第3課 天使と悪魔について

はじめに

この世には、神以外にも人間を超えた存在がいくつかあります。
一つは、他世界の住民です。これは、この地球と直接かかわりを持つものではなく、したがって聖書にも明確な記述があるわけではありませんので、これについて詳細に知ることはできません。

もう一つは、天使と悪魔です。これは、ふだんわたしどもの目には見えませんが、この地球また人間と深いかかわりを持つ存在であり、聖書にも多く出てまいりますので、かなり程度のことを知ることができます。
とはいえ、こんにちほとんどの人は、こうしたものの実在を信じなくなっていますので、これに耳を傾けてもらうことは、少々むりなことかも知れません。けれども、聖書が神について語っているところには、きまってこの天使や悪魔が登場しています。したがって、これについて知ることなしには、神についても、神の救いのみわざについても、また人間の罪や悪、人生の苦難や不幸わざわいなどについても、その真意を理解し納得することはできないといってよいでありましょう。
現代人の多くが、これに真剣に耳を貸そうとしない理由は、天使とか悪魔を実在とは考えられず、たんなる善や悪の象徴、または例えや作り話など神話の類いと思い込んでいるためと思われます。聖書以外の教えが語るものは、たしかにそのとおりにちがいありません。しかし、聖書が語る天使・悪魔は、それとはまったく異なるものです。それは、実在するものなのです。
正直のところ、どなたも、そんな話を聞くのはばかばかしいとか、あほらしいと思われるかもしれませんが、ここはひとつ 幼子に帰ったつもりで、聖書が語ることを、いちおう聞くだけ聞いてみていただきたいと思います。

天使について

聖書には、天使という言葉が二八五回も記されています。ですから、これに目をつむって聖書の教えを理解することはできません。とはいえ、これについてあまり詳しく学ぼうとすると、わずらわしくなりうんざりする人もあろうかと思いますので、ほんの要点を箇条書き的に述べるにとどめたいと思います。

天使とは何か
まず、それは神ではありません。
またそれは、人ではありません。
それは、多くの人が想像するように、死人の霊でもありません。
それは、抽象的なものの単なる擬人化でもありません。
それは、譬えや象徴的表現といったものでもありません。
それは、個性・人格をそなえた実在者です。

天使の起源
天使は、人間と同じく神の被造物です。(詩篇三三ノ六、コロサイ一ノ一六)。
天使は、人間より先に造られていました。
天使は、人間より高次元の存在です。(ヘブル二ノ六、七)
天使は、被造物ゆえ礼拝の対象ではありません。(黙示録一九ノ一〇)。

天使の性質

1、属性

A、全知ではないが、大いなる知恵知識を持っています。(マタイ二四ノ三六)。

B、全能ではないが、大いなる能力を持っています。

C、超越的存在ではあるが、それは幽霊のようなものとはちがいます。

D、婚姻はしないと、イエスは言っています。(マタイ二二ノ三〇)。

2、容姿

A、純白な姿をしています。(マタイ二八ノ三)。

B、翼を持っています。(イザヤ書六ノ二、ただし象徴的描写?)。

C、天使の数は、聖書に「千々万々」とあり、無慮無数のようです。(黙示録五ノ一一)。

3、使命

A、天使は神の御使いです。(ヘブル一ノ七)。

B、天使は人間の救いのための奉仕者です。(ヘブル一ノ一三、一四)。

a神よりのメッセージを人に伝達します。(黙示録一ノ一、使徒行伝七ノ五三)。

b神の民を保護します。(詩篇三四ノ七)。

c人間を監督し、人間の言行を記録し、神に報告します。(マタイ一八ノ一〇)。

天使についてのまとめ

天使は、アダムとエバが神に背いてエデンを追放されたとき、園の入り口を守ったと聖書に記されています。
救い主キリストの降誕に当たって、天使は神から遣わされ、それを人びとに伝達するはたらきをしています。
キリストが十字架の死後、三日目に復活したとき、天使が墓に現れ、この出来事を弟子たちに告げ知らせています。
世の終りにキリストが再臨されるとき、天使が地の四方から選民をキリストのもと集める、と聖書に記されています。
この天使の実在を信じ、そのはたらきについて知るとき、わたしたちは神のお守りとお導きを、現実のものとして確信し、ゆるぎない信頼を持って神にしたがっていくことができるようになります。
聖書によれば、この天使が過去にしばしば現れて、人に警告を与えたり、また危難から人びとを救うはたらきをしていることがわかります。こんにちでも、天使が現れたというできごとが、世界のあちこちに起こっていますが、それについては後日機をみて紹介させていただくことにしましょう。
次は悪魔ですが、これについては、いくらか詳しく取り上げてみたいと思います。

