第14課 キリスト再臨の前兆

はじめに

神の救いが完成し実現するのは、キリストの再臨のときです。したがって、クリスチャンの信仰はとうぜんのことながら、この再臨を待望することにほかなりません。
ところで、イエスは再臨について語られたとき、それとの関連で、世の終わりについても言及しておられます。しかし、この世の終わりはあまりにも衝撃的できごとであり、直接それをあからさまに告げたのでは、とうてい人々がこれに対えられないことをご存じのイエスは、別々に起こる二つの出来事を重ねて同時に預言されたのでした。
一つはエルサレムの滅亡の預言であり、もう一つがイエスの再臨のときに起こる世の終わりについてです。しかもこのエルサレムの滅亡は、世の終わりの前触れであり、また、それはたんなる預言的象徴またひな型にすぎなかったのです。

エルサレムの滅亡

ところで、当時のユダヤ人たちは、エルサレムの滅亡などまったくありえないことと思っていました。なぜなら、エルサレムは神の都であり、その中には神殿があって毎日神への奉仕が行われていたからです。
それにもかかわらず、彼らはこの神殿の主であるイエス・キリストを十字架にかけて殺そうとしていたのです。このように神への反逆を意図している民の中に、神がいつまでもとどまりつづけるということは、とうていありえないことです。彼らの不信と反逆は、彼らの町と神殿をも、神不在の形骸だけの存在にしてしまっていました。
神殿はもはや、神の住まいでも、神が民と会見なさる場所でもなくなっていたのです。ですから、イエスがユダヤ人によって十字架につけられ、息絶えたもうた同じ時刻に、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたと聖書に記されています。エルサレムの町と神殿とは、このときすでに滅亡の運命が定まっていたと言ってよいと思います。
しかし、弟子たちはほかのユダヤ人たちと同じように、神殿のある聖都を難攻不落と考えていましたので、イエスのこの警告を真に受けることができませんでした。そこで、いくらなんでもという気持ちから、イエスの言葉を否定するかのように、宮にイエスの注意を向けようとしたのです。

「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した」(マタイによる福音書二四ノ一)。
このときの弟子たちの態度は、「どうです。この堅固にして壮麗な神の都が滅びるなど、どうしてそんなことがありえましょうか」と言わんばかりです。
これにたいしてイエスは、次のように仰せになりました。
「そこでイエスは彼らにむかって言われた。「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」(マタイによる福音書二四ノ二)。
すなわちイエスは、「このエルサレムはまもなく、跡形もなく崩壊してしまう」と仰せになったのです。
じじつエルサレムが滅びたときには、ここでイエスが仰せになったとおりの状態になったのでした。そればかりか、このとき死者の数は百万と記録されており、奴隷としてローマに連れ去られた者の数は九万人に及んだと伝えられています。
しかも、このエルサレムの滅亡は、かなり前からいろいろな形で警告の叫び声が聞かれ、また予兆としてのさまざまな不思議な事象が相次いで起こっていたと伝えられています。
「災害と滅亡を予告するしるしと不思議があらわれた。真夜中に、神殿と祭壇の上に異様な光が輝いた。戦いのために戦車や勇士たちが集結するのが、日没のときに雲の上に描き出された。夜間、聖所で奉仕をする妻子たちは、不思議な物音に驚かされた。地が震え、『われはここを去ろう』と大勢の声が叫ぶのが聞こえた。二十人がかりでもしめられないほど重く、しかも固い敷石に深く打ち込まれた鉄のかんぬきで閉じられた東の門の扉がだれもいないのに、夜半に開かれた。
また、七年の間ひとりの男がエルサレムの町をあちこちとへめぐって、都にくだる災いについて叫びつづけた。彼は、昼も夜も、激しい悲しみの歌を歌った。『東からの声。西からの声。四方からの声。エルサレムを責め、神殿を攻める声。新郎と新婦を責める声。全国民を責める声。』この不思議な男は投獄されて、きびしく罰せられたが、一言もつぶやきの言葉をもらさなかった。彼は、屈辱とののしりに対して、『エルサレムは、災いだ、災いだ』と答えるだけであった。彼の警告の叫びは、彼が自分の予告したその包囲の中で殺されるまで止まなかった」(エレン・ホワイト「各時代の大争闘」上巻)。
この警告をこころに止め、備えていた者は、難を逃れることができ、みな救われたといわれています。
今それについて詳しい説明はできませんが、しかしこのようなエルサレム滅亡の惨事も、じつはたんなるひな型であり、予兆であるにすぎませんでした。

