第8課 救い主の預言―その2、預言と約束

はじめに

神の救いの計画は、アダムとエバが罪を犯したとき、ただちに彼らに告げ知らされました。この告知の方法に二つの側面があります。一つは予型また象徴によるものであり、これについては第七課で学んでいただきました。
この課では、もう一つの側面である、救い主に関する預言と約束について学んでいただこうと思います。これは、神による救いの計画の中心的存在であるキリストについて、それを言葉で預言しているのですから、より具体的であり、また明確です。
この預言は、われわれの救いに関する神の約束でもあるわけですから、これはどなたもぜひ知る必要のある大切な学びです。

一、救い主に関する旧約聖書の預言

神の救いの計画の中心はイエス・キリストですが、この方は神であられたのに、人間の姿をとってこの世にお現れになったのでした。しかし、神が人となるということは、あまりにも神秘的なことであり、人間の常識的理解を超えています。そのため、人となったキリストを神また救い主と認めることはたいへん困難なことです。
けれども、そうしたなかで、このキリストにかんする預言とその成就は、彼が確かに、神であり救い主であることを示す決定的な証拠となるものです。そのいくつかをとりあげて、これから学んでいただこうと思います。

1、罪に対する刑罰の宣告
神は、アダムとエバが神に背いたとき、さっそく刑罰を宣告されたのですが、最初の宣告が、誘惑者であるサタンに対して与えられました。

『おまえは、この事を、したので、
すべての家畜、野のすべての獣のうち、
最ものろわれる。
おまえは腹で、這いあるき、
一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに。
おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう』」(創世記三ノ一四、一五)。

これはサタンにたいする刑罰の宣告ですが、じつはこの中に、アダムとエバに対する、救い主キリストの預言と救いの約束、が含まれていたのです。
ここでいわれていることを要約して申しますと、「サタンとエバの間、後代のサタンの配下と、女のすえキリストとの間で、霊的闘争が展開される。その結果、サタンはキリストのかかとを砕くが、キリストはサタンのかしらを砕く」という預言です。
かかとを砕かれても、致命傷にはなりません。そのように、キリストはサタンによって十字架にかけられ殺されましたが、サタンは彼を滅ぼすことができず、キリストは三日目によみがえられました。ということは、キリストは死に勝利し、死を滅ぼされたということであり、それによってサタンは敗北し、彼の滅びは決定的となったということでもあります。
さらにその結果として、アダムとエバならびにその子孫は、サタンの奴隷状態から解き放たれ、復活のキリストに連なることによって、罪の結果失った永遠の命を回復することになるという、神の約束が与えられたわけです。
この約束は、やがての日に、まちがいなく成就することになるはずです。

2、カインとアベルについての預言
次は、アダムとエバの子カインとアベルについての預言です。兄カインは弟アベルを殺して人類最初の殺人の祖となったのですが、その結果、次のような宣告を受けました。
「『今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。…あなたは地上の放浪者となるでしょう』…カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ」(創世記四ノ一一、一二)。
ところで神は、アベルを失ったアダムに対して、あたらしい慰めをお与えになりました。
「アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、『カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました』。…この時、人々は主の名を呼び始めた」(創世記四ノ二五、二六)。
こうして兄カインとその子孫は、神への不信と不服従の道をたどる者となり、弟アベルに代わるセツと彼の子孫は、神への信仰と神に仕える道を歩む者となったのです。
そして、救い主キリストは、このセツの子孫から、この世に現れることになったのでした。

