第2課 神を知る方法―啓示

はじめに

前回は神の存在について考えました。この研究によって、神は唯一であり、世界の創造主こそが、その唯一の真の神であることが明らかにされたと思います。
しかし、これはあくまでも、われわれ人間が自分の頭で考え、理論的に納得できた神というにすぎません。それが果たして、事実かどうかは別の問題です。
では、神についてのわれわれ人間の考えや理解が、単なる独り合点ではなく、事実そのとおりなのかどうかを、どうやって確かめることができるのでしょうか。

実在の神を確認する方法

神を知るためには、大きく分けて二つの方法があるといえます。それは、知識と信仰、言い換えれば人間の理性と神の啓示です。

1、知識による方法

まず最初に、だれもが考えるのは知識による方法でしょう。すなわち、理性によって人間の側から神を探し求め、これを見出だそうとする方法です。
これまで人間は、真理を知り、神を探求する方法として、唯一この方法を用いてきたわけです。具体的には哲学的思索による探求がそれです。これに加えて、神秘主義的体験による方法などもあるわけです。そのいずれであっても、これは人間の側からの努力や方法によって神を捜し求め、見つけ出そうとする試みなのです。

しかし、このような方法で、はたして目的を達成できるものかどうかです。
神は無限者です。これに対して、人間は有限的な存在です。有限な存在者である人間が、無限な存在者である神を、究めたり、証明したりということは論理的にも矛盾があり、もともと不可能な企てであるといわねばなりません。それはちょうど、梯子を掛け、箒や竹竿で星をたたき落とそうとするようなものです。この地上には、星に届くだけの竹竿などあるわけはありません。
聖書も、とおい昔に同じようなことを試みた人びとがあったことを伝えています。

「彼らはまた言った、『さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて云々』」(創世記一一ノ四)。
もちろん彼らは、目的を達成できず、この試みはみごと失敗に終わったことが、そこに記されています。
しかも、人間は人の知識や能力に、身のほど知らずの過大な信頼を置いており、いまもなおこの方法で、真理や神の探求をつづけている人が少なくないのが実情です。
この点、人間にはたいへんな思い上がりがあるといわねばなりません。

2、信仰による方法

真理や神の探求に、理性・知性を用いるのは当然で、ほかの方法などあるわけがないではないか、といわれる方もあろうかと思います。
たしかに、人間がこの宇宙における最高の存在であり、人間の上に立つ者がほかに存在しないのであれば、そのとおりに違いありません。しかし、真理と神の探求には、これとは別の方法があることを知る必要があります。それは、信仰による方法です。
それでは、この信仰とはなんでしょうか。世には、信仰と信念を同じに考えている人が少なくありません。けれども、この二つは似ているようでまったく異なるものです。
信念は自分の知識や体験を絶対と思い込むことです。それは自己過信から生じる独断であって、狂信・盲信と同類であり、信仰とは異質のものなのです。
信仰は、自分自身の何かを確信することではありません。むしろ、自分のうちには確信できるものが何もないことを悟って、人間より上なる者の告げることを、信頼して受け取ること、また聞きしたがうことです。
聖書にこうあります。

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙一〇ノ一七)。
信仰とはたんなる思い込みや信念ではなく、告げられたこと示されたことを、聞いて信受することです。ただし、それは他人の言うことを鵜呑みにすることとはちがいます。何を聞くか、だれから聞くかが問題です。使徒パウロは「聞くことはキリストの言葉から来る」といっています。キリストは神です。この神の言葉を聞いて信受することが信仰であり、それが真理と神を知る確かな方法であるというのです。
もし神が存在するのであれば、神のほうから人間にご自身をあらわし、み旨を告げ知らせるという方法があって、当然ではないでしょうか。これを神学用語で神の啓示と言いますが、啓示とは神のお告げ、またお示しのことです。
われわれ人間には、この啓示によって真理を知り、神と出会う方法があたえられているのです。

啓示の蓋然性

問題は、神がはたして、事実われわれ人間にご自身をあらわし、み旨をお示しになっているのかどうかです。もし神が実在なさるなら、それはあって当然ではないでしょうか。なぜなら

