第6課 神による救いの計画

はじめに

この世界は、神によって創造されました。しかも最初造られたときには、すべて完全であったのです。それなら、こんにちこの世界に苦難と不幸があるのはなぜなのか。これは、神のかたちに象って造られ、自由意思を与えられた人間が、サタンの惑わしによって、神への信頼を捨て、神の支配を拒否して、神から離脱し失われた者となっているためです。これが聖書のいう罪なのです。 聖書のいう罪は、たんなる不道徳や悪い個々の行為のことではなく(それは罪の結果にすぎない)、人間が神と不正常な関係にあること、すなわち人間の今在る状態のことをいうのです。 しかも、神の支配から離れたこの世界は、その後誘惑者サタンの支配下にあり、その結果永遠の滅びの運命にあることを聖書は告げています。

苦の解決と宗教

人間はだれしも、平和と幸福を願ってやみません。そのためには、苦難と不幸が取り除かれる必要があります。世にある宗教はそのために生まれ、存在しているといってよいでしょう。 では、この世の苦難と不幸をどうやってなくすることができるのか。 それぞれの宗教は、これについてどのように教えているのでしょうか。 ほとんどの宗教は、神を信心すれば不幸が除かれ、幸せになれると説いています。 なかには、不幸の原因は先祖の霊の祟りや障りにあるといい、祈祷や捧げものによって供養すれば、不幸は消えると教えます。 日本の代表的な宗教である仏教は、苦難や不幸の原因は迷いにあるとし、悟りを開けば苦や不幸は解消すると説きます。 これにたいしてキリスト教の正典である聖書は、人間苦・世界苦は、神との関係の破れ、すなわち罪の結果なのであるから、この罪の処理、罪の解決が不可決であることを告げ示しています。 では、この罪を処理し、除去するためには何が必要か。世のほとんどの宗教は、それは人間の行い、すなわち善や徳を積むことが必要であり、そのために精進努力すべきだと考え、そうするように教えています。 しかし、聖書はそれを真っ向から否定します。例えていえば、それはあたかも、靴の紐を引っ張って自分の体を持ち上げようとするようなもの、あるいはまた、溺れかかっている人が、自分で自分を助けようとしても、それはできないのと同じことなのです。自分で助けることができるなら、溺れているとはいわないでしょう。溺れているというのは、自分で自分を助けることのできない状態をいうのです。このような人が救われるためには、自分以外の他の人の助けによるほかはありません。 われわれ罪人の救いも同様です。罪人であるわれわれは、自分で自分を助けることも救うこともできない状態にあるのです。ということは、われわれは罪のなかに溺死しようとしている状態で、自分以外のだれかの助けなしには、救われる途も可能性も残されてはいないということなのです。 では、そのような助けが、はたしてえられるのでしょうか。 感謝すべきことに、聖書はそのような助けと救いの手が、われわれ罪人に差し延べられていることを告げています。それは、神の子イエス・キリストであり、彼がわれわれを救うために払われた犠牲が、よく知られるあの十字架にほかならないのです。 では、われわれ罪人の救いのために、なぜ十字架が必要なのか。どうして十字架がわれわれを救うことができるのか。その理由について、これからできるだけのご説明をしたいと思います。