3、ノアの子らについての預言
系図の上で、アダムから一〇代目にあたるノアは、洪水でこの世界が滅ぼされるとき、それを人々に警告するため、神によって立てられた預言者でした。
彼は人びとに、洪水の来ることを警告すると同時に、自分もその警告にしたがって箱舟を建造し、家族と共にその中に入って難を逃れ、救われています。
洪水は約一年間つづきました。一年後水がひいたところを見計らって、箱舟から出たノアは、農夫となってブドウ畑をつくり生活をはじめたのでした。
ところが彼はぶどう酒を飲んで酔い、失態を演じたようです。彼は天幕の中で、裸になっていたというのです。これはどういうことなのか、こんにちのわれわれからみると、合点のいかない感じがしないでもありませんが、たぶんこういうことではなかったろうかと思います。
洪水前は、空気もきれいでぶどうが発酵するということはなかったのではないか。しかし洪水後は死体も散乱していたりしたため、空気も汚れ、菌によってぶどうが発酵するようになったのかもしれません。ノアはうっかりそれを飲むことによって、心ならずも酔ってしまったということではないかと想像されます。
ところで、ノアに三人の子があり、ハムが父の裸を見てそれをセムとヤペテに告げたのです。しかし、告げられた二人は顔をそむけて父の裸を見ないようにし、しかも着物をとって父の体をおおったと聖書にあります。
さて、酔いが醒めてそれと知ったノアは、三人の子供について、それぞれの将来を預言しています。
まず父の裸を見たハムについてこう告げています。

ハムの子カナンの名をあげ
「カナンはのろわれよ。
彼はしもべのしもべとなって、
その兄弟に仕える」。

次に父の裸を見せなかったセムとヤペテについてこう告げています。

セムについて
「セムの神、主はほむべきかな、
カナンはそのしもべとなれ」。
ヤペテについて
「神はヤペテを大いならしめ、
セムの天幕に彼を住まわせられるように。
カナンはそのしもべとなれ」。

ハム、この名は「群衆」の意であり、「暑い」という意もあるといいます。
このハムの子孫はエジプトまたエチオピヤ及びリビヤなどであるといわれていますが、これらから出て広まったのがアフリカということになるかと思います。
セム、この名は「名声ある」とか、「有名」といった意味を持つもののようです。
このセムの子孫の代表的なものがヘブル人、アラブ人、その他アッシリヤ、バビロニヤ、フェニキヤ、モアブ、エドムなど、これから出て広がった民族のようです。
なによりも、このセム族は宗教的天分に恵まれており、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教など世界的宗教は、このセム族の中から生じています。
ヤペテ、この名は「彼を広くさせよ」の意であるいいます。
ヤペテの子ゴメルの子孫は、ヨーロッパ地域に分布している白人のようです。同じヤペテの子マゴクの子孫はインド、マレー、支那、日本などのようです。ヤペテはインド・ヨーロッパ族の祖ということになるようですが、東洋人もこの中に入るということでしょう。
では、これらの預言は、救い主の預言とどういう関係があるのかということですが、神は、ノアの三人の子のうち、セムを祝福され、将来を約束されたということになりましょう。神はこの子孫からユダヤ民族を特別に召して神の選民とされたのでした。その結果、救い主はこのユダヤ民族の中から、世に現れ出ておられるわけです。
しかも神は、ヤペテについて「大いならしめ」とあるように、歴史を振り返ってみると、はじめはセム族が神に用いられ、世界の覇者となっていましたが、こんにちはヤペテの子孫が、これにとって代わっています。しかも、キリスト教はユダヤの中に生まれた宗教なのに、これはヤペテの子孫すなわち白人によって全世界に宣べ伝えられ、広められたのでした。ヤペテの子孫はノアの預言の通り、いま大いなるものとなっています。
またハムの子孫は「そのしもべとなれ」とある預言のとおりに、ヤペテの子孫に従属する形になっているのを、こんにちわれわれはこの目で見ているわけです。

4、アブラハムへの約束
ノアから一〇代目がアブラハムという人ですが、今から四千年くらい前、当時の人々は世界の造り主なる神への信仰をほとんど失いかけていました。もし、人々の間からこの神への信仰が失われれば、神と人間とのつながりは完全に切れてしまい、人類は神から失われた状態となり、そのまま永久に滅びるほかはなくなるわけです。
そこで神は、この神への信仰をかろうじて守りつづけていたアブラハムに目をとめられ、回りの影響によって彼の信仰までなくなってしまうことのないように、彼を先祖の地から呼び出され、カナンの地へと導かれたのでした。
そのとき神は、アブラハムに次のようにお告げになりました。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。…
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記一二ノ二、三)。

「わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう」(同一七ノ四一)。
「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう」(同一七ノ七)。
「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(同二二ノ一八)。
以上の神の約束を、わかりやすくまとめて申しますと、神はアブラハムを選民の祖とし、信仰の父として、彼の信仰にならい、世界中の人々が真の神を知ってこれに従うようになることを望まれたのです。
とくに「あなたの子孫によって祝福を得る」とは、救い主はアブラハムの子孫から世に現れ、救いの恵みと祝福が全人類に及ぶようになる、ということなのです。
ところが、アブラハムは八〇歳すぎても、跡継ぎとなる子がなかったので、神の約束が実現し成就するためにも必要と思い、正妻のすすめもあって、彼女の奴隷の女によって子供を設けました。その子をイシマエルと名づけ、この子を跡継ぎにするつもりでいました。
しかし、それから一〇年以上も経って、アブラハムが百歳になったとき、正妻サラがみごもり、男の子が生まれたのです。その子をイサクと名づけました。
その結果どうなったかといいますと、家庭に争いや波乱が起こり、奴隷の女とその子イシマエルは、アブラハムの家から追い出される始末となりました。
この兄イシマエルの子孫がアラブ人であり、弟イサクの子孫がユダヤ人なのです。この二つの民族の対立と争いは、両民族の祖イシマエルとイサクによる家庭内の葛藤がはじまりで、それが今に続いているということなのです。
それはともかくとして、神が救いの計画を推進するためにお選びになったのは、兄イシマエルではなく、弟イサクであったということです。
このイサクは妻をめとり、妻リベカが双子をおなかに宿しました。神はやがて生まれるであろうこの子らについて次のようにお告げになりました。

「二つの国民があなたの胎内にあり、
二つの民があなたの腹から別れて出る。
一つの民は他の民よりも強く、
兄は弟に仕えるであろう」(創世記二五ノ二三)。

こうして、生まれてきた子は兄をエサウと名づけ、弟をヤコブと名づけました。
この神のお告げによると、神は救いの計画を成就する器として、弟ヤコブをお選びになっていることがわかります。彼はのちに神の命によって、イスラエルと名を変えています。
なお、このヤコブについて後に次のような託宣が与えられています。

「わたしは彼を見る、しかし今ではない。
わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。
ヤコブから一つの星が出、
イスラエルから一本のつえが起こり、
モアブのこめかみと、
セツのすべての子らの脳天を撃つであろう」(民数記二四ノ一七)。
星は、希望また約束にも通じる言葉であり、救い主を示唆しています。
一本のつえは、王権、支配権、統治権の象徴であり、神権のシンボルです。これは、王の王なるキリストがイスラエルの中から世に現れ出ることの預言でもあります。

5、イスラエルの子らについての預言
イスラエルは、一四七歳でこの世を去りましたが、彼は一二人の子らを集めて、申しました。

「ヤコブはその子らを呼んで言った、
『集まりなさい。後の日に、
あなたがたの上に起こることを、告げましょう、
ヤコブの子らよ、集まって聞け。
父イスラエルのことばを聞け』。
こう言って彼は、子供らそれぞれの将来について、つぎつぎに預言をしています。このなかで特に注意をひかれるのは、ユダについての預言です。

『ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。
あなたの手は敵のくびを押さえ、
父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。…
つえはユダを離れず、
立法者のつえはその足の間を離れることなく、
シロの来る時までに及ぶであろう。
もろもろの民は彼に従う』(創世記四九ノ八、一〇)。

