景であって、なんら怪しむにたりない状態というべきではないでしょうか。
現在、動物が人間を襲い、動物同志たがいに殺しあったり噛み合ったりするのは、人間が神に背き神の支配から離れている結果なのですから、人間が救われて神の支配に帰るなら、動物も人間の支配に帰り、動物同志もたがいに睦みあい共存するようになるのは必然の帰結ということなのです。
これが可能になる理由は、イザヤの言葉にあるように「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ書一一ノ九)とある、まさにこのことによるのです。

回復された人間界

現在この地上には、病気の人、怪我をした人が大勢います。なかには生まれながらに、目の見えない人、耳の聞こえない人、口の聞けない人、手足の不自由な人、全身自由を奪われた人などが少なくありません。なぜこうなのでしょう。ある人は、またある宗教は、これは前世の悪業の報いだなとど言います。しかし、イエスはそうした考えを一切否定しておられます。ただし、病気や不自由は、その人個人の責任でもなければ、報いというものではないとはいえ、これはアダム以来人類全体が神に背き、神から失われた者となっている結果であると聖書は告げています。
しかし、これはほんらい人間のあるべき姿ではなかったのですから、当然解消されなければならない状態にはちがいないのです。ではそれは、いつ、どのようにして、またどんなふうに解消されると言うのでしょう。それは神の救いが完成し、成就するときに実現するのです。
その時の光景について、預言者イザヤは次のように言っています。

あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。

その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。

主にあがなわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書三五ノ三〜六、一〇)。

やがての日に、このことが成就するとき、その喜びとさいわいはどんなでしょうか。
愛する者の声は聞こえても、顔もすがたも見ることができない人がいます。
愛する者の顔は見えても、声が聞こえず、感情も意思も通じないもどかしさに耐えている人もいます。
愛する者の顔も見え、声も聞こえるとはいえ、口がきけず、こちらの気持ちを相手に伝えることができない悲しみに耐えている人もいます。
それが目も見え、耳も聞こえ、口もきけるようになって、心を一つにして共々に神をさんびすることができるようになったら、その喜び、満足、さいわいはどんなでしょうか。
また、足が不自由な人、ことに全身麻痺状態の人、このような人が立って歩けるようになるばかりか、まるで鹿が飛び走るように、自由に行動できるようになるとしたら、どうでしょう。
そのときには、地上における現在の不自由さなど、なんでもないと思えるほどの大きな喜びと満足と、そして尽きることのないさいわいとを、あじわい楽しむことができるようになるにちがいありません。
ああ、そのときのなんと慕わしく、その日のくるのがなんと待ち遠しいことでしょう。

回復された神の都

もう一つ回復されなければならないものがあります。それは、神と人との関係です。
罪によって神に背き、神から離反した状態にあるわれわれ人間は、何よりもまず神との関係が修復され、神との交わりが回復されなければなりません。そして、その神との交わりは一時的なものではなく、永久に続くものでなければなりません。
そのためには、罪の結果エデンから追放された人間は、エデンに戻り、ふたたび神と顔を会わせて共に住むようになる必要があります。それが、神の宮を中心とした神の都の回復です。
このことについて、聖書にはつぎのような記述があります。
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。
すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、『書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』」。(ヨハネの黙示録二一ノ一〜五)。
こうして、あがなわれた者は神と共に住むようになり、人間は神の支配と保護の下にあって、目の涙がことごとくぬぐい去られる、とあります。それは、この地上で涙を流さなければならなかった「死も、悲しみも、叫びも、痛みも」なくなってしまうからなのです。
しかも、神の都は「すきとおったガラスのような純金で造られていた」(ヨハネの黙示録二一ノ一八)とあります。また都の門は十二あり、それは真珠でできている「門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった」(ヨハネの黙示録二一ノ二一)ともあります。これらはすべて、罪のない純潔さと神の栄光の反映を示しているものと思われます。
しかし、ここは罪の結果失われたかつてのエデンの園の回復であることは、次の光景の描写によってわかります。
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する」(ヨハネの黙示録二二ノ一〜五)。
ここにあるいのちの川、いのちの木、これらはかつてエデンの園にあったそれと対応します。これは失われたエデンの園の回復を物語るものにほかなりません。そして、これを可能にしたものは、「のろわるべきものは、もはや何ひとつない」(ヨハネの黙示録二二ノ三)とあることでしょう。罪の結果としてののろいがとりさられることによって、このようなうるわしい幸いな情景が再現されるのです。