  1. 神は本質的に、受動的ではなく能動的であるはずです。とすれば、神は人間が求める先に人間の必要をご存じであり、とうぜん神のほうから、人間にご自身をお現しにならないはずはありません。
  2. 神がもし、人格的存在であるのなら、ご自身の造った人間との交わりを求めるのはきわめて自然なことではないでしょうか。
  3. ましてや、罪の結果滅びの運命にある人間に、なんの警告も与えないで放置されるということは、ありえないことです。
  4. しかも、神が愛であるなら、単に警告にとどまらず、さらに救いの手を差しのべるということも、あって当然と思います。
  5. いずれにしても、神が生ける神であり愛の神であるならば、神から失われ迷子の状態にある人間を、そのまま放置しておかれるはずはありません。むしろ神のほうから人間を探し求められるのは当然ではないでしょうか。この神が、ご自身の処在を人間に知らせること、これが啓示なのです。

啓示の方法

では、神はどんな方法で、ご自身をあらわし、み旨を示されるのでしょうか。
これには、一般啓示と特殊啓示とがあります。

1、一般啓示
いわば、自然的な方法による啓示です。

A、まず第一に、天然自然を通して、神がご自身を現し、み旨を示す方法です。

これについて、聖書はつぎのように述べています。
「神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ人への手紙一ノ一九、二〇)。
太陽や月や星の輝きは神の栄光をあらわし、花の美や香り、さらには小鳥のさえずりなども神の愛をあかししています。また、地に這う獣や微生物でさえ、神の神秘や知恵を物語っています。
「自然を知るとは神を知ることである」(ゲーテ)。

B、次に、われわれ人間の良心への働きかけによって、み旨をお示しになることです。

良心というと、これはわたしの心と、だれもが考えるのではないかと思いますが、ここに不思議なことがあります。たとえば、わたしがこうしたいと思っていることを、良心によって否定され、引き止められることがあります。この場合、こうしたいと思うのはわたしの心です。そうしてはいけないというのは、わたしの思いではなく、外から聞こえてくる声のように思われます。われわれはしばしば、自分にとって有利なことも、良心によって否定され、また反対に自分にとって不利なことでも、それをしないではいられない義務感に迫られ、身を捨てて断行する、ということもあります。
自分にとって有利なことをしたいと思うのはわたしの心です。しかし、これに反対し引き止めようとする声、これは明らかに自分の心ではなく、自分に対する声、すなわち外からあるいは上からささやきかけてくる声です。
またそれとは逆に、自分に不利なことはしたくないと思う、これはわたしの心です。にもかかわらず、それを義務として行うことを迫る声がありますが、これはいったいどこから聞こえてくる、だれの声なのでしょうか。
宗教詩人バイロンは「本心(良心)は神の託宣である」と言っています。
また「良心は神の審判である」と言った人もいます。
われわれの思いや行いについて、善悪の弁別と評定を下されるのは神ご自身です。それをわれわれの良心に告げるのは神の声であり、これもまた神の啓示の一側面なのです。

C、次に人間の歴史も神の支配と摂理の証言です。歴史というと、われわれはとかく人間の力と力の競い合いと、その優劣によって織り成されるもののように思いがちですが、しかしその背後には、人間を越えた偉大な働きかけがあることを否定することはできません。歴史は、一〇年や二〇年のスパンで見るかぎり、そこに神の正義や摂理を認めることは困難に思われるかも知れませんが、一〇〇年二〇〇年という長期の歴史を観察するとき、そこに悪は滅び、正義は立つ、という不変の法則のようなものを看てとることができるはずです。このように、歴史の中にみられる支配のみ手、また摂理、これもあきらかに神の啓示の一方法といえます。