世界の終末

イエスは、これを前触れとして世界の滅亡のときがやってくることを警告されたのでした。これは次の言葉によっても明らかだと思います。
「その日は地の全面に住むすべての人に臨む」(ルカによる福音書二一ノ三五)。
これを聞いた弟子たちは、なおも半信半疑の思いを拭いきれない様子ではありましたが、かなり不安な気持ちになってきたようです。
そこで、もしそれが事実なら、ではいったい、そのキリストの再臨は何時あるのか、その時期についてたずねています。もちろん、これは弟子たちのみか、われわれクリスチャンにとっても最大の関心事であり、それを知りたいと思うのは当然です。
「またオリブ山にすわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、『どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか』」(マタイによる福音書二四ノ三)。
この問いに対するイエスの答えは、どのようなものであったでしょうか。
「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書二四ノ三六)。
これは、弟子たちにとってはもちろん、こんにちのわれらにとっても、何か肩すかしを食わされた感じで、少々がっかりさせられる人もあろうかと思います。
「その日、その時は、だれも知らない」という。なぜなら、神がこれをお示しにならなかったからです。ではなぜ知らせてくださらないのでしょうか。これは、神ご自身もまだはっきりしていないことだったからでしょうか。
そうではありません。「ただ父だけが知っておられる」とありますから、神には何もかもご存じにちがいないのです。
神がこれをわれわれにお知らせにならないのは、それなりの理由があるからでしょう。どんな理由なのでしょう。
もし、その日、その時が明確に示されたなら、横着なわれわれ人間は、その日、その時までは大丈夫と勝手に決め込んで、備えようとしないでしょう。しかも、「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる」(ルカによる福音書一二ノ二〇)かもしれないのです。そうなったら、われらは、救いの機会を永遠に失うことにもなりかねません。
それらすべてをお見通しの神は、あわれみをもって、その日その時を伏せられたにちがいないのです。
それでは、再臨のときはいつなのか、百年後なのか、千年後なのか、それについてはまったく知るよしがないのかというとそうではありません。
「そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」。
とイエスは仰せになっています。
その日、その時はわからなくても、その日が近いことは分かるというのです。
それは、これらのことを見たならばとあります。すなわち、再臨のために前兆が与えられる、それによって、再臨の近いことがわかるというのです。

どんな前兆があるのか?

では、その前兆というのは具体的にどんなことなのか。イエスは、弟子たちの質問に答えて次のように説明しておられます。それは、マタイによる福音書二四章四節から一四節までと、二三節から三〇節までに記されています。
これを分かりやすくするために、少し順序を変えてテーマ別に説明させていただきましょう。

一、自然界にみられるしるし
イエスはここで、飢饉や地震があるといっておられます。しかし、これは何もいまにはじまったことではなく、遠い昔からいつの時代にもあったことではないかといわれるかも知れません。たしかにそのとおりにちがいありませんが、しかし、これがしるしとなるということは、これまでとははっきり区別される形で起こるということなのです。
たとえば、ききんについては、昔にくらべ今は人口の増加という面もあるとはいえ、飢餓に苦しむ人の数は天文学的に増大しています。これについてはアフリカやインドその他に見られる状況について、どなたもよくご存じのはずですから、ことさらの説明は必要としないでしょう。
地震についても同様です。しかし、これは統計を見ることによって、やはり聖書の預言する前兆であることをあらためて再認識しないわけにはまいりません。
しばらく前までは、一七五五年に起こったリスボンの大地震がそれであるといわれていました。このとき約六万名以上の人が一瞬にして命を奪われています。しかし、最近はスマトラ島沖の地震や津波で何十万という人の命が奪われていますので、地震に関する預言はこれらも含めて理解しなければならないようです。
それにしても、これらが再臨の前兆に関する預言の成就であることは、次の統計ではっきりするのではないかと思います。
なんでも、一七世紀までは、破壊的地震の数が一〇〇年一回であったものが、一八世紀には六回に増え、一九世紀にはいると、なんと一年一回に急増しています。しかも、一九世紀の後半になると一年四回に増えているのです。一〇世紀に三二回であった地震が一九世紀には二一一九回という統計もあります。大英百科事典によれば、最近五〇年間に起こった地震の数は、それ以前八世紀間に起こった地震の数より多いと述べています。
これらを見れば、地震の数の増大はやはり、イエスの預言の成就であり、再臨の前兆であることをみとめないわけにはまいりません。

