第13課 世界の希望キリストの再臨

はじめに

前回、キリストの復活について學びました。キリストは神が人となってこの世にお現れになった方です。そのお方が、十字架刑に処せられて死なれたとはなんとしたことでしょう。たいていの人は、このことだけで、そんな者がどうして神などであり得ようかと思ってしまうようです。これはあまりにも当然のことといわねばならないでしょう。
しかし、ことはそれで終わらなかったのです。聖書には、このキリストが三日目によみがえったことが記されています。しかも、聖書の記録自体の中に、これが歴史的事実であることを示す証拠が数多く見い出されます。ですから、これまで世界的に著明な政治家・法律家・科学者・思想家のなかにキリストの復活を文字どおりに受け取り、信じた人が無数におられるのです。

復活後のキリストはどうなったのか?

ではいったいそのキリストはいまどこにおられるのか。ほんとうに生き返つたというのならどこかにおられるはず、そのキリストをいつか見かけたとか、出合ったとかいう人が、どこかにいるのかと問われる方があるかもしれません。聖書にはつぎのように記されています。
「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた」(使徒行伝一ノ三)。
イエスは復活後四十日ものあいだ、たびたび弟子たちにお現れになり、復活の証拠をお示しになったとあります。しかし、それはいまから二千年もの遠い昔の話、ではこんにちも、このキリストがどこかに現れたとか、それを見た人があるとでもいうのか。そんなはなしはこれまで聞いたことがない。ほんとにキリストが生きているというのなら、どこかにいるはずだが、いったいどこでなにをしているというのか、と口には出さずとも心の中でそのように自問なさる方がおられるにちがいありません。
これについて聖書は、次のように告げています。イエスは復活して四十日後、弟子たちを連れてオリブ山に登って行かれ、弟子たちにたいして、「この福音は全世界に宣べ伝えられねばならない。あなたがたはそのため、わたしの証人となるであろう」と、おおせになりました。これはイエスの弟子たちにたいする遺言であり、約束と命令でもあったのです。聖書はつづいてこう記しています。

「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて(この雲とあるのは天使の集団と思われる)、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った。『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」(使徒行伝一ノ九〜一一)。
キリストは天から降ってこられた方であるなら、一定の使命を果たされて後、天にお帰りになるというのは当然であって何も不思議ではないわけです。けれども、突然思いもかけないできごとのために、ただ呆然と空を仰いで立っていた弟子たちに、天使が現れて後ろから声をかけています。このキリストは、やがての日ふたたびこの地上に戻ってこられると言うのです。
わたしは、戦後間もなくのころ、はじめて聖書を手にしてここを読んだ時とき、非常な感銘をうけ、この記事にすっかり釘付けになってしまったことを思い出します。現実のこの世界に、現実を超えた不思議な事実が存在するということを知ったことは、非常なおどろきであり、からだが震えるほどの感激でありました。わたしはこのとき、直感的にキリストはふつうの人間ではなく、神的なお方であることを確信しました。この記事が、あまりにも迫真的であり、たんなる作り話とはとても思えなかったからです。
ところで、いま弟子たちを離れて天にあげられたこのイエスが、またふたたび戻ってこられると、天使から告げられた弟子たちは、われに返ったように、非常な喜びに満たされ、たしかな希望と揺るがぬ確信が与えられたのでした。こうして彼らは、臆病な者が勇気ある者に、人を恐れていた者が大胆な者に変えられて、民衆の前に現れ、力強くキリストをあかししたのでした。
私も、敗戦によって、それまでの人生がすべてご破産になり、生きる意味と目的を見失って、まったくの虚脱状態に陥っていたとき、この聖書の記事、すなわち復活のキリストと、昇天したキリストが、やがての日に再臨されるという、このメッセージによって、世界観・人生観に大転換が起こり、前途に明るい光とたしかな希望を見い出すことができたのでした。