人間を救うために、なぜ十字架が必要なのか

神は、この世界をお造りになったとき、二つの法則を制定されました。一つは物質界の法則であり、もう一つは精神界の法則です。前者は、科学的・物理的法則であり、後者は道徳的・霊的法則です。後者の道徳的・霊的法則というのは、具体的には、神の律法・十戒です。 アダムとエバの犯した罪とは、根源的には神への不服従・反逆ですが、具体的には神の命令・戒めに違反したことです。 いったい、この律法を犯した人間をどうすべきか。神はこの問題に直面されたわけです。この問題の解決を考えるに当たって、いま国の法律に例をとってみましょう。 国の法律は、とうぜん国民の生命・財産を保護する目的で定められたものです。しかし、法律は、これに従う者を保護してくれますが、これに違反する者を罰します。 なぜなら、そうしなければ、社会の秩序を保つことができず、善良な人々の生命と財産、また生活の安全を保障することができなくなるからです。 神の律法も同じです。これは被造物、ことに人間の生存を保護するために定められたものですが、これに違反した場合、当然罰せられねばなりません。 なぜなら、そうしなければ、宇宙の秩序は保たれず、被造物の安全を保障できなくなるからです。ほんらいなら、これで問題は処理され、なんの困難もなくすべてが片付くはずです。 しかし、神の場合、われわれ人間が考えるほど、ことは簡単ではありませんでした。なぜなら、問題は神のご性質が義であると同時に愛であるという点にあります。 すなわち、義なる神は、罪を犯した人間を不問に附することはできません。当然、罰しなければならない。そうしなければ、神は義を否定し、蹂躙することになってしまいます。 もし、神が義を否定するなら、そのとき、神はもはや神であり続けることもできなくなってしまうでしょう。 しかし、神は義である反面、愛の神でもあるのです。愛なる神は、人間が罰を受けて滅びるのを座視するわけにはまいりません。なんとか救いたいと切望されます。 神は義であるゆえに、罪を見逃すことはできず、これを罰しなければならない。だが、罰すれば人間は滅びる。 神は愛であるがゆえに、罪人の滅びを放置できない。なんとかして救いたい。しかし、これを救うならば、義の否定になり、宇宙の秩序は破れ、神の公義は立たなくなる。 その意味で、義にして愛なる神は罪人を前にして、いわば板挟みの苦境に立たれたということになります。 さて、ではどうすべきか。何か解決の途がないものかどうか、ということです。 この場合、神のとりうる途は、次の二つのうちのどれか一つ、それは、神の律法を廃止するか、それとも身代わりを立てて、その身代わりによって人間の罪を罰するか、いずれをとるかということです。 前者の方法、律法を廃止すれば、罪を罰する必要はなくなる。罪人は無罪となり自由になれる。しかし、実際問題としてそれは不可能なことです。なぜなら、宇宙は無法状態となり、その結果大混乱に陥り、破壊と破滅は避けられなくなるからです。

罪人の救いと身代わりの刑罰

そうすると、残された途はただ一つ、身代わりによる刑罰以外にはない、ということになるわけです。使徒パウロは、このことについて次のように言っています。 「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル人への手紙九ノ二二)。 これは、いわば身代わりの刑罰による死を意味しています。 では、身代わり、すなわち代罰ならどうして、罪人の救いが可能になるのか。その理屈といってはなんですが、ことわりというか条理を理解し、なっとくしていただくために、一つの例えによってこれを説明してみましょう。 いまここに、交通法規違反の罪で処罰を受ける人がいるとします。この人は罰金刑を課せられましたが、高校生でもあり、仕事をしていないので収入もなく、これを自分で支払うことができません。しかし、払わなければ、監獄に入らなければならないでしょう。 これを聞いた父親は、即座に息子に代わって罰金を払ってやります。その結果、高校生は自由の身となって、平常の生活に戻ることができるようになります。 さてこの場合、罪を犯したのは高校生です。しかし、本人は支払い能力がないため、父親(兄弟でも友人でもよい)が代わって罰金を納めてくれます。そうすると、それによって法の要求が満たされ、社会の秩序は保たれます。しかも処罰は執行済みとなり、本人は自由の身となって、社会生活に復帰できるようになります。これはいわば、身代わりの刑罰ということになるわけです。 われわれの救いについても、同じことが行われるのです。われわれは神の律法を犯し、死を宣告されています。法によって命を求められているのです。 しかしこの場合、だれかが身代わりとなって死を負えば、それによって法の要求は満たされ、宇宙の秩序は維持されます。しかもわれわれ自身は、法の宣告から解放されて自由の身となることができるのです。 問題は、だれが身代わりとなるか。またなり得るかということです。 聖書に「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙三ノ一〇)。とあります。罪人は身代わりになることはできません。なぜならそれは壊れ物だからです。 わたしどもが、いま何か余所から借りた器物を壊してしまったとします。とうぜん弁償しなければなりません。なにをもって弁償するか。壊れた物を返すことによって弁償というわけにはいききません。新しい疵のない物を代わりに返す以外にはないわけです。 しかし、そのようなものは、人間の中には存在しません。なぜなら、人間はアダム以来、一人残らず罪を犯している疵ものばかりだからです。 ですから聖書にこのように記されています。 「まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの値を神に払うことはできない。とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである」(詩篇四九ノ七〜九)。 では、その身代わりとなりうるものをどこに求めることができるのか、ということです。それは、罪のない疵のない者でなければならないわけですが、そのような者は神の子イエス・キリスト以外にはないというのが、聖書によって明らかにされていることなのです。