悪魔について

天使についてそうであったように、悪魔についてはなおさらのこと、実在などとうてい信じられない、といわれる方がほとんどかと思います。
しかし、聖書をみると、キリストが地上で生活されたとき、彼の行かれるところには、悪魔が影の形に添うように、いつもつきまとっていたことがうかがわれます。
聖書には、新約だけでも、悪魔という言葉が三四回、サタン(敵対者の意)の語が三七回、あわせて七一回も記されています。
いったい悪魔というものは、はたしてほんとに実在するのでしょうか。実在するとしたら、それはどのようなものなのでしょうか。

悪魔の存在

悪魔というと、世の多くの人は、閻魔大王を連想したり、なかには角の生えた頭、ひづめの分かれた足、尻尾をもった半人半獣のグロテスクな姿を思い浮かべられるのではないかと思われます。
これはなぜかといえば、むかしは悪魔の存在をだれもがみな信じていたのですが、中世紀になって、科学の進歩に伴い、人びとは悪魔など単なる迷信にすぎないと考えるようになりました。そして、これまでの悪魔にたいする恐怖心を追放しようとして、漫画家が悪魔を茶化し、戯画化して、滑稽な姿にこれを描いたのです。それが人びとの脳裏に刻みこまれてしまいました。
その結果、もちろんそんな奇妙な格好をした悪魔がほんとうにいるとは思われませんので、人びとはいつのまにか、悪魔を架空のものとして考えるようになってしまったのです。
これが、現代人が悪魔の実在を信じなくなった理由と思われます。しかし、これは聖書のいう悪魔とは、似ても似つかぬまったく別のものなのです。聖書のいう悪魔はそんな滑稽なアホらしいものではありません。

では、聖書が語る悪魔はどのようなものなのでしょうか。

悪魔の起源

悪魔は何者であり、いつ、どこから、どのようにして出てきたのか、それを知る手がかりとなるのが、イザヤ書一四章やエゼキエル書二八章などです。
この二つの書の中で、預言者イザヤは、バビロンの王を一つの象徴として、また預言者エゼキエルは、ツロの王についての予言にちなんで、この悪魔の正体を描き出しています。いまこの中から、悪魔に関する描写の断片を、いくつか引用してみましょう。

「黎明の子、明けの明星よ」(イザヤ書一四ノ一二)。
これは悪魔が堕落する前、天使であったときの呼称です。
「わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた」(エゼキエル書二八ノ一四)。
ケルブは天使のことで、悪魔は堕落する前、天使の一員として彼らと共にいたのでした。
「あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされる日まではその行いが完全であった」(エゼキエル書二八ノ一五)。
これによると、彼は最初神によって造られたときは完全な存在であったことがわかります。ではどうして、彼に「悪が見いだされ」るようになったのでしょうか。
「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえ」(エゼキエル書二八ノ一七)。
いったい、これはどういうことなのでしょうか。
「あなたは心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」(イザヤ書一四ノ一三、一四)。
この彼の企ては、神のみ旨に反することであったため、彼は神から退けられたのでした。
「あなたは天から落ちてしまった…あなたは切られて地に倒れてしまった。…あなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる」(イザヤ書一四ノ一二、一五)。
「それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した」(エゼキエル書二八ノ一六)。
はじめこれを読んでも、なんのことかわらない人がほとんどかと思います。そこで、ここに語られていることの要旨を、短くまとめて説明させていただくことにしましょう。