救いの計画と再臨の関係

それにしても、このキリストの再臨は、神の救いの計画とどういう関係にあるのでしょうか。すでに学びましたように、われわれ罪人はキリストの十字架によって罪を赦され、救いの道が開かれました。しかしそれは、救いの実現を意味しません。今なお生活難があり、 病があり、死があるのです。ですから、使徒パウロは次のように言っています。
「実に、被造物全体が、いまに至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく・・・わたしたち自身も、心の内にうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちはこの望みによって救われているのである」(ローマ人への手紙八ノ二二〜二四)。
この聖句が示しているように、われわれの救いは、望みによる救いであって、それは未来に約束された救いなのです。パウロはこうも言っています。
「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのである」(ヘブル人への手紙九ノ二八)。
すなわち神のまったき救いは、キリストの再臨によって実現するというのです。神の救いの計画を植物にたとえるなら、神がアダムにお与えになった救いの約束は福音の種ということができます。これにたいして、キリストの十字架は、それが発芽成長してつぼみが開花した状態にたとえることができましょう。そして、キリストの再臨はまさに結実と収穫に相当するわけです。その意味で、種も芽や花や実によってその目的が達成されるように、神の救いの計画も、再臨によってはじめて成就し、実現するのです。
「聖書に現された最も厳粛にして歓喜に満たされた真理は、救いの完成であるキリスト再臨の教義である」(エレン・ホワイト)。
そういうわけで、キリストの再臨は、神の救いの計画の中に前もって予定されていたことでしたので、神はこれを、アダム以来の各時代の民たちに、くりかえし預言によって啓示してこられたのでした。
これから、その約束の代表的なものをいくつか見てみたいと思います。

1、エノクの預言
「アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った。『見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである』(ユダの手紙一四、一五)。
アダムから七代目というと、今から五千年以上も前の人ということになります。

2、ヨブの預言(前三五○○年)。
「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられるる後の日に彼は必ず地の上に立たれる。・・・しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる」(ヨブ記一九ノ二五〜二七)。

3、イザヤの預言(前八世紀)。
「心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と」(イザヤ書三五ノ四)。

以上は、旧約聖書の預言ですが、つぎは新約聖書の預言です。

1、イエス・キリストの預言
「イエスは彼に言われた…わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイによる福音書二六ノ六四)。

2、使徒パウロの預言
「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは、待ち望んでいる」(ピリピ人への手紙三ノ二〇)。
このような、キリストの再臨に関する預言が、研究者によれば四一八箇所に記されているといわれます。これは新約聖書だけでも三一八回におよんでおり、二五節に一回のわりあいになるとのことです。

それにしても、キリストの再臨というこのおとずれは、われわれ人間の知性や常識によって認め受け入れることは、容易なことではありません。これは世界観、人生観の革命的な思想であり信条であるからです。そのため、せっかく神を信じ、聖書を信じていながら、これをそのとおりに信じることができない人もおり、これを超自然的な奇跡的できごとではなく、理性によって理解しうる自然的なできごとであることを示そうとして、いろいろと合理的な解釈を試みた人が少なくありませんでした。その実例として次のようなものがあります。

再臨に関する合理的解釈

1、聖霊の降臨
イエスは天にお帰りになるにあたって、悲しみに沈む弟子たちを励ますために、つぎのような約束をお与えになりました。それは「わたしはあなたがちたを孤児とはしない。父にお願いし、わたしの代理として聖霊を送る」というものでした。ところが、イエスが天に帰られて十日後に、復活されて五十日目に、聖霊が雨のように弟子たちの上に注がれたと使徒行伝二章に記されています。これをペンテコステ(五旬節の意)の聖霊降下といいます。あるひとたちは、キリストの再臨というのは、この聖霊降下のことを言っているのだともうします。
しかし聖書は、再臨をもつと未来のこととして語っています。

2、エルサレムの滅亡
イエスは、生前エルサレムの滅亡を預言しておられましたが、これはそれから四○年後に成就しています。すなわち、紀元七○年ローマ軍の包囲攻撃によって神の都エルサレムは壊滅してしまつたのですが、これは神のさばきの降下であって、キリストの再臨と言うのはこれを指していたのだというわけです。
しかし、じつはその後に書かれたヨハネの書、とくに紀元九六年頃に書かれた黙示録にも再臨の預言がありますので、この解釈は聖書的とはいえません。