二、社会・道徳界に見られるしるし
イエスは「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」と言っておられますが、使徒パウロは、このイエスの預言をもっと具体的な形で説明しています。
「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」(テモテ第二の手紙三ノ一〜五)。
もちろんこれも、いつの時代にも見られたことではありましょうが、パウロがとくに「終のときには」と言っていることからしますと、これらのことがはっきりと、前兆と認められる形で顕著にみられるようになる、ということでしょう。
たしかに、いまわれわれの周りに起こっているこうした状態は、以前にはなかったことであるとの感じを、どなたにも共通してもっておられるにちがいありません。ですから、そのいちいちをここに詳述するまでもないと思います。

三、宗教界にみられるしるし
イエスは、偽予言者と偽キリストの出現について警告しておられます。しかも、世の終りが近くなると、それが顕著になることを告げておられます。
聞くところによると、いまアメリカでは自分が予言者であると名乗る者が何十人とおり、それを認めるようにとの申し入れが、わが教団本部にも寄せられているとのことです。これらのほとんどは降神術者であって、聖書の預言者とは関係のないものです。
また、自分はキリストであるとか、キリストの再来であると主張する者も、世界のあちこちに現れています。なかでもよく知られるのは、統一協会の文鮮明です。彼は自分を再臨のキリストであると自称しています。
麻原彰晃は仏教に近く、キリスト教とは無縁のように見えます。しかし彼は、聖書の黙示録を解説し、そのなかにあるハルマゲドンの記事を取り上げ、これは世界最終戦を意味するものであり、このあとに新しい世界が現れるのだから、早くハルマゲドンの戦争を起こす必要があるということで、サリンを撒いたりもしているのです。しかも、自分を救世主としている点で、彼もやはり偽キリストの部類に入るのかも知れません。
以上の事柄は、聖書と照らし合わせてみるなら、世の終り、またキリスト再臨の前兆であることを認めることができるはずと思います。しかし中には、これをたんなるこじつけとして聞き流す人もおられるにちがいありません。
そこで、そういう方々も簡単には否定できまいと思われる預言を、次にあげたいと思います。

四、天体にあらわれたしるし
イエスは、これについて二つのことを預言しておられます。

1、「たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ…」(マタイによる福音書二四ノ二九)。
この預言は、「大暗黒日」として知られる事件によって、一七八〇年に成就しています。これは、アメリカのニューイングランドを中心に、西半球に起こった現象で、昼が夜に取って変わられたような特異な現象が見られたのです。
午前一〇時から一一時ごろがもっとも著しく、戸外で本を読むこともできない程の暗さであったといわれています。その暗黒は真夜中までつづき、月が出るには出たものの、血のように真っ赤であったと記録されています。鼻と鼻とが触れ合うほどに顔を近づけても、相手の存在を見分けることができなかったともいわれていますから、その暗さはやはり異常であったことは否めません。
この暗黒の現象については、ウエブスター辞典「暗黒日」の項にも述べられており、イエール大学の教授やハーバード大学の教授などの証言もあります。
なかには、これは日蝕の一種ではなかったのかというかも知れません。しかし、ある新聞は、「その日は、月が太陽から一五〇度も離れた位置にあったから、その暗黒は決して日蝕ではないことが明らかである」と報じています。

2、「星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」(マタイによる福音書二四ノ二九)。
この落星についての預言は、一八三三年に起こった獅子座流星雨がその成就であるといわれています。この出来事については、アメリカ百科事典の「流星の項」に、イエール大学のオルムステット教授の担当による記載があり、「有史以来かつてない流星」とか、その密度は「ふぶきの雪片、夕立の雨粒に比較」されるほどであったとあります。
またある天文学の記録には、「流星の数は一時間二〇万とかぞえられ、それが五、六時間も続いた」とありますから、一晩に百万以上の星が流れたということになります。しかも、ある星などは赤ん坊の頭ほどの大きさに見えたとも伝えられています。
この落星については、ヨハネの黙示録にも預言されています。そこには、「天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落とされるように、地に落ちた」(六ノ一三)とありますが、ある目撃者はこう証言しています。
「星は時々かたまって降ってきました。それは『いちじくの木が強風によって揺すられたとき、時ならず、その実を落とす』様子を思い起こさせました」。
これらの出来事について、ある新聞の社説は、このように書きました。
「わたしはどんな学者・哲学者の中にも、昨朝のような事件を予知した人があったという事を聞いたことがない。もし聖書に記されている『星が落ちる』という語が流星を意味するものとすれば、預言者ヨハネは、すでに一八〇〇年前にこのことを預言していたわけである」。