このイスラエルには一二人の子供があり、それぞれイスラエル一二部族の祖となっているわけですが、これは後に二つの部族に別れています。一二部族のうち一〇部族が一つになってイスラエルと称し、ユダ族とベニヤミン族が一つになってユダと呼ばれました。
ところが、イスラエルは紀元前七二二年に、アッスリヤによって滅ぼされ、歴史上から姿を消しています。残ったユダの子孫がキリスト降誕の時まで、王国を維持し続けています。そして、救い主キリストは、このユダ族の子孫としてこの世にお生まれになったのでした。

預言のとおり、王権また神の支配権はイスラエルが滅びて後も、ユダと共にあり、神はユダ族から離れることはありませんでした。
しかしそれは、シロの来る時までと預言されていましたが、このシロというのは「安息の場所」の意であり、「平和をもたらす者」として、これはメシヤを指すものと解されて来ました。
預言によれば、このシロの来るときまでは、ユダから王権は離れないが、しかしシロが来れば、ユダは王権を失うということでもあります。そして事実その通りになったわけです。キリストがこの世にお現れになったとき、ユダヤ人はこのキリストを拒み退け、十字架に架けて殺してしまったのです。その結果、ユダヤはローマに滅ぼされ、王権を失ったばかりか、国を失い、亡国の民となって世界をさすらう身となってしまったのでした。

6、家系についての預言
神は、救い主をこの世にお遣わしになるにあたって、時代の推移と共に漸進的に預言の対象をしぼって、より具体的に明示しておられます。
すなわち、救い主の生れ出る血筋の対象として、アダムの子のうちセツ(殺されたアベルの代わりとして)が選ばれ、セツの子孫のうちノアが選ばれ、ノアの子らのうちセムを、セムの子孫のうちアブラハムをお選びになって、彼の子孫を神の選民とされたのでした。
そして、神はさらに彼の子のうち兄ではなく、弟イサクを、イサクの子のうち兄ではなく弟ヤコブを、ヤコブ(イスラエルと改名)一二人の子のうち、長子ではなくユダの子孫をお選びになっていますが、このユダ族のうちからさらに家系が一家族にしぼられています。
時代が流れ、キリスト出現の七百数十年前、大預言者と称されるイザヤが、次のように預言しています。

「エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。…
正義はその腰の帯となり、
忠信はその身の帯となる。(イザヤ書一一ノ一、五)。

エッサイというのは、ユダ族のなかの一家族です。このエッサイの子が有名なダビデです。彼はユダ王国の二代目の王となっていますが、武勇に優れ、才能に恵まれた偉大な王で、これは神の救い主イエス・キリストのひな型とされています。
この根から「一つの若枝が生えて実を結び」とある。これはあきらかにダビデの子孫としてお生まれになった救い主キリストを指しています。この若枝の諸特性は、普通の人間には当て嵌まらないもので、キリストだけが備えておられるところのものです。そのことはさらに、次の預言によっていっそう明らかとなります。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、『霊妙なる義士、大能の神、
とこしえの父、平和の君』ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とを持って
これを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなさるのである。(イザヤ書九ノ六、七)。

ここまでくれば、どなたも、これがイエス、キリストにのみ当て嵌まる預言であることが、ご納得いくに違いありません。

7、処女降誕に関する預言
いよいよ救い主が、人の子となって生まれ出るに当たって、それが約束の救い主である根拠として、ある証拠が与えられると告げられています。
「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ書七ノ一四)。
その子が、神のお遣わしになった救い主である証拠は何かといえば、それは普通には考えられない、またありえない、処女降誕という奇跡的できごとが、そのしるしであるというのです。
インマヌエルというのは「神われらと共にいます」の意であり、これはキリストの呼称とされています。キリストは人間と共に住むために、神が人となる方法として、おとめの胎を通ってこの世にお現れになると告げられていたのです。しかも、そのことがキリスト降誕の七〇〇年以上も前に預言されていたのでした。

8、キリスト降誕の場所についての預言
キリストはどんな人から、どんな生まれ方をするかということに加えて、さらにどこにお生まれになるのかということまで、預言されていたのです。

「しかしベツレヘムエフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。…
今、彼は大いなる者となって、
地の果てにまで及ぶからである。(ミカ書五ノ二、四)。

ミカは、イザヤと同時代、すなわちキリストの降誕より八世紀も前の預言者です。
エフラタはベツレヘムの、古い以前の名称。ベツレヘムはユダの中では小さな田舎町にすぎませんでした。ここにイスラエルを治める者、すなわちユダヤ人の待望する救世主となる王があらわれるというのです。しかもそれは、遠い昔永遠の昔に神の救いの計画の中に、前もって予定されていたことである、というのです。

二、救い主に関する預言とその成就

救い主に関する預言の成就は、歴史上だれの目にも明らかなことで、改めて説明を加えるまでもないほどです。しかし、その中にいくらか説明を必要とするものもないわけではありませんので、そのようなものにしぼって申し添えておきましょう。

1、処女降誕の預言
キリスト降誕の七〇〇年以上も前に、預言者イザヤは救い主がおとめから生まれると告げていました。ではこれはどうなっているのでしょうか。新約聖書によってそれを確認してみることにいたしましょう。
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」(マタイによる福音書一ノ一八)。
なぜ処女なのか、もしキリストが女の胎を通らずに世にあらわれたら、それは人ではなく、人類の身代わりとはなりえなかったでしょう。
かといって、キリストがもし二人の男女の間から生まれ出たとしたら、それはわれらと同じ普通の人間、罪人にすぎないことになり、この方を神であり救い主であると認めうる根拠はなくなってしまいます。その意味で、神なるキリストが救い主として世に現れ出るためには、おとめの胎をとおり肉体を身にまとうこと以外に、途はなかったのです。この処女懐胎こそが、神なるキリストが人となるための絶対的な必要条件であり、またもっとも相応しいかたちであったということになると思います。
主の使いは、マリヤの許嫁ヨセフにこう告げています。
「『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』。すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』これは『神われらと共にいます』という意味である」(マタイによる福音書一ノ二〇〜二三)
こんにち聖書を学ばれる方の中に、キリストが処女から産まれた、という記事につまずいて学びをやめてしまう人が少なくありません。だがじつは、それこそがまさしく,その子が約束の救い主にまちがいない証拠として、神がお与えになったしるしであったのです。
しかも、それが予告されていたとおりに起こったということであれば、これは疑いの理由となるどころか、むしろ確信の根拠となる出来事であるはずなのです。

2、降誕の場所に関する預言
預言者ミカは、救い主の産まれる場所について、それはベツレヘムであると預言していました。
ではこれはどうなっているでしょうか。
イエスの母マリヤは、ナザレというところに住んでおり、しかも臨月が近づいていましたので、人間的には、ミカの預言はどう考えても成就するはずがないように見えました。ところが、驚くべきことに、預言はやはりみごとに成就しているのです。いったいそれは、どういう経緯によるのでしょうか。