3、個人的入信の時
人々が福音を聞き、キリストを救い主として信じたとき、それがその人にとっての再臨の時であると言う人もいます。
しかし聖書によると、再臨を迎えるのは、信じる人だけではなく、不信の人も再臨を迎えることになると記されているのですから、この解釈も聖書の記事と調和しないことになります。

4、われわれが死ぬ時
われわれが死に臨む時、それはキリストに迎えられる時であり、キリストがわれわれを迎えにこられた時にほかならない。再臨とはそのことを言っているのだという説もあります。これは、どなたにとっても納得のいく、よくわかる説明のように思われますが、しかし、これも聖書の記述と矛盾します。
というのは、聖書によると、キリストの再臨のときには、すでに死んでいた者はよみがえらされて、キリストを迎える。しかし、再臨のときに生存している人々は、死をみずして生きたままキリストを迎え、キリストのもとに集められるとあります。
ですから、この解釈も聖書にもとづく解釈とは言えません。

5、理想世界出現の時
この世界は、しだいにキリスト教化され、やがて平和な理想的世界やってくるにちがいない。聖書の言うキリストの再臨というのは、そのときのことを指しているのだという考え方もあります。おそらく、これがもっとも多くの人に受け入れられてきた考え方と思われます。
しかしこれは、進化論を社会にもあてはめて、社会進化論を学問的真理として信奉する人々の聖書解釈です。聖書は世界が進歩し向上して、政治や平和運動などによって、理想世界が実現するとは告げていません。むしろ、この世界はますます悪化し、やがて破滅すると警告しています。
しかも、現実のこの世界は、聖書の警告どおりになってきており、これはだれもが認めざるを得ない状態ではないでしょうか。

聖書のいう再臨は文字どおりの意味

いずれにしても、聖書がいうキリストの再臨というのは、ひとびとが自由に解釈して受けとってよいというものではなく、文字どおりの意味であるのは明白です。あとは、これを聞いた人がそのとおりに信じられるか、信じられないかの問題ということになるわけです。
ところで、この世界の現実はあまりにも、不自然かつ不条理な状態にあり、だれひとり満足できる者はいないわけですが、問題はこれから先、いまよりもっと住みよい世界になるものかどうかです。すくなくとも第二次世界大戦までは、だれもが世界の将来にバラ色の望みをいだいていたはずです。しかし、戦後はこのような期待は完全に覆されてしまい、未来はまるで遮断されてしまったかのような感じで、ひとびとは現実の目の前のことしか念頭にないような生き方になっているのではないでしょうか。
世界の将来にたいして、今日はもはや、政治も、経済も、科学も、文化も、その他いかなる社会改変の運動や活動も、ついに目的を達しえず、その可能性さえも見出だしえないというのが実状ではないでしょうか。
この世界の将来に、なお残されている希望といえば、それはただ一つ、聖書に約束されているキリストの再臨だけなのです。これを別にしてほかに、真に希望の名にあたいするものは、この地上のどこにも見当たらないといってよいでありましょう。

キリスト再臨の目的

ところで、キリスト再臨の目的は何かということですが、もちろんアダムがサタンによって詐取されたこの世界を、サタンの手から奪い返し、神のみ旨の完全に行われる永遠の平和理想世界を再建(エデンの園の復元)するためですが、それにはまず神への反逆という罪の処理と、罪の結果としてのこの世のガラクタを清算し払拭する必要があります。
そのために、神がまず最初におこなわれることは、審判ということです。聖書に次のようにあります。
「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる』と。
主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる」(詩篇九ノ一○、一三)。
イエス・キリストの再臨のとき、全世界がさばかれ、その結果人類は神の前に二分されると聖書は告げています。
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、かれらをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう」(マタイによる福音書二五ノ三一〜三三)。

世界の終末と人類の運命

このイエス・キリストの再臨のとき、全世界がさばかれ、その結果人類は神の前に二分されると聖書は告げています。
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、かれらをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう」(マタイによる福音書二五ノ三一〜三三)。
そして、その結果はどうなるのでしょうか。