D、これは、われわれ個々人の人生、また生涯についても言えることだと思います。

人生というものは、先が見えないだけに、偶然と偶然の連続のような感じがしないでもありませんが、しかし過去の歩みを振り返ってみるとき、そこには単なる偶然とは思えないような、不思議な出会いや出来事に気づかされることが少なくありません。
それは、偶然ということでは説明し切れない、いわば摂理的なものを看てとることができるのです。
「神には偶然なるものはない」(ロングフェロー)。
すなわち、われわれ個々人の人生や生涯を、支配し導いてくれている何者かがあることを感じずにはいられないのです。これは、神がわれわれ個々人の人生や生涯に働きかけることによって、ご自身を啓示される方法の一つといえるわけです。

2、特殊啓示
一般啓示は、自然界や自然的出来事などをとおして示されるものであるのに対して、特殊啓示は超自然的な方法によって与えられるものです。

A、たとえば神は天使を遣わし、あるいは預言者を起こして、これまで人間に警告や励ましを与えてこられました。預言者は神から夢を見せられたり、異象を与えられたりして、それを人間に告げ知らせてきたのです。

B、しかも、神はそれだけでは満足なさらず、いまから二〇〇〇年前に、神の御子イエス・キリストをこの地上にお遣わしになりました。このキリストは、もともと神であられたのに、人として生れ、人びとの間に住みながら、直接人びとに語りかけ、教えを垂れ、神のみ旨を人間にお知らせになったのでした。

このことについて、ヨハネによる福音書の一章には、つぎのように記されています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(一節)。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(一四節)。
ここにキリストは神の言といわれています。言葉は、その人の心の中の思いを他の人に伝達するさい、媒体となるものです。言葉はいわば思想や意思の表明です。キリストが神の言であるということは、彼が父なる神の意思や人格を代表するお方であるということです。言い換えますと、それはキリストが神の啓示者である、ということにほかなりません。すなわち天の神は、御子キリストの言説により、キリストの御品性により、またキリストの奇跡のわざを通して、人類にお語りになったのです。
「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(一八節)。
このキリストこそが、父なる神の完全な啓示者であられたのです。われわれは、このキリストによってはじめて神を知ることができ、また神と出会い、神と交わることが可能になったのです。
ゆえに、パスカルは有名な『パンセ』の中で、次のように言っています。
「イエス・キリストなしに神を知ることは不可能であるばかりか、無益である」。
それにもかかわらず、当時の人びとは、イエスが、啓示された神であることが理解できず、これを疑う者もあれば、頭から否定する者もいたようです。
これについて、ヨハネによる福音書一四章に、とても興味深いことが記されています。あるとき、ピリポという弟子がイエスに言っています。
「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(八節)。
ここで言われている父とは、天の神のことです。これにたいしてイエスは言われました。
「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしに父を示してほしいと、言うのか」(九節)。
このようにいわれ、さらに「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっておられるのである」とおっしゃっています。
これは、キリストが天の神をこの地上にあらわすために、おいでになった方であることを示しています。

C、ところで、この神の子キリストがこの地上に姿を現されたのは、今から二〇〇〇年も前のことです。このキリストは十字架の死後、復活し、天に昇られました。いま現に見える姿でこの地上におられるわけではありません。そればかりか、むかし、いつの時代にもいた預言者さえも、いまはどこにも存在しないのです。

とすると、こんにちのわれわれには、一般啓示はともかく、特殊啓示は何も与えられていないのでしょうか。そうではありません。こんにちのわれわれにも、やはり与えられているのです。それは聖書です。
この聖書は、預言者たちが神から与えられた啓示の内容を文字にして、われわれに遺してくれたものであり、さらにまた、十全な神の啓示者イエス・キリストの教えとみわざを記録して、後世のわれわれに伝えてくれたものなのです。ですからイエスもこのようにおっしゃっています。
「あなた方は、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書五ノ三九)。
イエスは、この聖書はキリストのことをあかしし、それを伝える目的で書かれた本であると言っておられます。そうすると、イエスはこんにちわれわれの前に目に見えるかたちで存在するわけではないとしても、われわれはこの聖書によって、イエスの教えを聞き、イエスのみわざを知り、このイエスをとおして、神の啓示に接することができるわけです。
問題はこの聖書がほかの本、たとえば文学書・哲学書・歴史書などと、どこがどうちがうのか、ということです。これらの本はすべて、人間の知識や思想の産物にすぎないわけですが、聖書もこれと同じものではないのか。これはふつうだれもが考えることでしょう。ところが、聖書はほかの本と違うのです。
では、もし聖書が神の啓示の書であるというのなら、その理由は何かということです。それはつぎの点にあると言ってよいでしょう。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第二の手紙三ノ一六)。
ここに、聖書は霊感の書であるとあります。しかも「すべて」とあります。これは、聖書は人間の知識や思想の産物ではない、ということです。それどころか、神の思想の所産であり、神から与えられた真理なのです。すなわち、神が聖霊をとおしてお告げになり、お示しになったことの記録です。言い換えれば、聖書はたしかに神の啓示の書であるということなのです。
そこで、これから聖書が神の霊の導きによって書かれた神の啓示の書である理由、また証拠についてご説明したいと思います。