悪魔は、最初神によって造られたときには、黎明の子明けの明星と呼ばれる天使でした。しかも、天使の中でも最高位に座する存在であったのです。
彼は、神の被造物にはちがいありませんが、初めから悪なる存在であったのではありません。彼は、初めは完全な者であったと聖書に記されています。
ところが、彼は光り輝く美しい姿をしていましたので、つい高慢になり、大それた野心をいだくようになりました。
彼は、天使の中で最高位にあったのですから、当然それに満足しているべきなのに、神なるキリストに妬みをいだき、キリストを押し退けて、さらにその上に立とうとしたというのです。
しかし、キリストは創造主なる神であるのにたいして、彼はいかに高貴で麗しい姿をしているとはいえ被造物なのです。キリストは命の与え主であるのにたいして、彼はキリストから命を与えられて生かされている身なのです。
彼がキリストを押し退けてその上に立とうとすることは、身の程をわきまえない思い上がりというほかありません。これは宇宙の秩序を乱すことにもなる大それた振る舞いです。彼は、そのことについての神の説得に耳を貸そうとはせず、悔い改めることをしませんでした。そのため、天から追放され、この地上に落とされたという次第です。
イエスの弟子ヨハネは、そのときのいきさつや光景を異象によって示され、次のように記しています。
「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地になげ落とされ、その使いたちも、もろともになげ落された」(ヨハネの黙示録一二ノ七〜九)。
じつはイエスがこの地上におらたとき、すでに弟子たちに、このことを告げておられたのでした。
「七十二人が喜んで帰ってきて言った、『主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します』。彼らに言われた、『わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た』」。(ルカによる福音書一〇ノ一七、一八)。
しかも、地上に落されたサタンは、その後どこで何をしているかについて、イエスの弟子ペテロが次のように記して、それを人びとに伝えています。
「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」(ペテロ第二の手紙二ノ四)。

悪魔は架空の存在か

以上が、悪魔またサタンと呼ばれるものの正体なのです。これを読んでも、悪魔の実在をただちに信じることは困難なことかも知れません。それは、あまりにも神秘的で現実離れのした話だからです。
しかし、神同様、悪魔も何分超次元的世界の存在なのですから、これはわれわれの常識や学問的研究によってさえも容易にとらえることのできない、われわれ人間とはまったく異なった領域に属することがらなのです。
ですから、これは人間の頭で考えてわかるという性質のものではありませんので、これについて知ろうと思ったら、神の啓示に待つほかはないのです。
したがって、人間の理性・知性を、物事を知りまた判断する絶対の基準とすることに固執する人びとには、関知しえないことがらということになりましょう。
しかし、人間の知恵知識の限界をよくわきまえ、神の啓示に信頼して、謙虚に耳を傾けようとする人びとにはよく分かる、またなっとくのいく話しということになるはずです。
理屈はともあれ、これらのことは厳然たる事実なのですから、そのことは聖書を学べば、疑いようのないものであることを認めざるをえなくなるのです。
さて、以上の説明によってもなお、この話を無知、また幼稚に感じる人があるとしたら、その人は聖書を、まだ大人の読み方をしていないためなのです。これを、神話やおとぎ話と読むのは、それは子供の読み方であって、これを事実と取るなら、それは聖書を、大人の読み方ができるようになった人ということができます。なぜなら、それは事実を事実として認識できた人だからです。
ですから、現代において最高の知性人と目される人の中に、聖書の記すところにしたがって、サタンの実在を認め、それについて証言している人が何人もいます。いま、その中の一、二を引用し、紹介させていただきましょう。

世界的大神学者エミール・ブルンナー博士はこう言っています。
「私は悪魔の存在を信じることに長い間反対してきた。私は、悪魔は人間の心の中、すなわち神の命令を否定する人間の意思の中に、その根源を持つているという説明を以て足りると考えていたが、次第に悪魔の思想は、聖書の時代遅れの観念に属するものではなく、むしろ反対に聖書の救いの教えの前提をなすものであるとの見解に到達したのである。
単に悪の力というようなものが存在するのみではない。それはだれでも知っている。そうではなくて、神のみわざが力をもって推し進められようとするとき、これに対して特別の熱情と力をもって阻もうとして反抗的努力を傾けようとするところの勢力、神の支配に対して計画的反対行動をとるところの人格的勢力がある。
このような悪魔の術策 、悪魔の襲撃は実際にある。聖書がそのことを我々に教え、また我々の経験もそれを教えるのである」。
これは、じつに説得力のある証言といわねばなりません。