A.右に分けられた人
「そのとき、王は右にいる人に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』…
それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイによる福音書二五ノ三四、四一)。
これによると、まず右に分けられる人々は、御国を受け継ぐとあります。したがって、キリストの再臨は、ながいあいだ待ちに待ったあげくに迎えることになるわけですから、それはそれは喜びに満ちた幸いなできごとにちがいないのです。
「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救いを喜び楽しもう』と」(イザヤ書二五ノ九)
したがって、このような人々にとってキリストの再臨は、ある人々が考えるように、それは恐怖すべきことがらではなく、むしろ歓喜に満ちた心躍るできごとであるのです。
ですからパウロは、つぎのように言っています。
「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている」(テトスへの手紙二ノ一三)。

B.左に分けられた人
これにたいして、左に分けられた人々はどうなるのでしょうか。「わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」と言われる、というのです。
このような人々にとって、キリストの再臨はたしかに、非常に恐ろしい絶望的なできごとであるに違いありません。
「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩とに向かって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』。」(ヨハネの黙示録六ノ一五〜一七)。
このキリストの再臨が、幸いの日となるか禍いの日となるか、歓喜の日となるか驚愕の日となるかは、現在におけるわれわれと神との関係いかんにかかっている、ということになるのです。

この世にも不思議な出来事

ところで、このキリストの再臨は、人間の理性や経験で、容易に理解し認め得ることがらではなさそうです。なぜなら、それは人間が計画し、人間の意思や努力でおこなうものではなく、神が計画し、神ご自身が遂行なさることがらであるからです。
そもそも、人間の出生自体、われわれは自分の意思や願望とは関係なく、この世に生みだされ、生かされているわけですが、それとおなじように、新しい世界も、人類の意思や計画や努力とは関係なく、神ご自身がその独自の計画に基づいて、その実現をはかられることがらなのです。
したがって、これらの事実は、人間の知識や認識によってはじめて可能になるというようなものではありません。まず事実があって、人間の知識や認識はそのあとに伴う、ということになるのです。すなわち、事実が先で、認識はあとにつづいて生じることになるのですから、キリストの再臨が人間の理性や経験で認めえないのは当然であり、それはやむを得ないことなのです。
もちろん神は、たんなる衝動や気まぐれによって、事をはかり、また起こされる方ではありません。深い知恵と永遠的思慮にもとづいて、それをなさるに違いないのです。ですから、この信仰に間違いはありえないことです。たとえば、人間の出生にしても、わたしがこの日本の国に、ある家族の一員として、しかも男、また女として、生まれていたという事実を、わたしどもは物心づいて気がついてみたら、あとでそれと知ったということであったはずです。おなじように、新しい世界も、そこに救われた人が、ある日突然、自分が救われて神の家族の一員となって、そこに存在しているという事実を、あとで知り、それに気づかされた、という形でその日を迎えることになるわけでしょう。
そういうわけですから、キリストの再臨ということは、われわれの知性によっても、経験によっても認識しえないことがらであって、それはただ、神が仰せになることを信じて受けとり、そのお約束にたいする信頼によって、これを待ち望む以外にはない、ということになるのです。(ただし、神の約束は、人間の約束とちがって、絶対に間違いのないものであることを確かめた上でのことではあるのですが…)

