第4課 世界の起源と人間の創造

はじめに

これまで、神について考え、天使と悪魔について取り上げましたので、今回は順序として、人間についてご一緒に考えてみたいと思います。
人間ーこれはわれわれにとっては自分自身のことなのですから、ほかのことと違って一番よく知っていなければならないテーマのはずです。
ところが、これほど分かりにくく、したがってこれほど知られていない問題もほかにないといってよいかも知れません。それほど、人間というものは複雑で神秘的で分かりにくい不思議な存在です。
しかし、われわれが人間として、それにふさわしい生き方をするためには、人間とは何かというこの基本的な問題について、何も知らず曖昧のままで済ますわけにはまいりません。

人間とは何か?

一九一二年ノーベル賞を受けた有名な医学者アレキシス・カレルは、『人間ーこの未知なるもの』という本を書いていますが、彼はこの中で次のように述べています。
「人間が真に自分を知らなかったために、この世界を人間自身に向くように建設することができなかった。…人間を知らない人間の頭でつくり出したこの世界は、人間の体力にも精神にも適しないものであった。…人間を深く正しく知ることよりほかに、この不幸を救う方法はない」。
では、人間とは何なのか?人間は動物の一種か、動物とは違った特別の存在なのか。

1、まず、人間は動物の一種であることは間違いないことでしょう。
人間は、呼吸し、食物を摂取し、排泄し、動き回る。これは、動物とほとんど同じです。もちろん、人間はそれだけではなく、五官というすぐれた器官、機能を持っています。
しかしこれは動物にもあり、ある動物は人間の及ばないすぐれた器官・機能を持っているものさえあります。

2、しかしながら、人間はふつうの動物とは一線を画する必要のある独特の存在であることも否定はできません。それは何か?
たとえば、よくいわれることですが、人間は衣服を着ること、笑いや言語、さらに道具を使うことなどが、特徴としてあげられます。

3、だがわたしは、人間と動物とのあいだの顕著な相違点として、次の三つのことを上げたいと思います。

A、知性
これについては、有名な思想家パスカルの次の言葉が、すべてを言い尽くしています。
「人間は考える葦である」。
人間は葦のように、弱くもろい存在である。しかし、思考する能力を持っているという点、特異な存在であるというものです。すなわち、思想するということ、これは人間以外の動物には、まったく認められない特性です。

B、道徳性
これには、経済とは別次元の価値観というものも入ってきます。すなわち、善と悪の価値判断や識別力、その機能としての良心の働き、それにこれと密接なかかわりのある自由意思を持っていることです。

C、宗教性
この世には、人間を超えた英知や能力また聖性というものが存在します。人間はこれにたいする畏敬の念を持っており、これによって高貴なものを追い求めるという、強い傾向を持っています。これが宗教心であり信仰であるわけです。
宗教詩人ジョン・ミルトンは、「不信仰は盲目である」と言いました。またある人は「理性はローソクであるが、信仰は太陽である」と言っています。
神・世界・人間がよく見えるようになるためには、理性だけでは不十分で、どうしても信仰が必要であるというのです。
そして、この宗教心また信仰というものは、人間以外にはまったく認められない特性なのです。

人生の意義目的

ところで、動物はただ食べて生きていればそれでよいわけでしょう。
人間も食べて生きているだけなら、動物と異なるところは何もないことになります。
ですから、人間が人間として生きて行くためには、人生の意義目的を知り、それをはっきりと持っている必要があります。
何よりも、人間の尊厳さを保つためには、そうした価値観がどこからくるものかを弁え知ることが不可欠です。
そしてそのためには、この一種独特の不思議な存在である人間が、何時、どこから、どのようにしてこの地上に出てきたのか。しかも人間はなんのために生きるのか。人間はいったいどこへ行き、この先どうなるのかが明らかにされる必要があります。
すなわち、人間はまずどこからきたのか、つまり人間の起源を明らかにする必要があります。そして人間の起源、これは当然のことながら世界の起源にさかのぼって考えることが求められます。
ただし、この宇宙の起源ということになると、あまりにも広すぎますので、ここでは世界の起源に限定して考えることにしたいと思います。