ではもう一人、日本人の証言者をあげてみましょう。これは元東京大学の総長をされた矢内原忠雄氏の言葉です。
「どうして自分がこんなはげしい誘惑を感ずるのか、もしくはこんなに…不安と動揺を覚えるのか、思えば慨嘆にたえないこともあり、断腸の痛恨事もある。かかる事実をみれば、我らはサタンの実在という問題を考えざるを得ないのである。
天に在りし時のサタン…はミカエル、ガブリエルに匹敵する天使長の一人であった。…サタンの部下は悪鬼である。彼らの前身も天使であったが、サタンが天より追われた時、彼と共に地に落されたものと推測される。…
地に落されたサタンは、己が時の暫しなるを知り、ますます秘策を構じて、人を神より離反せしめようと企む。
戦時中にはサタンの戦時的扮装があったように、また彼の戦後的な偽装がある。たといそれが軍国的ブラス・バンドであろうとも、あるいは文化的ジャズ・ソングであろうとも、人間を神より引き離すものはすべてサタンのわざである。
我らは我らの目を単純にして、サタンの術を看破しなければならない。我らは常に目をさまして、祈っていなければならないのである」。
これをお読みになってもなおあなたは、悪魔の実在を認めまた信じる人を、無知・幼稚・迷信として蔑視したり嘲笑したりできるでしょうか。もしあれば、じつはその人こそ、知性的に狭く、浅く、幼稚な人、といわれなければならないでありましょう。
なぜなら、そのような人は悪魔の惑わしや誘惑また攻撃に、まったく無防備の人ということになるからです。

アメリカ歴代大統領の精神的ブレーンとして重用された大伝道者ビリー・グラハム博士は、サタンについてこのように言っています。
「一瞬でも、悪魔の実在を疑ってはなりません。彼は非常に人格的、現実的な存在です。そして非常に利口なのです。もし悪魔の人格性について疑問をもっておられるなら、けさの新聞の第一面をごらんになって下さい。それについての具体的な証拠を求めておられるなら、ラジオやテレビのスイッチを入れてみてごらんなさい。悪の手に捕らえられているのでなければ、思慮分別のある正気の人々が、どうしてそんな行為をするでしょうか。神の愛と神の恵みによって心を満たされている人が、毎日のように報道されている暴力や悪意に満ちた行為を、どうして考えたり実行したりできるでしょうか。
思考力が故意にくもらされ、腐敗化されているのでなければ、学問もあり、識見もある善意の人々が、世界会議に集まって、相互の必要や目的を十分理解し合うことに、どうして完全に失敗するのでしょうか。
現代の『知識人』と呼ばれる人が、悪の霊の軍勢を支配している個性化された人格的な悪魔の存在について、もっともらしい口をきいているのを耳にする時、わたしはいつも、アルフレット・J・ホーの詩を思い出すのです。

先祖が信じていたように人々はもはや悪魔を信じない
間口の広い信条の扉から彼らは悪魔を追い出してやった
裂けたひずめの足跡もその弓から放つ火の矢も

地上や空中には見当たらない世界がそのように決めたのだから

なやむ聖徒につきまとい落とし穴を掘っているのは誰だろう
神が麦をまかれるといつも毒麦をまくのは誰だろう
悪魔は存在しないと決めたならもちろんそうに違いない
だけど悪魔にしかできないことをいったい誰がするのだろう

悪魔はもう吠える獅子のように歩き回ってはいないという
もう悪魔はいないのだと衆議一決したのなら
家庭や教会や国中からその地の果てから聞こえてくる
絶え間のない騒ぎの責任はいったい誰にあるのだろう

日毎の詐欺や犯罪はどうして起こるのかそれを我々は知りたいのだ
だれかすぐに進み出て種明かしをしてくれまいか
悪魔はちゃんと締め出されたというのならもちろん存在しないはず
では誰がしているのだろう心の単純な人々はそれが知りたいのだ

イエスの弟子ペテロは、こう言っています。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽すべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(ペテロ第一の手紙五ノ八、九)。
これは、サタンの存在がこの世における現実であることを示す何よりの証言といえます。サタンは、人びとを惑わすために、いろいろ巧妙な手段を用いることも警告されています。
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に偽装するのだから」(コリント人への手紙一一ノ一四)。
まず、サタンは人びとに接近し、かかわりを持つ方法として、死人を装って現れます。よく、口寄せなどによって死者が生者に語りかけるといった現象がありますが、これは死者ではありません。なぜなら、聖書は意識を持った死者の霊というものを認めていないからです。