聖書が神の霊感による証拠

世には、多くの宗教があり、それぞれ教えの拠り所となる聖典や経典を持っています。しかし、その多くは人間の思想から生まれた思索の産物です。もちろん、霊感と称するものもいくつかないわけではありませんが、それは何からの霊示かが問題です。なかにはサタンからの霊示というものもあるからです。そこで、それが真の神からの啓示かどうか、厳密にテストされる必要があるわけです。
では、聖書が真の神からの啓示であるというのなら、その理由また根拠は何なのでしょうか。

1、聖書成立の過程にみられる証拠

聖書はだれによって、いつどのようにして書かれ、また結集されたのか、そうした経緯や過程の中に、その証拠を認めることができます。
聖書は最初ばらばらの巻き物でした。著者は約四〇人、年代は紀元前一五〇〇年から紀元後一〇〇年ごろまで、すなわちその期間は一六〇〇年もの間に書かれたことになります。
旧約三九巻、新約二七巻、計六六巻、これら各巻の述べるところが完全に一致し調和していて、お互いの間に齟齬や矛盾が見られないことです。
しかもこの中に、神の救いの計画の全体像が示されており、おそらくこの中のどれかが欠けても、それは不明瞭 なものになってしまうにちがいありません。これは何を意味するか、ということです。
この神の救いの計画という全体像を、いま一軒の家に例えて見ましょう。この家を建てるために、土台を据える人、柱を立てる人、屋根を葺く人、壁を塗り、建具を取り付ける人、電気工事、水道配管工事など、さまざまな職人がやってきて仕事をします。かれらはお互い相談したり連絡をとりあったりするわけではなく、各自が自分の請け負った領域の仕事を、かってにやり終えて去っていきます。
それにもかかわらず、しばらくすると、住み心地の良い立派な家が完成します。どうしてそうなるのか。これは、前もって設計図が描かれ、職人はそれを見ながら、自分が請け負った領域の仕事を、図面通りに仕上げていく、その結果なのです。
聖書も同様です。四〇人の著者は各職人のようなもの、自分に割り当てられた領域を忠実に果たしています。それを寄せ集めてみると、そこに救いの計画という見事な殿堂が建て上げられている。どうしてそれが可能であったのか。それはこの書を書いた人は四〇人だが、その内容を設計した人はただ一人、それは神様以外にはありえないことです。
以上が、聖書は神の霊感によって書かれた啓示の書である証拠の一つなのです。

2、科学的見地からの証拠

これまで聖書は非科学的であるという理由で、多くの人に退けられ、遠ざけられてきました。しかし、じつは聖書の記述は、今日の科学によって真理であることが認められ、支持されている、という事実もあるのです。いま一、二の例を示してみましょう。
「彼は北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる」(ヨブ記二六ノ七)。
ここに、地球が何もない空間に掛けられて存在していると記されています。そんなこと当たり前ではないか、小学生でもみんな知っていることだ、といわれるかも知れません。しかしこれは、当たり前ではないのです。というのは、このヨブ記が書かれたのは、紀元前千数百年ものむかしなのです。人間が、地球が空間に浮遊していることを科学的に知ったのは、ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えたときからでしょう。それはいまから四〇〇年ほど前のことにすぎません。でも聖書は三〇〇〇年以上も前に、そのことを述べていたのです。