世界の起源

この世界、また人間の起源に関しては、基本的に二つの異なった考え方があり、それ以外にはないといってよいでしょう。これは結局において、生命の発生についての考え方、また説明ということに帰着する問題といってよいでしょう。
ハーバート大学の教授であったジョージ・ワルド博士は、生命発生論の権威ですが、彼はこう言っています。
「地上における生命の発生については、二通りの考え方しかない」。
それはいうまでもなく、創造論と進化論です。しかもこれは、両方を正しいとすることはできません。なぜなら、この二つは全く相反する考え方であるからです。
すなわち、進化論は、生命は偶然に発生し、自然に進化してできたとするもので、これは神によらずに生命の起源を説明しようとするのですから、無神思想に基づいています。
これに対して、創造論は神を命の源とし、すべてはこの神によって造られ、生かされているとする考え方ですから、進化論とは正反対の考え方ということになります。
一つは有神論的人間観を基底とする創造論であり、他の一つは無神論的人間観を背景とする進化論です。この二つは、考え方の土台に天と地ほどの違いがあります。
ではいったい、どちらが正しいでしょうか。

一、進化論

われわれが聖書を学ぼうとするとき、最初にぶち当たる障壁はこの進化論です。この進化論は、科学と考えられていますので、神とか神の創造といったことが、すぐには信じられないと思う人がほとんどのようです。
しかし、進化論はこんにち科学として扱われていますが、もともとは哲学であったのです。哲学とは、人間の考え方のことです。一応そんなふうに考えることもできるという程度のものにすぎませんでした。
ところが、進化論者たちは自分たちの考え方が正しいことを立証しようとして、地層を調べたり、骨や化石を集めたりするようになりました。そして、それらを並べたり、つなぎ合わせたりすることによって、進化の考え方が事実であるかのような説明をするようになったのです。その結果、世間もこれを科学であると思い込むようになったのでした。
科学といえば、それは実証性が命です。ところが進化論は、事実を並べて説明するとはいえ、その事実というのは、ばらばらのものの寄せ集めにすぎず、その説明は理論的には極めて曖昧なものです。その曖昧さをちょろまかすために用いられているロジックが、生成の年代を無限に引き伸ばすことでした。何億何十億という年代の長さで人びとをけむに巻いているというのが、この説の実態なのです。

進化論の問題点

進化論には多くの問題点があります。たとえば、次のような点があげられます。

A、地質学上、多くの矛盾がある。

B、年代について、きわめて曖昧である。

C、進化論者間において、多くの意見の相違がある。

D、学説には、絶えず修正が行われている。(『進化論は進化する』という本さえある)。

E、生命の起源に関しては、まだ何も説明できないでいる。

F、人間の進化を示す、各過程の連鎖が欠けたままである。

G、進化論は、科学的実証性が弱く乏しい。(そのため純粋な科学とはいえず、哲学の域を脱し切れていない)。

ですから、E・H・ベッツという学者は次のように言っています。
「進化論は…もっとも変わりやすい、つじつまの合わない、捕らえどころのない証拠に頼り、そしてそのような手段を用いる哲学的偏見である」。
一九六〇年のこと、英国において、現代の進化論者の陣営を脅かす一冊の本が出版されました。著者はサザンプトン大学の生物学・生化学教授G・A・カークット博士で、書名は『進化の意味するもの』という本です。
博士はこの本の中で、進化論は七つの基本的仮定の上に立っていることを指摘しています。

  1. 無生物より生物が発生した、すなわち突然発生が起こった。
  2. 突然発生はただ一度起こった。
  3. ビールス、バクテリヤ、植物、動物はすべて関係がある。
  4. 原生動物より後生動物が発生した。
  5. 無脊椎動物の各綱の間には関係がある。
  6. 無脊椎動物より脊椎動物が発生した。
  7. 脊椎動物の中では、魚類より両棲類、両棲類よりは爬虫類、爬虫類より鳥類と哺乳類が発生した。(または、現代の両棲類と爬虫類は、共通の祖先をもっている云々)。