英雄待望論

キリスト再臨の可能性については、たしかに、人間の理性や経験や推論によっては、とうてい認知し、首肯できるようなことがらではないわけですが、しかしながら、たとえば人類のあいだでは、昔から「英雄待望論」というものが根強く存在していました。
やがていつの日にか、とてつもなく傑出した偉大な人物がこの世に現れて、地上から悪という悪を一掃し、万民がみなひとしく、あらゆるよきものに満たされて幸福にくらせる、そういう世の中を現出させてくれることを期待し、それを待ち望んでやまなかったのです。
かつてのユダヤ民族がそうでありました。またイスラム教徒が、マホメットを予言者と信じて、その教えにしたがってきたのも、このためであるといえましょう。もしかしたらフランス国民がナポレオンにいだいた期待も、ドイツ国民のヒットラーに対する憧憬願望も、同じであったのかも知れません。
英雄待望論は、人物崇拝をあたまから拒否する人々でさえ、これとは違った形においてではあっても、やはり存在しているのです。かつての国際連盟、現在の国際連合は、まさにそれであるといえましょう。
宗教の世界においても、たとえば仏教の中に、今兜卒天で法を説いているといわれる弥勒菩薩が、いつの日にかこの地上に下生して、釈迦に代わって仏になるという教えがあります。これもやはり、前述の英雄待望論と同じ期待に根差しているものといってよいでしょう。
さらに、政治と宗教の両面から、期待を一身にあつめている存在に、ローマ法王があります。世界的に見て、今法王こそが、こうした人類の欲求願望に応えてくれる存在であるかのように、漠然とした幻想をいだいている人が少なくありませんが、これも、先に述べたおなじ理由からにほかならないものと思われます。
以上述べたことのうち、政治的な英雄待望論は、その実現の可能性が、おそらく十中一もあるかないかであることは、だれもがみな一様に感じとっていることではないでしょうか。
宗教的な英雄待望論としての弥勒菩薩の下生にいたっては、なんとそれは五六億七千万年後といわれているのですから、十中一どころか、五六億七千万分の一の可能性さえも期待できる話ではないというべきでしょう。
もっとも現実性がありそうにみえるのは、ローマ法王のようにも思われますが、これはしかし神のご計画から出ているものでは決してありません。
神のご計画は、神が人となられたお方であるイエス・キリストの再臨によって成就するものであるからです。
しかし、さきにあげた英雄待望論にみられるような、そんなに当てにならないことでさえも、人はこれをせせら笑ったり、無下に否定したりはしないのです。とすれば、イエス・キリストの再臨ということを、いたずらに笑殺したり、耳を閉ざして聞き流したりすべきではないように思うのですが、どうでしょうか。
しかもキリスト再臨の可能性と確実性は、その確率が一〇〇パーセントであり、それは聖書の預言の成就によって、確証されていることなのです。
哲学者であり、科学者でもあったパスカルはこう言っています。
「もしわたしが、救い主について語られていることをまるで聞いたことがなかったとしても、世の成行きについてのこんなにも驚くべき預言が成就したのを見たあとでは、このことが神のみわざであることがはっきりわかる。また、これらの書物が一人の救い主を預言しているのだとわたしが知ったならば、そのことの確かさを確信するであろう」(パスカル『パンセ』七三四)。

どうしたらそれが信じられるのか

ところで、このごろいかがわしい宗教が簇生しており、しかもキリストの名を詐称し、神の言葉を悪用して、世人を惑わす者が多く現れています。ですから、日本人が聖書の教えに警戒的な態度をとるのは、むりもないことです。したがって、「聖書にこう記されている」という説明は、あまり相手にされなくなっているということが、たしかにあるように思います。
そこで、聖書の真理に注目していただき、神のメッセージに耳を傾けていただくためには、すでにこれを信じ受け入れている人々の例をとりあげ、これらの方々に直接、その所信を語ってもらうのが、最善の道のように私には思われます。そのほうが、みなさんにとっても、きっと安心してお聞きになれる、もっともいい方法に違いありません。
そこで、これからそうした人々を何人かご紹介させていただくことにしたいと思います。
ところで、その中の一人内村鑑三氏は、次のように言っています。
「余輩がキリストの再来を高唱するとて余輩を哀れんでくれる者がある。余輩はまことに彼等に哀れまるるごとき迷妄の徒であろう。しかしながら世には余輩よりもはるかに偉大なる人々の中にこの信仰を懐きし者があった。今ここにその十人だけを掲げよう」
そう述べて、近世にはいって、このキリストの再臨を信じた人々の中から、つぎの方々の名をあげて、その信仰を紹介しています。