五、宣教活動にみられるしるし
イエスはこのように告げておられます。
「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイによる福音書二四ノ一四)。
これによれば、この福音が世界中に広まるなら、それは世の終り、キリストの再臨が近いという、決定的な証拠であり、しるしであるということになります。
こんにちクリスチャンの数は、一九億といわれていますから、世界の人口の約三分の一に迫っており、福音の宣伝についていえば、聖書の普及は、世界人口の九六パーセントに及んでいます。
ラジオやテレビの放送によっては、当然それ以上ということになるはずです。

これらの前兆が意味するもの

イエスは、前兆に関する預言ののち次のように言っておられます。
「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタイによる福音書二四ノ三二)。
この前兆に関するイエスの預言は、つぎのことがらを示しているといえます。

  1. この預言とその成就は、生ける神の実在を立証するものである。
  2. これは神の約束の確かさと真実性を立証するものである。
  3. これは再臨に対する備えの必要を示している。
  4. これは再臨の確実性を示すものである。
  5. これは再臨の切迫性を示すものである。

 

再臨に体する備えの必要

わたしは、最初北海道の函館教会に赴任したのは、昭和二六年でしたが、そのころはまだ青函トンネルは出来ておらず、汽車で旅行する人々は、函館・青森間は連絡船に乗り換えなければなりませんでした。
しかも戦後間もないころの事ですので、闇米の行商人が大勢乗り込んでおり、乗り換えは混雑がひどくひとびとはみな必死でした。
ところで、いまかりに北海道の最北端から東京に行こうとする人があるとします。本州は生まれて始めての旅です。本人にとって自分の乗った汽車が、はたして本州へまちがいなく運んでくれるものかどうかなにもわかりません。とても不安です。
もちろん、長旅の人はかならず鉄道地図をたずさえます。それをしょっちゅう出して開いては、通過する駅が地図の通りかどうかを確かめながら進んで行きます。とはいえ、はじめての旅はだれにとっても不安であり、気持ちがなかなか落ちつきません。
けれども、列車が札幌を通過し、苫小牧から長万部を通り、大沼駅にやってきたら、この列車が函館に向かっているのはたしかで、もはや寸毫の疑いの余地もないでしょう。あとはどうやって、うまく連絡船に乗り移れるかの問題です。
もたもたしているとたいへんなことになりますから、大沼駅あたりまでくると、そろそろ降りる支度をする人も出てまいります。そうすると、それにならってだれもかれもが、網棚から荷物をおろし、外套を着ます。そして五稜郭駅に近付くともう乗客は荷物を背負ったり下げたりして、降車口の扉の前に殺到します。

そのころは、場合によって予定した連絡船に、満員のため乗りはぐれることがあり、次の便まで何時間も、いや翌日まで待たなければならないことさえあったのです。
これとおなじように、キリスト再臨の前兆としての預言は、地上歴史の鉄道地図のようなものです。そして、前兆にかんする預言の成就は、各駅の通過と同じ意味をもっているといえるわけです。
それはまず、自分の乗った列車は上り列車であり、まちがいなく函館にむかっていることがわかるように、歴史は聖書の預言通りに進行しつつあることがわかります。そして、列車が五稜郭についたら、次は終点の函館であることがはっきりします。イエスが再臨の前に、その前触れとしてこれこれのことがおこると告げておられた、それらのことが起こったら、それは再臨の確実性を示すものであり、同時に再臨の切迫性を示していることになるのではないでしょうか。
それにもかかわらず、せっかくの警告を疑ったり、ぐずぐずして備えを怠っているならば、どういうことになるでしょうか。
列車から降りた乗客は、重い荷物を背中や手にしながら、息せき切って連絡船の乗船口にむかってはしっていきます。荷物の少ない人はすばやく乗船口近くに並びます。荷物の多い人や重い荷物を持った人は、速くは走れませんから、どうしても列の後方に並ぶほかなくなります。そうするとどうなるでしょう。船の乗客が満員になって、乗船口で足留めをくい、その船には乗れなくなり、取り残される人もあるように、キリストの再臨にたいして、備えがまにあわず、地上に取り残されることにならないともかぎりません。
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたにはわからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかつているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイによる福音書二四ノ四〇〜四四)。