以上は、進化論がたんなる仮定にすぎず、科学的には今なお実証されないままであるという指摘です。言い換えれば、これは憶測推測の上に組み立てられたひとつの考え方にすぎないということでしょう。その推測の部分をえぐり出して指摘してみせたのが、カークット博士の論文であるわけです。
この本を読んで大きな衝撃を受けたプリンストン大学のJ・T・ボナー教授は、つぎのように述べています。
「この本は心を乱すようなメッセージを持った本である。これは土台にある見えなかった割れ目を指摘している。ここに書かれていることは、我々が長いことそれを知ってはいたが認めることを好まなかったので、我々に不安の感じを与える」。
これが、多くの進化論者たちにどれほど大きな動揺を与えたか、ボナー教授の告白によって十分にうかがい知ることができようと思います。
しかし、こうした進化論の曖昧さは、ダーウイン自身がはじめから認め、共同研究者に注意を促していたことであったのです。すなわち彼は、その著書『種の起源』の中で、「このように推測される」といった曖昧な言い回しが八〇〇回も使われているといわれます。
そのうえ、彼は共同研究者に対して、「わたしがこれまで述べてきた理論を、事実と混同しないようにしてもらいたい」と言い残したともいわれています。

英国の博物学者ウイリャム・ベイトソンは、こう言っています。
「もはや科学者は、『種の起源』に関するダーウイン説に賛成することができない。彼の説を実証する証拠は全然発見されていない」。
岩波全書に『地球物理学』という本がありますが、その中にこういう説明があります。
「要するに地球の年齢に関する各種の理論は、それぞれ特別の興味を有してはいるが、いずれも余りに多くの仮定を黙認したもので、到底厳密な科学的の批判にたえることは困難であり、しかも各方面の推定の結果は互いに融和し難いから確実な年齢はなお依然として疑問である」

また平凡社の大百科事典に、進化説の項があり、「進化の趨勢」という見出しに、次のように述べられています。
「進化説は生物学会であまねく確実に信頼されているかというに然らずである。今日でも種々の点に於いて疑いの態度をもっている者が少なくない。
特に近年この懐疑論者が引き続いて出るようである。それらの論者の諸説は要するに今日進化論の立証に用いられている資料が、今日与えられている結論のために不充分であるというのが主点である」。
ラジオの真空管を発明した電気物理学者アンブローズ・フレミング卿は、二〇世紀最大の科学者の一人とされていますが、彼はヨーロッパの有名な科学的思想家たちと進化論反対協会を組織しています。そして、一九三五年に、「組織的進化論が真理に基づいていない」という理由により、これがイギリスの諸学校や大学に於いて科学的真理として教えられていることを、公に抗議したということがありました。

二、創造論

進化論が科学的に実証された学説とはいえず、たんなる仮定にすぎないとすると、では創造論はどうなのでしょうか。
これはいうまでもなく、この世界は神によって創造され、支配されているとする考え方です。もちろんこれは、科学的に証明できることではありません。しかし、証明はできなくとも、たしかな論拠また根拠を示すことはできます。
わたしはこれから、みなさまがたの前で、大いに知ったかぶりをさせていただこうと思います。ただし、これから述べることはすべて借り物です。もともとわたしにないものだからです。しかしそれは借り物ではあっても作り話しでもなければ、偽りごとでもありません。なぜなら、わたしは鸚鵡また九官鳥になって学者のいうことを取りつぐだけのことだからです。
では、創造論の根拠とはどのようなものでしょうか。これは学者たちの説明です。