第一、オリバー・クロムウエル
彼なくして、こんにちの英国も米国もなかった。ことに民主主義は、彼によって英国のものとなった。その彼は熱烈な再臨信者であったのである。
第二、ジョン・ミルトン
彼は、キリスト教詩人として著名である。天才においてシエークスピヤにおよばず、該博においてゲーテに劣るといえども、その道徳性の深さにおいては、彼等以上であった。この人もまた堅き再臨信者であった。
第三、アイザック・ニュートン
引力説と二項式の発見者、微分積分の完成者としてたれ知らぬ者もない彼は、単純なる基督者であり、疑わずしてキストの再来を信ずる人であった。
第四、マイケル・フアラデー
彼は近世電気学の率先者中主たる者である。その彼が熱心な再臨信者であったと聞いて人は意外に思うであろう。
第五、ヤコブ・ベーメ
彼は科学者ではなく、神秘主義者であった。彼は死に臨んで美わしい天の音楽を聞いたという。かかる人が再臨を信じたと聞いて何人も怪しまない。
第六、チンチエンドルフ伯
過去三百年間において、純なる信仰者として彼にまさる者はなかった。この基督教的大紳士はキリスト再臨の高唱者であった。
第七、アウグスト・フランケー
神学者、慈善家、彼の建設した孤児院は世界的に有名。メソヂスト教会の開祖ウエスレーは彼に負う所多く、その彼はキリストの再来の信者であった。
第八、ジョージ・ミュラー
世界最大の孤児の父。彼の信仰よりキリスト再臨の信仰を除いて信仰なるものはなかった。再来の信仰は迷妄ではない、実際的真理である。
第九、トレゲレス
冷静にして、注意深い精密なる聖書学者として彼は錚々の聞こえある者である。彼もまたキリスト再臨の信者であった。
第十、ベンゲル
ベンゲルを知らずして新約聖書の解釈を語るべからず。彼は実に近世聖書解釈の祖先である。彼は特に再臨の高唱者であったことは著名な事実である。

内村氏はこれを「基督再来を信ぜし十大偉人」と呼び、こういっています。
「以上十人である。余輩はその数を十倍にすることができる。しかし今は十人で充分である。…彼等のいかに偉大なりしかを知る人にとりては、これ重き証明である。…余輩は獨り嘲けらるるのではない。これらの福音の大証明者等と共に嘲けらるるのである。
基督教はもともとこの世の智者達者より嘲けらるべき宗教である。キリストの奇跡的出生、…その復活、昇天、再来を信ずる宗教である。嘲けられずして何ぞやである。嘲けられざる基督教は奇怪しき基督教である。かの『科学的』にして『合理的』なる基督教は世に嘲けられざるかわりに罪人をして悔い改めしむるにおいて何の効果なき基督教である。この世の学者等の立場より見てすべての宗教は迷信である。激烈に嘲けられてこそ宗教は宗教たるその真価を発揮するのである。嘲けられて我は始めて真理を握りし実証を得るのである」

このように述べ、さらに付記してつぎのように言っています。
「ニュートンが単純なる聖書その儘を信ぜし基督者なりしことは、多くの学者を躓かせた。彼等はどうしてもその説明を得ることはできないのである。しかしながら、余輩をもって見れば、これ決して解し難い事ではない。ニュートンは深い科学者でありしが故によく科学の能力を知ったのである。科学をもって知り得ることと知り得ざる事とを知ったのである。

故に彼は科学を正当に利用して、これをもってその勢力範囲以外の事に立ち入らなかったのである。故に彼の心は常に平和であって彼の頭脳は常に明晰であったのである。彼は究むべきは学者として究め、信ずべきは信者として信じたのである。故に彼は幸福であったのである」。

日本人の中で再臨を信じた人々

いうまでもなく、これを信じた人は無数にいるのですが、そのほとんどは社会的に無名の人々です。したがって、そうした人達を例に出しても、なんの助けにもならないかも知れませんから、極少数の人にかぎられることにはなりますが、世間に広く知られる人で再臨を信じた方々をあげ、その証言を二、三ご紹介したいと思います。
まず第一にあげられなければならないのは、なんといっても内村鑑三氏でしょう。切手の肖像にも用いられたことで、どなたもよくご存じのはずです。札幌農学校で魚類学を専攻した生物学者でありましたが、学生の時、有名なクラーク博士の影響によって、キリストを信じるようになりました。