でも、仏教は霊魂不滅を認めているではないか、といわれる方があるかも知れません。そう思い込んでいる日本人が少なくないようですが、これはとんでもない誤解です。仏教もキリスト教と同じく、死者の霊の存在を認めてはいません。仏教は無霊魂説なのです。
そうすると、口寄せに憑依する霊はそもそも何者なのでしょうか。これは悪魔またその配下である堕落天使(悪霊)にほかならないのです。
サタンはまた、神を装って現れ、人間に働きかけます。神は世界の創造者のことなのですから、これは唯一人であって、それ以外は神ではないです。神と称してはいても、それは偽りの神なのです。フランスの思想家パスカルはこう言っています。
「その信仰において唯一の神を、すべてのものの起源としてあがめないような宗教、その倫理において唯一の神を、すべてのものの目標として愛しないような宗教は、すべてにせものである」(パンセ)。
ここで言われているように、神は唯一である以上、さまざまな神々は、じつは神ではないということになるわけです。では、それはいったい何者なのでしょうか。これは死者の霊でもないとすると、サタン以外には考えられない、ということになります。
世には多くの神、多くの宗教がありますが、世界の創造主以外は神ではなく、じつは神を偽装するサタンなのです。それは、オウム真理教をはじめ、統一協会、その他日本の新興宗教のほとんど、それに自爆テロを支持したり画策したりする宗教などもすべて、サタンから出ているものであることは明らかです。
「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。…不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらわる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである」(テサロニケ第二の手紙二ノ三、四、九、一〇)。

残念なことに、世のほとんどの人は、創造主なる神を拒み退けて、この神の敵対者サタンを信じ従っているのが実情です。
ところで、この地上には、不合理なこと、理不尽なこと、悲惨なこと、残酷なこと、理解に苦しむようなことが、あまりにも多くありすぎます。
どうして、こんなことがあるのでしょうか。ある人は、これはこの世界を造った神の責任だと考え、神を恨んだり呪ったりしています。なかには神なんかあるものか、とうそぶく人もいます。しかし、これはあきらかに、サタンに欺かれている証拠です。
聖書によれば、最初この世界が神によって造られたときには、すべてが完全であり、不幸も苦しみもなかったことがわかります。
では、いつ、何があって、どうしてこんな状態になってしまったのでしょうか。
聖書はそれを明らかに解き示しています。すなわちそれは、神に背いて天から追放され、地上に落されたサタンが、アダムを誘惑して、神に背かせ、かつ自分に従わせることによって、彼自身がこの世の支配者となっている結果なのです。
ゆえにイエスはサタンを、「この世の君」また「この世の神」と呼んでいます。(ヨハネによる福音書一二ノ三一。コリント人への第二の手紙四ノ四)。
ですから、戦争にしても、天災地変にしても、人殺しや非道残虐な行為にしても、これはすべてサタンが引き起こしていることなのです。
とくに、神を信じ、神に従う人たちを迫害して、十字架にかけたり、火あぶりにしたりなど、罪のない者をこんなにいじめまた苦しめるのは、とうてい人間のすることとは思われません。迫害者の背後には、このサタンが糸をひいて、神を恐れない人間どもを操っている結果なのです。これがサタンのすることでなくて、ほかにどんな説明ができるというのでしょうか。

悪魔の実在を疑う理由

しかし中には、神が全能であるのなら、どうしてサタンのすることをとどめないのか、とか、どうしてサタンを滅ぼしてしまわないのか、とか言う人もいますが、こうした、疑問や抗議にたいしても、神は聖書によってはっきりと答えておられます。
イエスの弟子ヨハネは、こう言っています。

「罪を犯す者は、悪魔から出たものである。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(ヨハネ第一の手紙三ノ八)。
イエスも弟子たちにこのように告げておられます。
「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」(ヨハネによる福音書一二ノ三一)。

しかも、この悪魔はいつどのようにして、この世から追放されるというのでしょうか。
「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル人への手紙二ノ一四、一五)。

すなわち、キリストは十字架の死と復活によって、サタンを滅ぼされたというのです。これによって、サタンの敗北は決定的となったのです。
しかし、この世界が神の支配に移されるのは、世の終り、キリストの再臨の時なのです。それまでは、しばらくこのままの状態が続くことになっています。
このように学んできますと、いまこの世界に起っている災害や動乱は、どういう原因また理由によるのかがよく理解できるようになるはずです。
しかも、これは政治や軍事力、また科学や経済だけで完全に防ぐことも、解消することもできないことがわかると思います。これらは、不幸や災いを最小限にとどめるためにはいくらか役立つとしても、これを完全に解消し解決することは不可能なことです。
完全かつ永久的解決は、神の介入に待つ以外にはないのです。これについても、聖書は将来の見通しと、それについての神の約束を明確に告げ示しています。