1、科学的根拠

A、太陽エネルギー
太陽は空間に莫大なエネルギーを放出しています。太陽が毎秒放出しているエネルギーは、人間が有史以来費やしたすべてのエネルギーより大きいといわれます。
ところで、いまから約百年前、二人の科学者によって次の事実が解明されました。太陽また星のエネルギーは、水素がヘリウムにかわる水素反応のエネルギーであるというのです。しかし、水素はヘリウムにかわるが、ヘリウムは水素に戻ることはないといわれます。そこで、もし宇宙がかぎりない昔から存在していたら、もう水素はなくなっているはずです。けれども事実は、現在宇宙の中で水素が圧倒的に多いのです。この事実はいったい何を物語っているのでしょうか。それは、人間が何億年も前から存在していたのではないことを示していることになります。

B、放射性元素
たとえば、ウランとかラジウムなどは、自然に崩壊して、鉛など他の元素にかわります。これらの元素がずっと昔につくられたものなら、もう現在はなくなっているはずです。それなのに実際は、いまなおわれわれの回りに存在しています。ですから、地球が無限の昔から存在していた、というふうには考えられません。

C、物質の起源
これまでの説明で、地球が無限に遠い昔から存在していたのではないことが分かるわけですが、もしそうであるとすると、はじめの物質はどのようにしてできたのか、という問題が出てきます。
元素がどうしてできたかの説明は、陽子と中性子という原子核をつくる二つの基本的な粒子から出発するわけですが、その議論を始めるに当たって、米国の物理学者ウイリヤム・A・ファラー博士は、次のように書いています。
「これらの陽子や中性子自身は、いったいどうしてつくられたのかという疑問は、この章の範囲外のこととしよう。宗教的にしろ、科学的にしろ、異常に信念の強い人だけが、勇気を持って物質の創生という問題と取り組むことができるだろう」(『最新の宇宙像』)
すなわち、物質の起源については、科学的な説明はできないということでしょう。もちろん最近は、クォーク理論といって、クォークという基本粒子を考える理論があり、その中のあるものが発見されたといわれています。
しかし、その粒子がどうしてできたのか、と問い詰めていくと、これはまた際限のない未知の世界に迷い込んでしまうだけで、問題の解決はどこまで行っても見えてはこないのです。
博士は、宗教的説明も「異常に強い信念の人だけが云々」といわれますが、創造論はたんなる宗教者の信念などではなく、神の啓示に基づいてなされる主張なのです。
英国の天体物理学者サー・ジェームズ・ジーンズは、こういっています。
「すべてのものは無限に遠くない昔に、ハツキリした創造という出来事があったことを示している」。

2、理論的根拠

これは科学的根拠のように実証というわけにはいきませんが、理論的にはかなり有力な根拠になるものです。たとえば、犯罪の捜査における心証のように、物的証拠がなくても確信の根拠となるものがあるわけで、それと同じようなものといえます。

A、ロバート・インガーソルといえば、キリスト教に反対の講演者として知られています。あるとき彼が、有名な説教者ヘンリー・ワード・ビーチャーを訪れた際、彼の机の上に置かれている地球儀を見て、「この見事な地球儀はどこで作ってもらったのか」と尋ねました。これに対してビーチャーは、「いや、これは作ってもらったんじゃない。自然にできたんだよ」と答えました。
これを聞いたインガーソルは、むっとして「こんなりっぱな地球儀が自然にできるなどと、そんなばかげた話があるものか」と抗弁しました。
そのときビーチャーは「だって君はいつも、この地球儀よりはるかに大きく精巧な地球が自然にできたと言っているではないか」ともうしますと、インガーソルは何も言えなかったという話です。