天国は文字通りの世界なのか

ある人は聖書が伝える天国を、非現実的だということで、まともに受け取ろうとはしません。また別の人は、真珠の門とか、純金の通りなどは、あまりにも滑稽だと、せせら笑って聞き流します。しかし、天国についての聖書の記述や描写を、どう読み、受け取るべきかについて、まず覚えていただきたいことがあります。それは、たとえばヨハネが異象によって神から示された天国の光景をわれらに伝えようとする場合に、語彙の数も限られた人間の言葉を用いて説明しなければならない。しかも、言葉で説明するにしても地上にあるものを事例とし、それを例えや象徴として用いながら説明しなければならないわけです。
そしてまた、これを読んだり聞いたりするわれわれ自身、人間の言葉や、この世の事物によってしか天国の光景を想像し理解することができない。それ以外に方法はない。残念であり、もどかしくもあるが、これが罪人であるわれわれ人間の実態なのです。
ですから、天国が文字通り、説明どおりと思うなら、それは事実とはかなり掛け離れたイメージを描いているということになってしまいましょう。
そこで、聖書の告げる天国をイメージする場合、心に留めるべき大切な鍵となる言葉は、使徒パウロの次の言葉です。
「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」(コリント人への第一の手紙二ノ九、一〇)。
実物の天国は、われわれがこれまで、見たこともなければ聞いたこともない心に思い描いたことさえもない、前代未聞の世界だというのです。
ヨハネは、われらがギリギリの状態で、実際の天国に最も近い状態でこれを思い描くことのできるような説明をしてくれているにすぎないのです。
実際の天国は、それよりはるかにはるかに麗しい素晴らしいところであると想像し、信じてしかるべきなのです。
ところで、回復されたエデンである新しい神の都に見られるものの中で、圧巻ともいうべき光景は、「御顔を仰ぎ見るのである」(ヨハネの黙示録二二ノ四)とあることでしょう。
神の御顔、キリストの聖顔を仰ぎ見ること以上の、感激、喜び、満足、さいわいは、ほかにはないことなのです。じつは神の民が天国をあこがれ、恋い慕っているのは、まさにこのことにあるといってよいでしょう。
どんなに美しい自然も、どんなに光り輝く神の都も、ガラスのような純金の通りも、そこにイエスのお姿がなく、慈愛の聖顔を拝することができないとしたら、すべて色あせて寂寞とした世界になってしまうにちがいありません。
かつて、聖人と仰がれた人の中に「そこにイエスがおられるなら、たとい地獄であっても私はそこに行きたい」と言った人があり、(少々誇張された極端な言い方ですが)「たとい地獄であっても、イエスがおられるなら、そこは天国である」と言った人もいます。
それほどに、われわれ人間にとっての希望、目的、価値、満足、幸、喜びは、われらの救い主なるキリストであるということなのです。

新天新地を信じた人の証言

それにしても、来世とか天国といった、そんな世離れのした話がほんとに信じられるものだろうか。それを真に受けて信じている人があるのだろうか。あるとしたら、それは一体全体どんな人間なのだろう、と首をかしげる人があるかも知れません。
しかし、天国を架空の神話と見なすのは、昔の共産国と日本人ぐらいのもので、ほかの国の人はだいたいみな、来世を当然とし、天国を現実の世界として信じています。
C・S・ルイスといえば、オックスフォードとケンブリッジ大学で英文学を講じた教授として世界的に著名な学者です。この方がキリスト教の信仰は、理に適ったものであることを論証する本を何冊も出していますが、その中に「天国」についての次のような論証があります。
「希望は神学的な徳目の一つである。このことは永遠の世界を絶えず待ち望むことが、ある現代人の考えているような、一種の現実逃避や希望的な考え方ではなく、キリスト者がなすべきことの一つであることを意味する。
その事は、私たちが現在の世界をそのまま放置しておいてよいということを意味しない。歴史を読むならば、あなたはこの世のために、最も奉仕したキリスト者が、次の世に最も思いをはせていたキリスト者であったということを思い出すであろう。キリスト者のこの世におけるあかしの力が弱くなったのは、彼らが次の世のことを考えなくなった時からである。
天国をねらえ。そうすればあなたは、この地上をも獲得するであろう。地上をねらうならば、あなたはどちらをも得ることができないであろう」。
なんと明快な説得力のある論証でしょうか。天国に人生の目的を置くならば、天国はもちろんこの世をも得ることができる。しかし、この世に目的を置くならば、天国を失うのはもちろんのことこの世をも共に失うことになるという。まったくそのとおりにちがいないのです。
ですから、宗教詩人バイロンもこのように言っています。
「信仰者とは、来世のために現世を犠牲にする人のことであり、不信者とは、現世のために来世を犠牲にする人のことである」。
ただし、ルイスが言うように、来世のために現世を犠牲にすると言っても、それは現世を失うことにはならず、むしろ結果的には来世と共に現世をも得ることになる、という点を心に留める必要があります。