「主は地球のはるか上に座して、地に住むものをいなごのように見られる」(イザヤ書四〇ノ二二)。
ここには、地球について、まるで宇宙飛行士の帰還後の感想でも聞くような記述が見られます。すなわち、地球はどこまでも平らなものではなく、円形をなしているものであることを述べているのです。(地球=原語は地の円)。これも、そんなことは幼稚園児でも知っているといわれるでしょう。しかし、科学者が地球が丸いことを教えてくれたのは、やはり四〇〇年程前のことにすぎません。
ところが、このイザヤ書が書かれたのは、いまから二七〇〇年以上も前なのです。これによって、現代の科学によって明かになったことが、それよりはるか以前に、聖書にはすでに述べられていたことになるわけで、これは、聖書が科学的にも真理であることを物語るものにほかなりません。
以上はこんにち広く知られる一、二の例にすぎず、ほかにも多くあげることができます。

3、預言とその成就にみられる証拠

旧約聖書には、イエス・キリストに関する預言が何百とありますが、それが歴史上に明確に成就 しています。わたしは、これこそ聖書が神の啓示の書である何よりの証拠と考えています。
実は世界最高の知性であるフランスの思想家パスカルも、そのことを指摘しています。
「イエス・キリストを証明するためには、わたしたちは、かたい手で触れるほどの証拠である預言を持っている。そして、それらの預言は成就され、起こった事柄によって真実であることが証明されたのであるから、それらの真理の確実さを示すのであり、したがって、イエス・キリストの神性の証拠となるものである」(パンセ)。
このイエス・キリストに関する預言を中核にして、聖書にはほかにも、イスラエル民族にかかわる預言、アメリカ合衆国にかかわる預言、さらには世界の運命にかかわる預言、その他多くの預言があります。しかも、そのほとんどがこれまで歴史上に成就を見ています。残りは、なお未来にかかわる預言です。

人間は、先のことを予測はできても、未来を預言することはできません。しかるに、聖書に預言があって、それが歴史上に的確に成就を見ているということは、聖書は人間の知識や思想の産物ではなく、神の霊感によって示されたことを記した書である何よりの証拠といってよいでありましょう。
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意思から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだらである」(ペテロ第一の手紙一ノ二〇、二一)。

4、聖書の感化力にみられる証拠

使徒パウロもこう言っています。
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら善をしようとする意思は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…私は、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙八ノ一八、一九、二四)。
聖書は、人間は生まれながらの罪人であると記しています。もちろんそれは、神が人間を罪人に造ったというのではありません。人間が神に背いて神から離れた結果、サタンと罪の奴隷となったためなのです。そのため人間は自分の意思や努力で、悪を避け善を行うことができなくなってしまったのです。

罪の結果は死なのですから、われわれは死と滅びを避けるためには、新しくされる必要があります。残念なことに、それは自分の努力によっても、また教育によっても、元の善なる人間になることは不可能なことです。しかし、聖書には次のように約束されています。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人への第二の手紙五ノ一七)。
「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである」(コロサイ三ノ一〇)。
事実これまで、多くの人が聖書を学び、キリストを信じることによって、「滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて」(エペソ人への手紙四ノ二三)。まったく別人のような生活を送っているという事実が、数多く存在するのです。
じつはバウロ自身、かつては熱心なユダヤ教徒であり、コチコチのパリサイ人として、クリスチャンの迫害を指揮していたのでした。しかし、彼がいつものようにクリスチャンを迫害し、彼らの命を奪うためにダマスコというところにやってきたとき、復活されたイエスが彼にお現れになったのです。このイエスとの出会いにより、イエスが彼に語りかけられた言葉によって彼は回心し、まったく新しい人間に変えられて、ただちにイエスの忠実な僕となったのでした。こうして、イエスの敵対者がイエスの使徒となり、迫害者が救霊者となって、世界中に福音を宣べ伝える働きに生涯を捧げ、最後は殉教の死を遂げているのです。彼の考え方生き方の変化はまさに奇跡というほかはありません。
その後も、聖書によってキリストを信じ、パウロにならって福音のために生涯を捧げた人がどれだけいるかわかりません。このように、聖書がこれまで人びとに及ぼしてきた感化力の偉大さは、はかり知れないものがあります。これは、聖書がたんなる文学書でも道徳の教科書でもなく、神の言葉である何よりの証拠と言ってよいでしょう。