B、キリスト教の幼稚園に通っている園児が家に帰る途中、二人の大学生に会いました。二人は園児を呼び止め、からかうつもりで尋ねました。
「君は幼稚園で何を教えてもらっているの」
「神様のお話だよ」
「神様?神様なんてそんなものいるわけないよ」
「それじゃ聞くけど、鶏はどこから出てきたの」
「それぁ、卵から産まれたのさ」
「そんなら、卵はどこから出てきたの」
「もちろん、鶏が産んだんだよ」
「それはちょっとおかしいんじゃない。さっきは卵から鶏といったはずなのに、後では鶏から卵だなんて、いったいどっちが先なのさ?」
「……」
「おじさんたち大学生なのに、そんな事も知らないの?おじさんたち知らないなら教えてあげようか。鶏も卵も、はじめに神様がおつくりになったんだよ。わかった?じぁ、さようなら」
さすがの大学生たちも、あっけにとられて園児の後ろ姿を呆然と見送ったという話です。
この世界も人間も、神の創造を認めないかぎり、議論は空回りするだけとなりましょう。
『青い鳥』で知られるメーテルリンクは言っています。
「われわれは造られたものであることを認めることが知恵のはじめである」。

進化論も創造論も、科学によって証明することはできない以上、どちらをとるのも信仰によるしかないわけです。ではどちらをとるのがよいか、その判断の基準をどこに求めたらよいのでしょうか。
ジヨン・R・ハウイット博士はこう言っています。
「いかなる教義の真偽も、人間の思想と経験にそれを適用した結果によって判断することが、最もよい場合がしばしばある。何ほど魅力あるもっともらしい哲学であろうとも、もしその原理の適用によって人類が堕落に導かれるものならば、非難すべきである」。
イエスもこのようにおっしゃっています。
「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集めるものがあろうか。そのように良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木は悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。…このように、あなたがたはその実によって彼らを見分けるのである」(マタイによる福音書七ノ一六、一八、二〇)。
では、人間が猿、または猿と共通の先祖から分かれて進化したとする考え方を、人生観の土台とするとき、そこからどういう生き方が出てくるでしょうか。人間はしょせん猿以上の生き方はできなくなるでありましょう。それどころか、適者生存の考え方は戦争肯定につながる思想であることが指摘されています。

これに対して、人間が神によって創造されたとする考え方を、人生観の基礎とするとき、人間は高い自覚と理想に向かって成長向上していくことが可能になります。
とすれば、どちらの説が、人間の生き方にこれを適用した場合、よりよい結果をもたらすかは、あまりにも明白ではないでしょうか。
グラスゴー大学の教授であったヘンリー・ドラモンドは、一時進化論に傾倒していました。しかし、後日になって彼がウイリアム・ドーソンに手紙の中で、こう言っています。
「わたしは、かつてのように聖書の信仰に帰っている。わたしは最早不確定の中に生きることはできない」。

この手紙を受け取ったウイリアム・ドーソンは、こう記しています。
「もし現代の人々が、進化論や近代主義が開いた滅びに至る広い道から後戻りしたいと思うならば、神は創造主であるというこの告知は、最も考える必要のある問題であろう。
世の思慮深い人々は人類が誤謬の道から逃れる唯一の方法は、聖書の最初の言、すなわち神は創造主であるという言に戻るより外はないと、我々に警告している」。

日本のある牧師が「進化論と創造論」(副題)という本を書いていますが、かれはそのなかでこんなことを述べています。
「私は二十三歳のころから、人生の問題について真剣に取り組んできたのであるが、そのあいだずっと不思議に思い続けてきたことがある。それは、なぜ人間は天地万物の創造主の最高の作品であるより、サルの子孫であるほうを選ぶのだろうか、ということである。私は自分が創造主の最高の作品であることに、自分の価値を見出すことができた。それなのに、なぜ人びとは力を尽くして創造主を否定したがるのか。不思議でならない。そのわけはいろいろあると思うが・・・。
一つの大きな理由は、人間は人間の上に君臨するものを好まないからであろう。いつも自分は主人公でありたいからなのである」。
そして、この牧師は「進化論は現代のバベルの塔のような気がしてならない」と言っています。バベルの塔とは、人間の能力と誇りに対する自己称揚のシンボルと言ってよいようなものです。これは、結果的に自己を高めるどころか、自己崩壊によって混乱と悲惨を招いてしまったのですが、こんにちも同様ではないかとこの牧師は指摘しています。(創世記一一ノ一〜九を参照のこと)。
「また、自らの依って立つ土台を取り去ってしまい、自らの人生を浮き草のようにしてしまった。その結果、多くの人々が知識を持ち、物質を豊かにかかえながら、人生に希望を失って自殺する者が増えてしまっている。もう一度、人間の尊厳を、創造主とのかかわりにおいて回復すべきことを、声を大きくして叫びたい気持ちである」。
これは、わたしもまったく同じ気持ちでいることを申し添えておきたいと思います。