むすび

神はこのような新世界を備えて、そこへ迎えようとしてわれらを招いておられます。

「都の門は、終日、閉ざされることはない」(ヨハネの黙示録二一ノ二五)。

神の都の門は、いまもわれらすべての者のために開かれています。
これについて、わたしは忘れることのできない思い出があります。わたしは戦争中、北支に出征していましたが、終戦の翌年復員して故郷に戻ってきました。
その二、三日後、思いもかけず、道で友人のお母様にお会いしました。いうまでもなく、わたしの無事帰還を大変喜んでくださいました。そしてそのとき、友人のお母さんが、立ち話でわたしにこんなことを言われました。
「じつはうちの息子も、近く帰れることになったという電報をくれたのですが、それから一週間も経つのにまだ帰ってきません。途中でどうにかなりはしないかと、心配で心配で気が休まらないのです。なぜなら、帰ってくるとはいっても栄養失調などで弱り果て、せっかく家までたどりついたというのに、それが夜中になったりして、戸を開けようとしても鍵がかかっていて開けられない。家の者を呼ぼうとしても声も出ない。そのため家に入れず、戸口の前で倒れてしまい、朝になって家の者が戸を開けてみたら冷たくなって死んでいたなどと、そんなことにでもなったらどうしようと、それが心配で心配で、夜もおちおち眠ることさえできないでいます。
それで息子が帰ってきたら、いつでも自分で戸を開けて中に入れるようにと、そのためわたしは夜寝るときにも、玄関の戸に鍵を掛けずに、しかも五寸ぐらい戸を開けたまんまにしておくんですよ」と言われたのです。
当時は食糧不足のためもあり、夜盗が横行する時代でもありましたので、資産家であっただけに危険極まりないことであったわけです。それにもかかわらず、一晩中戸に鍵も掛けないばかりか、五寸ぐらい開けたままにしておくというのは、このお母様にとり、わが子に対する深い思いやりからのやむにやまれぬ、まさに命がけにも等しい措置であったわけです。
これを聞いたわたしは、思わず胸にこみ上げてくるものを感じないわけにはいきませんでした。わずか六歳で生母と死別しているわたしは、このときまるで自分が生母の慈愛深いふところに、抱きとめられるような感じさえしたものでした。
それにしても、天の父なる神も、罪人を迎え入れるために、天国の門を昼も夜も広くあけたままにしてくださっているという。そのことを覚えてわれわれも、このような神の招きにすみやかに応えるようにしたいものだと思います。

要点の確認

  1. この世界は、進化の法則によってしだいに進歩し、よりよい世界になっていくというのが、第二次大戦までの多くの人々の希望であり、確信でもあった。しかし、このような楽観的世界観をいまも持ち続けている人はほとんどいないにちがいない。この世界がまもなく終わりを迎えるということは、だれもが認めないわけにはいかなくなっている。だが、それは永遠の絶望では決してない。
  2. 聖書には、この世界が破滅してのちに、新しい世界が出現すると告げられている。それはどんな世界か。神がアダムとエバのために設けてくださったエデンの園の回復にほかならない。それは人類が堕落する以前の世界、神のみ旨の完全に行なわれる世界、罪と苦難と不幸の一掃されたまったく新しい世界である。植物界も、動物界も、人間界も、すべて新しくされるばかりか、何よりも神と人間の関係、神と世界の関係が、本来あるべき正しい状態に回復される世界なのである。
  3. これは人間の理想や願望の投影にすぎないたんなる観念の世界では決してない。人類歴史の始めに存在した現実の世界であり、いまは罪によって損なわれ、失われているが、われわれがやがてそこに帰還することになっている永遠の祖国であり、魂の故郷なのである。
  4. この世の人生は、われわれ人間にとって、いわば旅人また寄留者のそれにほかならない。真の安息の地、永遠の住処ではありえないのである。では、魂の故郷、永遠の祖国である新しい世界は、いつどのようにして出現するのであるか。それは、人間の武力や政治によって築き上げられるものではけっしてない。そうではなく、神によって計画され、備えられている世界であり、神の約束によって間もなく実現する確かな世界なのである。
  5. この地上にみられるさまざまな不幸や悲惨、矛盾や不合理などは、人間によって治められるこの地上歴史において、完全に解決されることはありえない。なぜなら、この世界はいまもなおサタンによって支配されているからである。人類の罪の結果であるこれらすべての不幸や苦難は、この世界が神の支配に帰るときにはじめて、真の解決が与えられるのである。
  6. われらの救い主なるキリストは、この世の支配権をサタンの手から奪い返し、神のみ旨の完全におこなわれる新しい世界を打ち立てるために、まもなく再臨される。そのときサタンは滅ぼされ、彼がつくりだした一切の不幸や苦難は消え去る。そこに救われた者は、神によって目の涙をことごとく拭い去られる。そこにはもはや、死も、病も、痛みも、悲しみもないからである。
  7. そしてしかも、この世で死別した愛する者との再会の喜びが与えられる。その上イエスご自身がわれらの大牧者となって、緑の牧場、命の水の泉に伴いゆき、永遠に憩わせてくださるというのである。その幸いは、中国残留孤児の故国への帰還どころではない。それはまさに、感動感激の劇的情景であり、想像を絶する至福の極みというほかはないであろう。