神なるキリストが人となられた理由

しかし、ここにまた一つの問題が存在します。それは、罪を犯したのは人間です。刑罰は当然人間が受けるべきものです。身代わりとはいえ人間以外のものを罰するなら、それは神の正義・公義にもとることになります。 ここにおいて、人間的にいうなら、神は板挟みの苦境に立たされているということになります。そのため、窮余の一策としてとられた方法、これはじつは神の深い知恵から生みだされた方法なのですが、神なるキリストが人となるという方法でした。このことが、聖書のあちこちに次のように記されています。 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネによる福音書一ノ一〜四)。 はじめに言があり、この言は神であって、万物はこれによって造られた、というのです。 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(同一四節) 言は神であり、肉体は人間です。言は肉体となった、これは神が人となったということです。わたしたちのうちに宿ったとは、歴史上の存在となったということです。父のひとり子、これは神の子キリストを指します。 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(同一八節)。 キリストは神であり、このキリストによってわれわれは神を知り、神と接することが可能になったというのです。 こうして、神なるキリストが人間となってこの世に現れ、罪人の身代わりとなられることになったわけです。 「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、…わたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ人への手紙八ノ三、四)。 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント人への第二の手紙五ノ二一)。 以上によって、わたしがこれまで説明してきたことが、聖書の聖句によって裏付けられているものであることが、お分かりいただけたことと思います。

身代わりの刑罰が意味するもの

しかし、この聖書のことばによって何もかも理解することは、必ずしも容易ではないようにも思われます。そこで、この代罰が罪のゆるしを可能にする理由、また理屈をよく理解していただけるよう、ここに格好の例話がありますので、それを紹介させていただこうと思います。