「千年の期間が終わると、サタンはその獄から解放される。…すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである」(ヨハネの黙示録二〇ノ七、九、一〇)。

悪魔についてのまとめ

この世は、神の支配を拒み、サタンの支配に服しています。それが地上に苦難や災厄の存在する理由なのです。地上の歴史は、真理と虚偽、神とサタンの争闘の歴史にほかなりません。
しかし、いまやサタンの敗北は決定的となり、彼は滅びの運命に定められています。最終決着は世の終り、キリストの再臨の時なのです。そのとき、この世界は神の支配に移されます。
ただし、われわれが神の支配を受け入れず、サタンの支配の下にとどまりつづけるかぎり、やがてサタンと運命を共にすることになるのです。
イエスは譬えによって、このように語っておられます。

「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼は栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。…
それから、左にいる人びとに言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』(マタイによる福音書二五ノ三一〜三三、四一)。
この世は神の支配を拒み、サタンの支配に服しています。それが地上に苦難や災害の存在する理由なのです。とはいえ、神はこの状態をこのまま放置することはなさいません。近い将来、神はサタンを滅ぼし、この世の支配権を人間に取り戻してくださいます。そして、神はそこへわれらを迎え入れてくださるのです。

しかしながら、われらが依然として神を認めることも信じることもせず、神の支配を拒みつづけるなら、そしてサタンの支配の下にとどまりつづけるかぎり、サタンが滅ぼされるそのとき、それに巻き込まれるかたちで、サタンと運命を共にしなければならなくなるのです。
もとよりそれは、神のみ旨ではなく、その人が自分で選びとった結果であり、自業自得というほかはありません。なぜなら、神は決してわれわれが滅びることを望んでおられないからです。
そのことは、次のことによっても、明らかなことだと思います。

すなわち、神が滅ぼすために備えておられる地獄の火(刑罰としての滅びを意味し、永遠に存在する場所の事ではない)というのは、「悪魔とその使たち(悪霊)のために用意されている永遠の火」といわれていて、それは人間のためにそなえられているものではないからです。
とはいえ、サタンの支配下にとどまりつづける者は、結局自分の選択によってサタンと運命を共にすることになってしまうのです。「愚か者よ」と聖書にいわれているとおりになるのです。

 

要点の確認

  1. 神は人間を創造する前に、神への奉仕者として、天使をお造りになった。その天使の長が被造物の中で最高の位置を占める者であった。だが、彼は自らの分を弁えず、高慢な心をいだき、神なるキリストを押しのけて、その上に立とうとした。これが、この宇宙における罪のはじまりである。
  2. 彼は、神の勧告を退け、この神にはげしい敵意をいだき、戦いを挑んだ。その結果、彼は天から追放され、この地上に投げ落とされた。これは、この世とは次元の異なる世界のこととて神の啓示である聖書によってのみ知りうることで、人間の頭で考えて分かるということがらではない。
  3. 彼は、エデンの園で幸福に暮らしていたアダムとエバを惑わし、彼らを神に背かせた。こうして彼は、この世の支配権を横領し、アダムに代わってこの世の支配者となった。この世に悪がはびこり、不幸や苦難が絶えないのはそのためである。われわれは、このサタンの存在を認めることによって始めて、この世の苦難や不幸の原因を理解し、納得することができるようになるはずである。
  4. こんにち、科学の進歩によって、人間は高慢ちきになり、目に見えない実在者すなわち、精神的、道徳的、霊的世界の実在者を否定し、これを信じなくなった。こうして人間は、心を失い、物的存在にすぎない者となってしまった。その結果、人間は神を認めないばかりか、天使はもちろんサタンの存在までも否定して、彼に欺かれたままの状態にとどまりつづけており、それに気づくことさえもできなくなっているのである。
  5. もちろん神は、悪魔の存在をいつまでもゆるしてはおられない。世の終わりに神の審判があり、そのとき悪魔はこの宇宙から永遠に断ち滅ぼされることになっている。そのときまで、この世から悪と不幸はなくならない。