「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもデビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出てユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていた、いいなづけの妻マリヤと共に登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカによる福音書二ノ一〜七)。
すなわち、マリヤが臨月の近づいたころ、突如として人口調査に関するローマ皇帝の勅令が出たのです。これは税金の徴収を目的とするものでしたが、当時のユダヤのならわしとして、登録は先祖の故郷で行うことになっていたようです。
両親の先祖はダビデであり、「ダビデは…ベツレヘムで父の羊を飼っていた」(サムエル記上一七ノ一五)。とあるように、タビデはベツレヘムの人でしたので、登録はそこへ行かねばならなかったのでした。
そのためマリヤは夫ヨセフの助けをかりて、ろばの背に乗り三日の旅をしてナザレからベツレヘムにやってきました。しかし、ベツレヘム出身のユダヤ人がみな戻ってきていたため、旅館は満員でどこも泊めてくれるところがありません。そのため、馬小屋の片隅で寝ることになったその晩、マリヤは産気づいて出産したのでした。
こうして、預言されていたとおりに、イエスはベツレヘムに生まれているのです。しかし、育ったのはもちろんナザレですので、イエスは後に「ナザレ人イエス」と呼ばれています。
しかも当時の聖書学者たちは、救い主がベツレヘムに生まれることを、事前に知っていたことがわかります。
聖書の記すところによると、キリストがおうまれになったとき、東方から博士たちが、この幼子は神のお遣わしになった救い主であることを知り、これをお迎えし礼拝するために、遠い旅をしてエルサレムにやってきたことを伝えています。彼らは救い主がどこに生まれているのかわからなかったので、それを知るためにユダヤの王ヘロデに面会を求めました。しかし、ヘロデはそれについて何も知らなかったので、祭司や学者たちを呼び集めて、それを問いただしています。
ところが、彼らはやはりそれは初耳であり、救い主が生まれていることも知らず、まして会っているわけでもないのに、即座に次のように答えています。「彼らは王に言った、『それはユダヤのベツレヘムです』と。
どうして、そう答えることができたのかといいますと、彼らは次のように説明しています。

預言者がこうしるしています。
『ユダの地ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』。(マタイによる福音書二ノ五、六)。
これはあきらかに、ミカの預言の引用です。けっきょく彼らは、じじつ起こっていることは何も知らないでいたのに、救い主にかんして何がどのように起こるのかを、前もって知っていたということなのです。それはあくまでも聖書の預言によるものであったのです。旧約聖書にはイスラエルの王となるべき方が預言されており、彼らはそれを研究し、その方がベツレヘムにお生まれになることをよく知っていました。
ですから、ヘロデ王から、救い主はどこに生まれたのかと聞かれたとき、かれらは直ちに「それはユダヤのベツレヘムです」と答えることができたわけです。
これで見ますと、ユダヤ人は、神が彼らに約束しておられた救い主を、イスラエルの王となるべき方として期待し、それを待望していたことがわかります。ということは、救い主が生まれたとき、旧約の預言とキリストの降誕による成就とは、たんなる預言の解釈の辻褄合わせといったものではなく、これこそは、神の救いの計画の緻密さと、神の約束の確かさとを証拠立てるものにほかならなかったのです。
それと同時に、聖書を学ぶ者はみなひとしく、このキリストこそは、まさしく神がおつかわしになった救い主にちがいないという、ゆるぎない確信を持つことができるわけなのです。

要点の確認

  1. アダムとエバが罪を犯した時、神はまず二人を誘惑したサタンにたいして、刑罰を宣告されたが、その宣告の中に、アダムとエバにたいする救いの約束も含まれていた。
  2. アダムにカインとアベルという子がいたが、不信仰の兄カインが信仰の厚い弟アベルを殺した。神はアベルの代わりにセツをアダムに授けられたが、その子孫が主の名を呼び求める者たちの本流となった。
  3. ノアは、三人の子供の未来を預言しているが、その預言のとおり、セムの子孫は宗教的民族イスラエルとアラブ人である。イスラエルは神の選民となり、アラブ人はこれに敵対する民族となった。しかし、のちにヤペテの子孫であるヨーロッパ人が大いなる民となり、世界に福音を広める器となった。
  4. 神は信仰の厚いアブラハムを呼び出し、これを信仰の父とし選民の祖とされた。救い主は、彼の子孫から世に現れることをお告げになり、その方によって救いの恵みと祝福が全世界に及ぶと約束された。
  5. 紀元前八世紀、預言者イザヤは、救い主が世に現れるとき、処女から生まれる。そして、それが救い主である証拠またしるしとなる、と告げている。
  6. 同時代、預言者ミカは救い主の生まれる場所は、ユダヤのベツレヘムであると預言している。
  7. キリスト降誕後に書かれた新約聖書によると、救い主キリストに関する旧約の預言は、みな文字どおりに成就していることがわかる。この預言の成就こそ、イエスが神から遣わされた救い主である、何よりのゆるぎないたしかな証拠である。