聖書の人間観

人間とは何かについて、むかしからいろいろな見方があり、さささまざまな説が唱えられてきました。
しかし、それらは哲学的にどんなに高度で深遠であっても、聖書の人間観にまさるものをほかに見出すことはできないでしょう。それは当然です。なぜなら、聖書の人間観は、人間の思索の産物ではなく、神の啓示によって与えられたものであるからです。
では、聖書は人間について、どのように述べているでしょうか。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記一ノ二七)。
これによると、人間は猿の仲間などではなく、神にかたどって作られた存在であるというのです。神のかたちというのは、神の似姿としてということです。それは実体と映像の関係に似ています。映像は鏡のこちらがわに実体があって、はじめて向こう側に映像が移しだされるわけです。影が形に添うように、映像は実体と不離一体の関係にあります。実体がなければ、映像も存在しません。
神と人間の関係も、これとまったく同じなのです。実体である神を離れて、映像としての人間の存在はありえないことなのです。(実体がないのに影だけあるとしたら、それは幽霊か幻影ということになろう)。ですから、神との関係を忘れ、また見失ったら、人間は自分が人間であることをやめてしまうことにもなるわけです。その結果は、人間も動物の一種にすぎないものとなってしまうだけ、ということにならないでしょうか。
われわれは、真に人間としての尊厳を保つためには、神との関係性をいつも念頭において、すべとのことを考え、行動する必要があるわけです。

人間存在の意味と本分は何か

もし、人間が神によって造られた存在であるのなら、神がこれをお造りになった目的があるはずです。それは何なのでしょうか。神の預言者イザヤはこう告げています。
「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(イザヤ書四三ノ七)。
神は「わたしは・・・わが栄光のために」と仰せになっています。これによれば、人間存在の目的は、人間にではなく.神ご自身にあるということなのです。
ある神学者は、「ニヒリズムというのは、人間本位、人間中心、自己目的の生き方の必然的結果である」と言っています。人間は自分が神によって造られ、生かされているという事実を忘れ、自己目的のために生きようとするかぎり、虚無に陥るほかはないのです。
われわれがもし、人間としての尊厳を保つ生き方をしようと思ったら、神との関係を正しく認識し、神の目的に沿った生き方を心がけることが絶対に必要です。神の目的、それはまた人間の本分にほかなりません。
では、人間の本分とは具体的にどういうことなのでしょうか。要点を箇条書き的に記せば、次のようになりましょう。

  1. 神を認め、これを信じ、かつ崇めるべきである.
  2. 神のみ旨を知るために、熱心にこれを尋ね求めるべきである。
  3. 神を愛する心から、喜んで神に従い仕えるべきである。
  4. 神の栄光をあらわすことが、人間存在の意義また目的となるべきである。
  5. 神を礼拝することが、人間としての最高の栄誉・喜び・満足・幸せとなるべきである。