ゆえに使徒パウロはこのように言っています。
「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。しかし、兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。おなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だからほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから信仰と愛との胸当を身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」(テサロニケ第一の手紙五ノ一〜八)。

動物から学べ

大分前に、リーダース・ダイジェストに載っていたこんな話を思い出します。米国のことだったと思いますが、ある農夫が川の上流が急に豪雨に見舞われ、まもなく川下の水が増して洪水になる危険があるから、気をつけるようにという電話の知らせを受けました。
そこで農夫は、牧場の川辺の動物を高い山のほうに追いやるために、そこへ行く途中、異様な光景を目にしました。それは母ねずみ(袋ねずみ)が子ねずみを背中に乗せて高地に向かう光景でした。しばらく行くと、やはり山ねずみが一匹、高い丘のほうに上っていきました。川辺にやってくると母親のいたちが、いたちの家族を川辺から引き離そうとしている光景を目にしました。また野うさぎが狩人に追われて、あちこちめちゃくちゃに逃げまわるときのようにではなく、わきへそれる事なく、真っ直ぐ丘に向かって駆け登っていきました。しばらくするとふとった荒い熊が、やはり丘に向かってのそりのそりと歩いていく姿も見えました。
こうした光景を目撃した農夫は、ふしぎな気持ちにとらわれたのでした。
このときはまだ、川下のこのあたりは天気もよく、雨が降っているわけでもないのに、動物たちはどうして川上の豪雨や増水で、まもなくこの辺が洪水になることを知ったのであろうか。空気の振動とか地面がゆれるとか、何かそのような兆候でもあったのだろうか。
それにしても人間はだれかから知らされない限り気づかないことを、動物たちはどうしてそれを察知して、申し合わせたように安全地帯に避難することができるのであろうかと、ただただ驚くばかりであった、という話でした。
たしかに、動物には本能的に、そうした異変や危険を察知する能力が備わっているもののようです。わたしが小学校一年のとき、校舎が火事で全焼したことがありました。前の晩、日直の先生が宿直室に寝ていたのですが、いつもは天井裏でねずみの駆けっこの音がうるさくて寝つかれない状態なのに、その晩にかぎって、コトリとも音がしなかったというのです。いったいこれはどうしたことか、と不思議に思いながら眠ったとのことでした。
翌日の昼頃火事で校舎が全焼したわけですが、ねずみたちはそれを感知して姿を消してしまっていたものと思われます。
同じような事が、一関市が大洪水で町が流されたときにも起こったと聞いています。二、三日前から、どこの家にもねずみが全くいなくなってしまっていたというのです。

むすび

こうしたはなしは、どこにでもあることのようですから、どなたもよくご存知と思います。
ところが、われわれ人間はどうでしょうか。世の終りについて聖書を通し、前兆としてのできごとが多く預言されており、それがわれわれのまわりに明確に成就しているのです。
それにも拘らず、これに対して何の注意もはらわず、身を守るために備えをしようとしないとしたら、われわれ人間は万物の霊長たることを誇ることなど、とうていできないのではないでしょうか。
したがってまた、備えを怠ることによって、たとい滅びることになったとしても、神の前になんの言い開きもできないのではないでしょうか。

要点の確認

  1. イエスは弟子たちに、エルサレムの滅亡を預言されたが、これは世界の終末の予兆であり、そのひな形としての意味をもつものであった。
  2. エルサレムの滅亡のときには、その前触れとしてさまざまな異変が見られたと伝えられている。そのように、世の終わりにも、キリストの再臨の前兆として、いろいろな出来事が起こると預言されている。
  3. 飢饉や地震、戦争の噂 、社会の道徳的腐敗堕落、さらに自然界に見られる予兆として、落星・暗黒の異象などが預言されており、しかもそれが歴史上につぎつぎと成就している。
  4. これらは、世の終わり、ならびにキリスト再臨の確実性と切迫性を示すものであり、そのときのために、備えの必要を告げ知らせ、それを促すものである。
  5. 動物でさえ、火事や地震や洪水、その他の災害が起こるときには、それを予知し、感得して、すばやく避難することが知られている。
  6. われわれ人間に、これだけの証拠、またしるしが与えられているにもかかわらず、なにも備えることをしないとしたら、万物の霊長といわれるわれわれ人間は、はたして動物にまさることを誇ることができようか。
  7. この聖書のメッセージをきかれる方は、この警告を心に留め、一人も滅びることなく、永遠の命の救いにあずかることができるよう、キリストを仰ぎ見、その日のために備えるべきである。