聖書は人生の指針また生活の規範

聖書が神の言葉であるゆえ、人間が勝手にこれを変更することを、神は固く禁じておられます。(ヨハネの黙示録二二ノ一八、一九を参照のこと)。
これについて、元東京大学総長・矢内原忠雄氏も次のように言っています。

「神の言は人間の理性を持って取捨することは許されない。神が然りと宣うときに然らずと答うるは人間の判断を以て、神以上に立たんとする者である」。
聖書が神の霊感によって与えられた啓示の書であるとしたら、これは当然ではないでしょうか。そして、もしそうであるなら、われわれ人間は、人生の諸問題を解決するに当たって、不完全な理性に頼るよりも、完全な神の啓示を信頼し、これに導かれるほうが、はるかに安全であるということになるはずです。

このことについても、矢内原氏は次のように言っています。
「論者いわく、『われらの信ずべきものは吾人の理性のみ、吾人の理性以外に権威を認むるは自己に忠なる者にあらず。たといわが行く道は暗くけわしくともわれはわが理性の指し示す途を歩むべきである』と。
言やはなはだ勇まし、されどわれらは己が理性、己が知恵の不完全なるを知るがゆえに、聖書において神の知恵を求むるのである。かくてわれらは、何も知らぬがごときもすべてのことを知り、彼らは『自ら智しと称えて愚かな者』となるのである」。

要点の確認

  1. 神を知る方法には次の二つがある。理性と信仰である。理性は、人間の側から神を探求して、神を見つけ出す方法であり、信仰は、神の側から名乗り出て、人間にご自身を示してくださる方法である。迷子は自分から親を探して見つけ出すことなどできるわけはない。神から失われたわれら罪人も同様である。自分のほうから神を探して見つけ出すということは不可能なことで、神の側からご自身を現してくださる以外に、われわれが神を知り、神に帰る途はない。神認識と神への復帰は、啓示によるほかはないのである。
  2. 事実、神はいろいろな方法で、人間にご自身を啓示しておられる。自然界・良心・歴史などである。これらは一般啓示といって、自然界や自然の法則の中に与えられている神の顕現であり、啓示である。
  3. さらに神は特殊な方法によっても、ご自身を顕示しておられる。それは、預言者に夢や幻によって、ご自身のみ旨を告げ示されるのである。これは特殊啓示と呼ばれる。
  4. しかし神は、それだけでは満足なさらず、御子キリストを人間の姿でこの世にお遣わしになった。キリストの口から語られた言葉はもちろん、キリストの品性、奇跡のわざも人間に語られた神の言葉であり啓示である。そしてこれらを記録した聖書こそ、こんにちわれらに与えられているたしかな神の啓示なのである。
  5. では、聖書が神の霊感によって記された啓示の書である証拠は何か。まず第一は、聖書成立の過程に、そのたしかな証拠を認めることができる。さらに、科学的見地からもその確かさを証明することができる。しかし、なんといっても、よりたしかな証拠は、聖書の預言とその成就であろう。そして、それに劣らぬ確証は、この聖書がこれまで人間に及ぼしてきた影響力・感化力の偉大さである。
  6. 神は、この聖書の言葉をだれも勝手に書き替えてはならない、すなわち、これを削ってもならないし、これにつけ加えてもならないと警告しておられる。それは、この聖書が神の言葉であり、天国への道標であって、これを勝手に変えるなら、人びとが天国への道をあやまり、滅びの道に迷い込む危険があるからである。
  7. 聖書が神の言葉あるなら、われわれはこれを、人生の歩みにおけるたしかな規範とし、拠り所とすべきである。そうすることによって、無知で愚かなわれわれ人間も、この世における知者学者にも劣らぬ賢い生き方ができるようになるのである。