むすび

人間の尊厳は、どのようにしたらこれを身につけ、また保つことができるのでしょうか。これについて、わたしは入信当時に、ある老牧師の説教で聞いた感動的な話を紹介することで、このテーマのむすびにしたいと思います。
むかし米国にあった話だそうです。ある銀行の頭取が息子を連れて旅をしていました。どうしたことか山道の途中で日が暮れてしまいました。泊まろうにも旅館などあるわけがありません。困りきっていたときに、前方にかすかなあかりが見えてきました。頭取親子はやっとそこにたどり着きましたが、見るとそれはどうにか雨露をしのげるだけ、というあばら屋でした。ほかに泊まる所がないので、仕方なし一夜の宿を頼むことにしました。ところが、中から出てきたのは、熊の毛皮をまとったひげ面の男でした。彼は顔に似ず、丁重に親子を招じ入れ、粗末な雑煮をふるまってくれました。夜も遅かったので、早速、奥の部屋に案内され、やすませてもらうことにしました。しかし、頭取は、あまり人相のよくないこの家の主に対する警戒心から、すぐには眠ることができません。そこで、前半夜は息子が起きて警戒にあたり、父親が寝る。後半夜は父親が警戒にあたって息子が寝る、ということにしました。

ところが、息子はしばらく板戸の節穴から居間の様子を窺っていましたが、何思ったか突然ベッドにもぐりこんでしまったというのです。父親は驚いて「どうした?前半夜はお前が起きて見張りをするはずではなかったか」と言いますと、息子は「お父さん、大丈夫です。見張りの必要なんかありませんよ」と言って、節穴から覗いてみた居間の様子を話して聞かせました。それによると、この家の主は自分が寝る前、木箱を机がわりに、暗いランプの下で何かを読んでいる様子でしたが、それが終わると両手を組み合わせ、頭を垂れて静かに祈りはじめたというのです。それまで読んでいたのは、古ぼけた聖書であったのです。
この話を息子から聞いた父親も、すっかり安心して、二人枕を並べてぐっすり眠ったという話です。人間は神を信じるなら、外観が熊のようでも、本質的に、人間としての尊厳を保持できるのです。

 

要点の確認

  1. 世界の起源、また人間の由来は、われわれにとって、人間存在の基本に関わる問題であるだけに、ほかの何よりも、もっともよく知っていなければならないはずである。ところが実際はどうか、これほど人間に知られておらず、不問に付されている問題はほかにないといってよいのではなかろうか。
  2. 世界の起源については、次の二つの考え方がある。進化論と創造論である。進化論は、世界が自然に発生したとする考え方で、神を否定する思想である。したがって、神による創造という聖書の教えと相容れない。これまで多くの人は、進化論は科学であって、事実に基づくが、創造論は非科学的であるから、これを真実とすることはできないとして無視してきた。しかし、最近になって進化論は、きびしい批判に曝され、多くの矛盾が指摘されるようになってきた。それを知らないのは日本人だけ、ということかもしれない。それほど日本人は進化論を妄信してしまっている。
  3. もし、進化論が事実でないとすると、とうぜん創造論を認めるほかはないことになる。なぜなら、世界の起源については、この二つの考え方以外にはなく、そのどちらかにちがいないからである。そのため、最近は神を信じ、神による創造を信じる科学者が、西洋には少なくないようである。
  4. 世界が神の創造になるのなら、当然人間も神によって創造されたことになる。ただし、人間は神の被造物という点では、ほかの動物と同じであるとはいえ、まったく同じ存在では決してない。なぜなら、人間は他の動物にはない特性を持っているからである。それは知性、道徳性、宗教性などである。これは、人間が神のかたちに似せて造られた結果として、本性的に備わっているものなのである。
  5. 神が人間をお造りになった目的は何か。聖書には、それは「神の栄光のため」とある。すなわち、人間存在の意味また目的は、人間自身にはなく、神ご自身のうちにあるということになる。したがって、神の目的はそのまま人間の本分ということになるわけである。
  6. では、人間の本分は何かといえば、神の栄光をあらわすことにあるわけであるが、具体的には、神を畏れ、神に従い、神の礼拝者となる、ということである。それにしても、われわれ人間は進化論が主張するように、動物の一種また猿の仲間などでは決してなく、神のかたちに造られたものである。とするなら、人間はそれに相当する生き方を心がけることこそ、何よりも大切であることを弁え知らなければならない。