むかしあるところに、ザローカスという王様がいました。ところが国民が放蕩に身を持ち崩し、不義の罪を犯す者が続出するようになりました。これをたいへん憂えた王は、厳しい禁令を出しました。 「今後、男女間に淫らな振る舞いがあった場合、容赦なく両眼をえぐりとる事にする」。 この法令に恐れをなした民衆は、しばらくの間、そうした行いを慎むようになりましたが、しばらくすると、またもや元にもどり、最初の違反者が検挙されたという知らせが、王の耳に届けられました。 激怒した王は、「違反者はどこのだれか」と尋ねると、なんとそれは事もあろうに王子であったというのです。それと知った王は愕然と色を失い、苦悩のどん底に突き落とされました。 しかし、いったん定めた法令を、いまさら撤回するわけにはまいりません。かと言って、わが子が両眼を失い、失明することには耐えられません。 王は法と情との間に板挟みとなって、はたで見る目にも気の毒な有様でした。 私情を持って国法を無視すれば、王の権威は失墜し、無責任な王として民衆の信頼が失われる。そうは言っても王子が両眼を失って盲目となるなら、王位継承は不可能となるばかりか、父親としてとても忍び難い。また無慈悲な親として国民の非難を浴びることにもなろう。 王としては国を思い、親としては子を思い、悩みに悩んだあげく、ついに意を決し、裁判を断行することにしました。文武百官居並ぶ中、裁判は厳正に進められ、その結果、有罪が宣告されました。しかも、その場でただちに刑が執行されることになりました。 王が固唾を飲んで見守る中、刑吏がふるえながらも王子の目に刃を突き立て、目玉をえぐりだしました。王子の顔は鮮血にまみれ、見るも無残な光景が繰り広げられました。 刑吏が王子のもう一方の目に、刃を振り下ろそうとした瞬間、突如「待てッ!」という王の声が法廷に響きわたりました。そして、「その刃をわたしによこせ」と、刑吏の手から刃を奪い取った王が、だれもこれを止める間もなく、その刃を自分の目に突き刺して、目玉をえぐりとったというのです。そして、王子と王の目玉二つを並べておき、「これでよかろう。このわたしの片目を王子の片目の償いとせよ」と申し渡して、閉廷したというのです。 この片目になった王の顔を見た一同は、みな頭を垂れ、熱い涙を流すばかりで言葉もない有様でした。 このことは国民全体に知れ渡り、「ああ、われらの不義の行為が、王を片目にしてしまった」と、大いに悲しみ、それ以来、淫らな風潮はまったく改まったという話です。 これは、紀元前七世紀のころ、ロクリアンスという国にあったこととして伝えられています。 これは例えとしてあげた話であって、キリストの代罰にそのまま当て嵌まるわけではありませんが、それでもわれら罪人の救いのために、キリストの身代わりがどうして必要であったのか、少しは理解がえられ、またある程度ごなっとくいただけたのではないでしょうか。 「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互いに口づけし」(詩篇八五ノ一〇)。 神のご性質である義と愛とは、ほんらい罪人に対しては両立できません。義であろうとすれば愛は立たず、愛であろうとすれぱ義は立たず、両立はぜつたい不可能です。 しかし、神はこれを可能にされたのです。それは身代わりの刑罰という神の犠牲によります。この方法によって、神は義によって罪を罰し、しかも愛によって罪人を救うことが可能になったのでした。 先に引用した聖句はそれを意味しています。これはなんと、キリストが十字架で死なれる千年も前の預言なのです。