第一高等中学校(後の東大教養学部)に奉職した際、教育勅語に最敬礼をしなかったことが、社会的問題となって罷免されています。しかし、この方の長男である祐之氏は、東大医学部の教授となり、学部長もつとめられた方で、精神医学の権威として知られています。
内村鑑三氏が、再臨を信じられたのは五七歳になってからであったようです。人生のあらゆることを知り尽くして後の結論としての信仰であったといってよいと思います。
まず、再臨を信ずる前の心境について、内村さんはこう語っています。
「今や平和の出現を期待すべき所は、地上どこにも見当たらないのである。かくて余の学問の傾向と時勢の成り行きとは、余をして絶望の深淵に陥らしめた。余はここに行き詰まったのである。…」
しかし、再臨を信じた結果どうであったでしょうか。
「かくてこそ、世界の問題も、余が内心の問題も、ことごとく説明し得る。愚かなりし哉、久しき間この身を捧げ、自己の小さき力をもって世界の改善を計らんとせしこと、こは余の事業ではなかったのである。キリスト来りてこの事を完成し給うのである。平和は彼の再臨によって始めて実現するのである」。
内村鑑三氏の再臨信仰の証言は、これで十分でしょう。
この内村氏の影響によって、キリストの再臨を信じた人は数え切れないほどであり、その中に傑出した人材が少なくありません。
元東大総長南原繁氏もその一人ですが、南原氏の後を継いで東大総長を二期つとめられた矢内原忠雄氏の再臨信仰は、もっとも広く知られています。
「今や、人生難行、国家社会また難行である。しかしイエスは彼を信ずる者を救うために、急ぎ来り給います。
長き病の床に、或いは行き悩む人生の旅路に、しかしてまた歴史の終末において、イエスは人類を救うべく急遽再臨し給うのです。
ああ、人生の夜が明けて、イエスの救いをわが側に見 奉る時はどんなに幸いでしょう。
また、人類の夜が明けて、この地球とこの国土に神の国が成就する時は、いかに幸いでありましょう」。
矢内原氏の再臨信仰の証言も、これだけで十分と思います。

むすび

あとは、これをお読みになった方が、それを信じられるか否かの問題になるわけですが、ここで一つ申し上げておきたいことは、われわれがそれを信じようが信じまいが、キリストの再臨はかならず、まちがいなく起こるのだということです。
そこで、これに対する備えとして必要なことは何かということですが、それは罪の赦しということです。なぜなら、聖書には「義人はいない。一人もいない」と記されているからです。
だが、聖書のいう罪は、あの行為この行為といった個々の悪行をいうのではありません。それは神との関係の破れ、また断絶を意味しています。しかもこの点において、問題のない人は一人もいないのです。
では、どうしたら、その罪の赦しが得られるのでしょうか。これはだれにとっても無視できない、緊急にして切実な問題です。次の課でそれを考えます。

要点の確認

  1. 救い主キリストの来臨については、初臨のみか再臨についても、旧約の預言者たちによって預言されていた。ことに再臨については、新約聖書の中にくりかえし、よりはっきりと預言されている。
  2. このキリストの再臨は、神のお立てになった救いの計画の完成として定められているもので、これがなければ、十字架のあがないも中途半端なものとなり、世の宗教と同じレベルのものになってしまうであろう。
  3. この再臨は、神が計画し神が遂行なさることであるから、これを人間の理性や常識で理解することは無理であり、土台不可能である。そのため、これを文字どおりの出来事として受けとることをせず、種々の合理的な解釈というものがこころみられてきた。しかし、これらの解釈は聖書の記事と調和しないため、みな失敗に終わっている。
  4. 再臨の目的は何か。神に反逆し、罪の中にあるこの世界をサタンの手から奪い返し、神の支配を回復することにある。そのために、この世の善と悪、義と不義に決着をつけるためにさばきがおこなわれる。
  5. その結果、全人類は神の前に、右と左に二分される。そして、右に分けられた者には永遠の命が報いとして授けられ、左に分けられた者には永遠の滅びが刑罰として与えられる。
  6. サタンの支配下にある罪のこの世界は、政治・科学・教育、あるいはたんなる平和運動や軍事力などによって改善することはできない。これ以上悪くなるのを、かろうじて最小限度に食い止めることしかできないのである。
  7. 永遠の平和理想世界は、キリストの再臨によって実現する。それ以外の企てはすべて空しい楽観にすぎない。われわれは今こそ、このキリストの再臨を待望し、その日を喜びをもって迎えることができるよう、そのために備えるべきである。