贖罪を信じる人びとの証言

しかしまた中には、この神の救いの計画というのは、いかにも作為的な話のように思われ、実際にあった事実とはとても思えない、いわれるかたがないとはいえません。 けれどもこれは、ある人々が感じるように、こどもっぽい幼稚な話しといったものでは決してありません。聖書を神の言葉と信じる人なら、知的な高い教養のある人も、これを事実として信じてきていることなのです。 アメリカの元大統領ジミー・カーター氏の次の言葉は、詩篇八五ノ一〇の解説と言ってもよい内容です。 「神は絶対的な清さと正義の御方であるが、同時に恩寵と赦しと愛に満ちている。 私にとって定義不可能な神の本質は、ただイエスの生涯に見られる一見両立し難い本質の融合を通してのみ思い浮かべることができるのである。… 神は従順を要求して罪を黙認し給わないが故に、罪に陥り易い私たち人間と至高の存在者なる神との間には、特別な和解の手段が必要とされた。 しかし完全なお方でありながらも、罪の罰を受けてくださった神の独り子を通して、私たちは神の本質を知ることができる」。 また元東京大学総長・矢内原忠雄氏も「キリスト教入門書」を著し、その中でこう説明しています。 「人が神に逆いた結果、その魂は自由と平安を失い、罪の影響は人の心と身体に及んだ。人は罪に仕え、その報酬として死を招いた。従って罪、即ち神に対する背叛をいやされないかぎり、人は自由と平和を得ることができない。 しかるに神は、人の罪を赦す方法として罪なきイエスにすべての人の罪を負わせ、人に代わって彼を十字架の上に死なせた。人の支払うべき罪の価をば彼が代わって負担したのである。 イエスは己が罪のために死んだのではなく、人の罪を負うて死んだのである。それが人を救おうとする神の意思の定めであった。その意思に対する完全な従順を以てイエスは十字架の上に罪の贖いの死を遂げたが故に神は彼を復活させて天に昇らせた。 かくして人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順の故に、かく信ずる人の罪を赦す。即ちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。 人は自分の義によらず、ただキリストによる罪の贖いを信ずることによって、神に義と認められる。そういう方法で人を義とすることが神の義であり、神はこの義を現わすために、己が独り子イエスを救い主として世に遣わしたもうたのである」 何と平明で分かりやすい、しかも懇切丁寧な説明でしょう。あまりに平易なお話なので、これは子供に言って聞かせるための話しではなかったのかと思われるかたがあるかも知れません。 しかしまた、はなしはだれにでもわかるとはいえ、中身はそれを事実と信じるには少しばかばかしい感じがする、と言う人もあろうかと思います。それは、はなしは平易でも内容は深遠で、人間の知恵や常識では受け取りにくい神秘性を持つものであるからでしょう。 ともあれ、これは事実を伝えるものであるのです。しかもそれは、人間の事実を超えた神の事実なのです。したがって、これを理解し受け入れるためには、信仰によるほかはないのです。 矢内原先生ご自身、もちろんこれを神の事実と信じて、そのように受け止めておられ、たとえ読む人びとに幼稚ととられようと、すこしもかまわず、ありのままを率直に述べておられるのです。

聖書の中心テーマはこの「神による救いの計画」

今回のテーマ「神による救いの計画」は、聖書の教えの中心的真理です。もちろん、これは神の奥義なのですから、人間の言葉で充分に説明しつくすことは困難であり、不可能なことです。それをあえてなそうとすると前段の説明のように、どうしても理詰めの説明になってしまいます。そこで、これをなんとかわかりやすく説明しようとすると、こんどは後段のように例話に頼らざるをえなくなり、ちょっと聞くといかにも狂言じみた話のように思えて、これを事実として受け止めることにためらいを感じる人が少なくないようです。 しかし、人間の説明はいかようであれ、これはたしかな事実なのです。しかも、神のはかり知れない深い智惠によって、構想され、啓示された「救いの計画」であり、神の事実なのです。これは神がお立てになった計画である以上、人間が理解しようがしまいが、だれが信じようと信じまいと、この事実は厳然として存在し、人間は誰もこれを恣意的に変えることも、否定によって消し去ることもできない永遠の真理なのです。それだけに、何とかしてこれをすべての人に、よくわかってほしいと切に願わずにはいられません。 そこで、少々くどくなるようですが、ここでもう一つの例話をかたらせていただきたいと思います。 米国テキサス州は草原地帯が多く、夏になると何ヶ月も雨が降らないことがあり、草も木も枯れた状態になることがあります。そのような時、よく山火事が発生し、むかしは一部落まるまる消失してしまうこともあったようです。 あるとき、そのような山火事で四方火焔にかこまれた人々がありました。そのため、ほとんど絶望視されていたこの人々が、火事がおさまったとき、なんと全員無事であることがわかりました。 いったいこの人々はどうやって焼失を避けることができたのでしょうか。四方火でかこまれ、もう逃げられないと思われたとき、ひとりの人が足下の枯れ草に火をつけたのです。火はたちまち燃え広がっていきます。あるていど焼けてしまったところへ、この人々は必死に飛び込んで、足踏みをしながら熱さをよけていました。 そのうち火焔はこの一団から、しだいに遠ざかっていきます。気がつくと向こうから非常な勢いで迫っていた山火事の焔がこちらの焼け跡のところでピタリととまり、それ以上近づいては来ませんでした。なぜなら、こちらはすでに草も木も燃えてしまっていたからです。こうして山火事にかこまれながら、この一団の人々は全員無事助かったというのです。 この話は、キリストの十字架、身代わりの刑罰が、どういう意味を持つものであるかについて、とてもよい説明になると思います。 アダム以来、人類はみな神に背き、その罪に対する刑罰によって、永遠に滅び行く運命にあります。しかるに神は、イエス・キリストを身代わりに立てて、これを十字架の上で罰しられたのでした。 そこで、このキリストを救い主と信じ、彼を避けどころとして十字架のもとに避難する者は、やがて全世界にくだることになっている刑罰の火が、地を焼き滅ぼすときに、その刑罰を免れることができるのです。なぜなら、十字架は人間の罪に対する刑罰が、すでに執行済みの場所であり、そこはいわば、神の刑罰の火による焼け跡であって、もう燃えるものが何もないところだからです。 以上によって、罪人の救いのために、なぜキリストの十字架が必要であったのか、その理由がかなりはっきりしたのではないかと思われますが、どうでしょうか。 じつは、このキリストの十字架、身代わりの刑罰については、このときより八百年以上も前に、イザヤという預言者によって、次のように預言されていたのです。

彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、 われわれに平安を与え、 その打たれた傷によって、 われわれはいやされたのだ。 われわれはみな羊のように迷って、 おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、 彼の上におかれた・・・ 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、 生けるものの地から絶たれたのだと。(イザヤ書五三ノ五、六,八)。

ここに預言されているキリストが、いまから二千年前、十字架につけられることによって、われわれの罪を負ってくださったのです。この身代わりの刑罰によって、神はわれわれを罪と滅びから解放し、さいわいな永遠のいのちの救いに、いまもわれわれを招いてくださっているのです。

わたしはあなたがたのとがを雲のように吹き払い、 あなたがたの罪を霧のように消した。 わたしに立ち返れ、 わたしはあなたをあがなったから。(イザヤ書四四ノ二二)。

要点の確認

  1. この世の苦難と不幸は、人間が神に背いた罪の結果である。したがって、苦難と不幸の解決には、当然、罪の処理が先決となる。
  2. 神は正義を属性とする。正義の神は、罪人を罰しなければならない。もし罰しないなら、神は正義ではなくなる。神が正義でないなら、神は神であることもできなくなる。
  3. しかし、神が正義を行使するなら、罪人なる人間は滅びることになる。だが、神は正義であると同時に、また愛を属性とするお方である。愛の神は人間の滅びを座視したり放置したりはおできにならない。なんとしてもこれを救わずにはいられない。
  4. 神は正義であるためには、罪を罰しなければならないが、罰すれば人間は滅びる。神は愛ゆえに罪人の滅びを見のがしにできない。 だがまた、神は愛のゆえに、罪人の罪を赦してこれを救おうとすれば、こんどは神の義が立たなくなる。 神の正義と愛は、罪人に対して両立は不可能であるということなのである。 ではどうするか。これが神にとっての課題であり、難題であった。
  5. 方法はただ一つ、それは身代わりの刑罰以外にはない。すなわち、神なるキリストが人間の立場に身を置き、人間の罪を負い、人間が受けるはずの刑罰をキリストが代わって受けてくださるという方法である。 これ以外に罪人を救う道はない。そのために立てられたのが十字架であり、この十字架は、神の救いの計画のシンボルともいうべきものである。
  6. この十字架のあがないによって、神は罪人に対して、義であると同時に愛であり、愛であると同時に義であることが可能になった。いいかえれば、これはまさに合法的な唯一の救済手段であって、これ以外の方法は非合法となり、神の正義・公義にもとることになる。 したがって、十字架を抜きにした救いの教えは、たんなる気休めか、まやかし以外のなにものでもない、ということになる。
  7. 神はこのような驚くべき方法によって、罪に陥った人間のために救いの道を開き、永遠のみ国への帰還という輝かしい希望を与えてくださっているのである。